第40話日の光の当たる方へ

 私、笹野原夕は機材を回収するために、久しぶりに自宅に戻った。

 そしてドアを開けた瞬間に、思わず顔をしかめてしまう。


「げえっ」


 ――あまりに部屋の空気が激変していたからだ。


(……やっぱりあの子を一人私の部屋に残してきたのはマズかったのかなあ……)


 なんてことを考えつつ、靴を脱いで、家の中を見回してみる。


 ――空気がよどんでいる、とか、おどろおどろしい……という形容だけでは済まないような雰囲気があった。

 私は思わず渋い顔になってしまう。

 が、しかし、空気は異様に重いものの、家具の配置や散らかり具合などは変わっていないようだった。


(大丈夫、まだホラゲーの裏世界的なアレにはなっていない……)


 そう思いながら部屋の奥に目を転じると、例の少年が座り込んでいるのが確認できた。

 こちらに顔を向けていないので、彼がどんな顔をしているのかはわからない。ただ、おどろおどろしい雰囲気の発生源は彼のようだ。


「……ええと、ただいま。戻ってきたよー」

「……」

「その……元気?」


 我ながら間抜けな声かけだとは思ったが、他にかけるべき言葉もない。

 案の定少年は何も答えなかったが。


 私はそろりそろりと部屋に入り、とりあえず窓のカーテンを開けて、部屋の換気を始めた。

 カーテンを開けた瞬間にひんやりした朝の風がふわりと入り込み、異様な空気が和らいだのが分かる。


 まばゆい朝日が部屋に差し込んできた。

 外を見れば、すがすがしいまでの晴天だ。

 若い女の子達の話し声が聞こえてくるのは、同僚や先輩たちだろう。


(私もここに入職して二週間目くらいまでは、あの声に混ざっていたなあ……)


 その後はあまりの早朝出勤と深夜残業を求められすぎて、他病棟の同期とすれ違うというイベントさえ起きなくなっていたけれど。

 病棟を変えれば、なんて言われもしたけれど、他の同期が病棟を変えてもらった途端に人間関係で病んで退職してしまった……なんて話を聞いていると、病棟を変えてもらおうという気力さえわかなかった。


 ──なんて話は、今はどうでもいい。



「……君の記憶、戻った?」


 私はそう言って、少年を振り返った。

 少年は座り込んだまま、こちらに背を向けたままでいる。


「……。……嫌な予感がするんだ」


 しばらくの沈黙の後、少年は、朝日に打たれた『アナタ』はそれだけつぶやいた。

 私が彼の隣まで行くと、彼は座ったまま振り返り、苦しそうな顔で私を見上げる。

 鷹のような瞳から、ポロリと金色の涙がこぼれた。朝日がちょうど彼の頬に当たっているのだ。



「……嫌な予感がする……これからもっと、もっと悪いことが起きそうな気がするんだ。

 君は何故、あの時僕を助けてしまったんだ」

「あの時……?」


 あの時というものに覚えがないので、私は思わず首をかしげる。だが、少年は首を振るばかりだった。

 日の光を反射した涙がほんの数滴、大気に舞って落ちる。

 少年は深くうつむいて、膝の上で自分の手をぎゅっとにぎりしめて言葉をつづけた。



「僕はあの時、死ぬはずだった」

「……」

「君があの『げーむ』を模した世界で、僕を助けたりしなければ」


 そこまで言われて、私はようやく少年の正体に合点が言った。私があの異世界で助けようとした人物なんて、一人しか思いつかない。


「……君が『アナタ』だったんだね」


 私がそう言うと、少年は静かに頷いた。「本当の名前は思い出せないんだ」と彼は言う。


「管理者……クマノも僕のことを『アナタ』と呼んでいた。他に呼びようがなかったから」

「そうだったの」

「僕をあのまま死なせていれば、君たちは……少なくとも核である君以外は元の世界に帰れていたんだ。余計なことをしてしまったから、僕は生き延び、代わりに新たな犠牲者が増えてしまった」

「……ええと、あの時、っていうのは……私たちが廃屋で会った時のことではないよね? あの異世界で、ゾンビウイルスのワクチンを君に打った時のことを話してる?犠牲者って言うのは蒔田さんのこと?」



 私がそう言うと、少年は涙を流したまま頷いた。

 こうしてみると、つくづく綺麗な顔立ちの少年だ。『人を模したまがいもの』と彼は前に自分のことを説明するときに言っていたが、その言い分にも納得がいく。人間と言うよりは、きれいなお人形さんを見ているみたいだ。

 あまり体を揺らして泣かないので、朝日を透かして流れる涙さえも綺麗に見える。それにしても、少年の言葉の内容はなんとなく不穏な感じだ。


「……君はあの時、死にたかったの?」


 私はふと、思い浮かんだ言葉を口にした。

 少年の表情が、どこかで見た記憶があるものだったからだ。

 どこだろう……と考えかけ、ああ、自分の高校時代だ、と、思いが至る。


 あの時の自分もこんな顔で朝日を浴びて、トイレ前の鏡を見ていた。

 ――助かってしまったことに少しだけほっとしているけれど、助かってしまったことそれ自体が悲しくて悲しくて仕方ない顔だ。



「……分からない……だけど、僕は消えるべきだったんだ。友達が元に戻らないことを嘆いて、戦って……死ぬべきだったんだ。

 沢山の命を奪った。沢山の人間から意志を奪った。記憶を奪った。

 それはもう、僕一人分の命でも記憶でも償いきれないほどの、大きすぎるほどの罪だ」


 私は彼の話を聞きながら、荷物を置いて少年の隣にしゃがみ込む。そうすると目線が同じくらいの高さになった。


「異世界を作って、維持することが目的だったんだよね?

 自分が一体何のためにそういうことをしていたのか、思い出せる?」

「……それが思い出せないんだ。それだけが、ぽっかりと抜け落ちて思い出せない。

 一番大切な宝物を、僕は失ってしまったんだ。

 それが一体何なのか、人なのか物なのか、それさえもわからない。それを取り返すために無我夢中になっている間に、こんなにもたくさんの人を巻き込んでしまった」

「なるほど」

「……僕は消えるべきだったんだ」


 少年は絞り出すような声でそう言って、思い切ったように私を見た。怒っているとも、悲しんでいるともつかない表情をしていた。


「消えるべき人なんて、いないよ」


 私は静かに反論するが、少年は下唇を噛んで、首を振る。


「そんなことはない……僕は消えるべき罪人だったんだ。

 大切なものが何なのかも思い出せない。

 それなのに、『異世界を作らなければ』という執念だけは覚えていたんだ。元の世界には、もうどうあっても帰れないし、大切なものが何だったのかももはや思い出せないっていうのに!!」


 少年は涙の溜まった目を見開き、私の肩を掴んで、声を張った。


「僕は! ……僕は、自分が何を守りたかったのかも忘れて、ただ死に物狂いで『何か』のために人を殺し続ける怨霊のようなものだったというのに、助けてなんて欲しくなかったのに……どうして!」

「……医療職にそれを言われてもねえ」


 そう言って、私は苦笑交じりにため息をつく。


「死ぬかもしれない人を全力でこっち側に引っ張り上げるのが、私たちの仕事だもの。

 善人だから助けるとか、悪人だからわざと見殺しにするとか……そうやって人を裁くのは、私たちの仕事じゃない。

 これも綺麗ごとだとは思うどね。だけど」


 と、私は言葉を続ける。


「……だけど、いつまでもそこに立ち止まっているわけにもいかないでしょう? 過去を悔いていても仕方ないよ。これからのことを考えなきゃ」


 私は言いながら自分の両手に置かれた少年の手に自分の手を重ねる。


 例えば、暴飲暴食が過ぎて2型糖尿病になるだとか、


 タバコを吸いすぎて日々の呼吸も苦しいCOPDになるだとか、


 お酒を飲みすぎて毎日ぐったり気持ち悪い肝硬変になるだとか、


 社畜をこじらせて再起不能なまでに体力を失い、毎日八時間働けない体になるだとか……。


 人生の痛みを紛らわせるために、『良くない』と言われていることをやりつづけて、自分の意志ではやめることも出来なくて、自分で自分を追い詰めてしまう。


 ……そういうことは、本当に誰にでも起こりうることだ、例外なく、誰にでも。


 だけど、それをいて立ち止まっているわけにもいかない。

「お前は悪いことをしたんだ」と、医療者が弾劾だんがいすることも間違っている。


 大事なのはこれからのことだから。



「……あのね、これは仲良くなった精神科病棟の看護師さんから教えてもらったことなんだけど」


 数年前の実習で聞いた記憶を掘り起こしながらも、私は少年に向き直る。


「死にたいくらい悲しいことがあった時、自分なんかいない方がみんな幸せだ、ってくらい、今の君がつらい時には……何かを決断することを、二年だけ先延ばしにしてほしいの」

「……」

「二年後に、また答えを教えて? 今はまだ、消えることを選ばないでほしいの」

「……二年も生きていられるかな、僕は」

「生きていられるかもしれないし、生きていられないかもしれない。

 こんなご時世だから、君だって私だって、誰が次に死ぬかなんてわからないけれど」


 そう言って私は目線を部屋の中にさまよわせて、窓の外から差し込む朝日を見た。


「……でも、おねがいだから、今だけは自分なんか消えた方がいいなんて考えないで。とにかく先延ばしにするの。

 それだけのことで、運命が大きく変わってしまう、なんてことも、本当によくあることだから」

「……」


 私が少年に目線を戻すと、彼は納得のいかない表情をして黙り込んだままでいた。


「……しっくりこない?」

「君は僕のことを何も知らない……何も苦労したことのなさそうな顔をしているくせに」


 その言葉に私は思わず噴き出した。少年が怪訝けげんそうな顔になる。

 両肩から少年の手を離しながら、自分の膝の上に置いた。


「……うーん。苦労ねえ……そうだなあ。君になら言ってもいいかなあ」

「なに」


 と、少年は顔を上げる。私は微妙な顔で頬をかきながら、


「私ね、高校の頃……って異世界の人には分からないか。

 十七歳の時に、自分で自分を殺しかけたことがあるの」

「……じ、自殺?」


 少年はぽかんとした表情で目を見開いた。私がそういうことをする人間には見えなかったのだろう。見るからに能天気そうなやつだとよく言われるから。


「言い切るわねえ。まあ、そういうことをした……と言っていいのかしらね。

 家も学校も荒れに荒れていてね? 毎日をやりすごすっていう、ただそれだけのことが、本当に本当に苦しくて。

 アフリカでストリートチルドレンをやってるような人たちに比べると大した苦労じゃない、とも思うんだけど、それでも全身が帯状疱疹たいじょうほうしんになったり、体重が十キロくらい落ちたり、自分としては苦しかったわけよ」

「……」

「問題はこじれ切っているのに、何一つ解決できない自分が本当に憎らしくて、無力だなーって絶望しちゃったりもしてね」

「……核が自殺するなんて話、初めて聞いた……力があふれている奴は、大体が人や運に恵まれた人生を送るものだから」


 と、少年が半ば呆然としたように言う。


「そういうもんなの? うーん、私の場合、そう見えるからこそ皆に頼られちゃって、爆発しちゃった感じなのかなあ。

 だって、大人も子供も『自分が一番つらいしあいつが憎い、なんとかしてくれ』みたいなことばっかり言って、なぜか私を仲介役にしようとしてくるんだもん。

 あの時はみんな大っ嫌いだったし、みんなをどうにもしてあげられない自分のことだって、大嫌いだった。腹いせにゾンビを虐殺することくらいしか楽しみがなかった、暗い高校時代を過ごしましたよ」

「……どうやって、死のうとしたの?」

「それは、内緒。言ったらマネしちゃうかもしれないでしょ? 君」


 私は笑って口元に人差し指を当てて首を振る。そしてふっと笑みを消して、


「……絶対にね、事故にしか見えない方法で死のうとしたの。

 家族や友達は、今でもアレは事故だったって思ってる。可哀そうに、運が悪かったね、生きててよかったね、って言ってくれている。

 ……だけど、本当のところは違うの。私、全部嫌になって、投げ捨てちゃったんだ」


 と、言って、私は小さなため息をつく。


「――死のうとして、駄目だった時、『運良く助かったよ、よかったね』って言われた時……本当に怒ったし、悲しかったよ。

 どうしてそんなことをしてくれたんだ、消えるままに放っておいてくれればよかったのに……って、今の君みたいに思ったよ。沢山泣いたし、沢山荒れたし、当時私をみてくれた医療スタッフの皆さんには、本当にゴメンなさいって思ってる」

「……」

「だけどね、そんな状態からのスタートでも、二年経つとやっぱり色々と変わってくるのよね。


 介護負担がなくなったり、荒れていたお兄ちゃんの進路がかろうじてどうにかなったり、家族をひっかき回していた親戚の人たちにお金が入ってどこかに行ってくれたり、クラス替えで滅茶苦茶頼れる友達が出来たり、オシャレを頑張る余裕が自分の中にも出来てきて、それなりの見た目になれて、パリピだなんだーってバカ騒ぎ出来る友達が増えたり……とかね。


 ……二年経った時にはもう、これはこれでいいやって気持ちになってきたというか、死んだ方が絶対にいいとまでは思わなくなったのよね。

 自殺が問答無用で絶対悪だって話を聞くと、今でも当時の自分の気持ちが戻ってきて、何となーく目つきがけわしくなっちゃうけどね」


 そう言って、私はおどけたように笑う。


「看護実習なんてさ、大変だけど本当に楽しかったよー。

 指導教官や教育担当の病棟看護師さんがサイコパスだとさ、もうガチで吐く子が続出するくらいキツいし、大体みんなストレスで激ヤセするんだけどね、でも、だからこそ逆に、皆で支え合うのが楽しかった……っていうか。

 当時の実習仲間に楽しかったなんて言ったらぶっ飛ばされそうだけど、でもあれはもし私が死んでいたら得られなかった、大切な時間だったんだ、私にとっては」


 私の話を、少年はじっと聞いていた。薄暗い部屋の中で、黄色い瞳だけが浮かんで見えた。

 いつのまにか朝日は入らなくなっている。時間が経って、太陽が動いてしまったのだ。


「……僕はまだ……あの世界は、まだ、どうにかなるんだろうか……」


 と、少年はぽつりとつぶやいた。

 どうにかなってほしい、という思いが、ほんのひとかけらだけ見えたような気がした。


「……分からない。だけど、確認しなきゃいけないよ。

 君の大切なものを思い出す手がかりが『あちら』にはあるかもしれないし、私を勝手に助けて、勝手に死にかけている蒔田さんも連れ戻さなきゃいけないしね。


 ……さあ、日の当たるところに出よう。前に進むの。


 私ばっかり話しすぎちゃってごめんね。あちらの世界で、君の話もたくさん聞かせて?」


 そう言いながら私は立ち上がり、家の戸締りを始める。少年は目を瞬いて私を目で追っていた。


「……外に、出るの?」

「うん。これからエリカさんちに行くことになってるよ。

 ほら、三田村さんも合流してくれることになってるでしょう? ここ、こっそり彼氏を連れ込む子はいても基本的に女子しか入れないから。一応療養中の身分だし、目立つことをあまりしたくないのよねえ」


 私がそう言いながら窓を閉めて振り返ったのと、少年が立ち上がったのは、ほぼ同時のことだった。

 鷹のような黄色い瞳が、意を決したように私を見ている。


「わかった。

 ……決着をつけるよ。自分のことにも、アンタのことにも。……アンタの言う通り、ここでただ座り続けていることは出来なさそうだからね」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る