第6話

 休憩室のソファに、先ほどの美人秘書さんが使っていたコメント発信装置(正式名称がわからないので、便利のためコメ機と呼ぼう)と似たようなものが設置されている。

 こっちの方は指で操作するのだが。

 視線による操作はまだ慣れない人が多いための配慮か、それとも企業秘密みたいなものなのか、まだわからないのである。

 ともあれ。

 「白々、お前の膝の上にいる奴、なんとかならないのか」

 「ただいま膝小僧にしましたよ。こうにも安らかに眠っているなんて、きっと眠り心地良いというわけですね」

 「三十路も過ぎたおっさんが小僧であってたまるか。そもそもお前はあいつを眠らせてから自分の膝の上に乗せたんだろう。どんな悪趣味かよ。お前は何を企んでるんだ。あと博士に会えるのは今日で最後ってどういう意味だよ」

 「そう焦らないでくらさい、江口さん。この子を眠らせるのは単に貴方と話し合うために決まってるでしょう。おっさんって言っても、それはあくまでも貴方達の基準で決めたものでしょう。我にとって貴方達皆小僧に見えますが。それについて、四ヶ月前香港で我の昔の姿を目撃した貴方、一番ようくわかってるはずなのでは?まあそれはともかくとして、こういうこと滅多にしませんが、江口さん、今貴方がしている大いなる誤解を、この我が親切に指摘しましょう」白々皐月が膝の上にぐっすり眠ている無序の頭を撫でながら話す。

 「大いなる誤解?そりゃ普通だろう。皆が誤解をしている。誤解をしながら生きていく。むしろ誤解がない方がおかしいと思うぜ」コメ機を弄る。

 「自明するのは何よりです。が、皆がしていることは普通と言えても必ずしも正常なこととは限らないですよ、江口さん。大いなる誤解は常に小さな誤解で構成されています。誤解がまだ小さい時に無視されたから最後はこうなるーーまるで利子のようであります。ですから、その誤解を解けるため、あるいは退けるため、まずは小さな誤解からしなくては」

 「小さな誤を解ってなに?言っておくが、お前のその姿、あの時、きっちりと網膜に焼きついたぜ」

 「今は?」

 「今は?」鸚鵡返しながら首をかしげる。

 「もし我が貴方が想像していたモノなら、なぜ今でも会えると思います?もう二度とあちら側のこととは関わることないはずに貴方は、今ここで、この謎の犯罪臭を匂う絵面を、ちゃんと自分の目で見えているのに」

 「確信犯かよ」

 絵面的な問題はともかく。どうせ映像化する機会がないから。

 なぜ白々を見えてるのか、さっきからずっと考えていた。

 記憶へ潜る。記憶に遡る。記憶を探す。

 記憶が蘇る。

 三月、僕が香港へ行き、波瑠七を探す時の出来事である。

 あの早朝、あの不気味な光景が、もう一度湧き上がる。

 霧。山の輪郭。霧。コンクリートのジャングル。

 霧。ビルの狭間。霧。カラスの鳴き声。霧、路頭に伏せた人の形。

 人の形を保つ、人の骨でした。

 保てるそのわけは、血管や筋肉などの組織は残っている、否、再生しているから。

 骨格筋が。心筋が。平滑筋が。内臓筋が。

 後頭前頭筋が。側頭頭頂筋が。胸鎖乳突筋が。三角筋が。僧帽筋が。大胸筋が。広背筋が。上腕三頭筋が。上腕二頭筋が。前鋸筋が。腹直筋が。外腹斜筋が。大腿筋膜張筋が。大腿直筋が。大臀筋が。縫工筋が。大腿四頭筋が。腓腹筋が。前脛骨筋が。ヒラメ筋が。

 再生している。

 やがて肌が全身に覆う。

 心臓の鼓動が聞こえる。それは多分、自分のものなんだろう。

 体が硬直する。これも自分のことに間違いない。

 呼吸し始める。両方とも。

 行動する条件が揃える。

 刺激によって行動する。

 さらに刺激を求める。

 刺激を回避する。

 刺激を感じる。或いは、感じられる。

 生きることを、感じる。或いは、

 生きる実感を、感じられる。

 そして、本能が目覚める。

 捕食者としての本能も。捕食される側としての本能も。

 追う。必死に追う。

 逃げる。必死に逃げる。

 必死ーーいつどこでなんの形ではわからないが、必ず死ぬ。

 それはきっと、生きるうちに常に心懸けるべきことであろう。

 心懸けて生を求める。

 一所懸命でありながら、一生懸命でもある。

 だから逃げた。

 僕は、その場から逃げた。落ち延びた。

 逃げ出す際にかろうじて目で捉えたのは、それの背中に刻んた「白骨」の二文字だった。

 「けらけら。愉快愉快。さすが絵描きを生業としている者、回想まで画面感半端ないですね。で、そこで終わりですか?」

 「ああ。あの時は僕の命を狙ってるわけだよな。死ぬかと思った」

 「あれはあれで一つの誤解であったわけですね。まあ実際のところ、死んたようなモノだったんですよ、裸だけではなく骨や内臓まで見られるなんて、こっちだって死んでもおかしくない気分です。それで江口さん、結局のところ我を何だと思いましたか?大体予想がつくんですが、やはり実際に聞いてみないと」

 「白骨夫人、だろう」

 「ふん。死んだというのに?あの小心者たる猿神が何度も確認したはずなのに?」

 「僕もありえないと思うが。しかしどうだろう、お前ならなんとかなるだろう。生き残るためなら」

 「なんとかなる、ですね。これこそが誤解、もとい勘違い、或いは思い込みの根本たる原因ですよ、江口さん。確かに我々のような非常識な存在が時々貴方達が理解できないことを成し遂げることができますが、しかし江口さん、あれもあれでちゃんとした理屈が通すわけです。すなわち、いくら神通力を持つと言っても、道理を逆らうようなことは到底為す術のないことです。いかがです?江口さん、この一年間を経て、もう痛感するほど分かるようになったはずでは?」

 「長春真人が言った『衛生の道あり、されど長生の薬なし』とは同じことだね。長生きができても、不老不死はできない、宇宙の法則を逆らうことができない、みたいなことかな」

 「物分かりが良いところ、とても助かります。まああの方が言っていたのは宇宙の法則ならぬ自然界の法則ーー我々が住んでいるこの自然界の話です。宇宙の範囲はもっと広い、故に変化の類型はもっと多いんです。『宇』とは空間で『宙』とは時間のことですーー天地を指してるという説もありますが、その天地合わせても空間のうちになるから、そちらの宇宙の方は不完全でありながら不自然とも言えます。しかし、間違いとは言えませんーーあくまでも勘違い、認識範囲の差だけですから。対照物の価値は想像よりも高いものですよ、江口さん。善と悪は常に対になるのと同じく、醜いものがなければ美しいものもありませんし、駄作がなければ傑作の良さも認められないし、戦争がなければ平和の珍重さも認識されないわけですーーまるで生死のよう。どちらの方が価値あるか、或いはどちらの存在が正しいか正しくないか、そういう問題ではなく、両者は同じではない、それだけのことです」

 正論、かな。

 否、正論だ。が。

 「白々、お前今日ここに来るのはおっさんを太ももに乗せながら僕と白々しい禅問答するためではないはずだろう。その話、別に僕がお前を見えることの説明にはなってないぞ?博士のことも。同じではないって、お前は白骨夫人ではないなら、まさか白骨さんとでも言いたい……あっ」

 「お察しの早い方ですね。愉快愉快」けらけらと笑い声をあげる。

 そうか。そういうことか。

 白々皐月、彼女は白骨だ。夫人じゃない方。これは盲点だった。

 だとしたら『彼』とでも呼ぶべきだが、波瑠七によると、あちら側で性別という概念がないから別にそう細かく分別する必要はないが。

 しかし、それでも白々はあちら側であることは変わらない、裏を返せば、人間である僕たち(博士と無序、そしてさっきほどの秘書さん)は彼女を見えることについてまるで説明がつかないである。

 「人間に見えるのは、人間とその作った物しかありませんーー今の我は、江口さん、貴方の奥様と同じく、元人間ではなくとも、今現在、人間になったわけです。そのわけについで、我が教えてなくとも、いつか知るようになるでしょう」

 「お前が……人間に……」なるほど。ようやく納得できる。「それで、ここに来るのは弐口博士に会うためのも嘘ではないわけか」

 「我が戯言も虚言も吐くことなんかありえませんわ。今この肉身で吐き出せるのは精々血やヘドくらいなもの、あと、唾液、もとい痰かな。濃いのなら濃痰というべきでしょうか」

 「お前らの世界でこれ、結構流行ってるのかな?なんだこれ、体液ジョーク?」

 「スピットジョークと言うんですけど。受けなさそうですね。これは文化圏の違いの所為でしょうか。淋しいなあ、いつかこちらも流行すれば良かったのに。スピットラッシュみたいな感じで。なんなら我がなんとかしましょう」

 「ゴールデンラッシュみたいな感じで言うな。スピットラッシュじゃなくてスピットショックだろう。カルチャーショックしか感じられないから諦めろ」

 もし流行るようになったら、それもそれで刺激が満ち溢れような時代だな。

 周防先輩はどうかは知らないが、無序の奴が喜びそう。あと波瑠七も。鳥皇ちゃんも。それから姉さんも。ワクワクノリノリで。

 うわ、よく気ついたら僕の周りとんでもない奴ばっかりだ。僕の人間関係、累卵の危うきそのものだ。

 いけないいけない。このままでは危険だ、危ないんだ、いつかまた狙われるかもしれない、そして潰されちゃうだろう、僕らの平和たる日常生活が。

 よし、皆を守るために、ここで江口東は身を挺してなんとかしないと。

 「白々、同じ人間同士として、一つだけ善意による忠告するんだが、こういうジョークは人に向けて今後一切言わないようにしよう。ICPOの連中に遭ったらタダじゃ済まないぜ。ルパン三世でも逃げ切れないから」

 「郷に入っては郷に従う、ということでしょうか。わかりました。では今後はPTAジョークで。あまりにも馬鹿馬鹿しいので」

 「そっちもアウトだ。お前らPTAになんの恨みがあるんだよ」

 「困りますね。馬鹿馬鹿しいことだからジョークになるというのに」

 「たかが二つのネタがダメ出しされたことで勝手に困るな。冗談のつもりで人間社会の組織を揶揄するな。酷い目に遭うぞ。ったく、お前らって、人間社会にそこまで不満でもあるのかい?昔はともかく、今は人間の身だぞ?」

 「元々人間社会に満ちてる不満から誕生されたようなものですから、我々は。わかりました、今後はなるべく回数を控えておこう、ストレスが溜まりますが」

 「ストレスを感じるのは人間社会に生きる伊呂波みたいなもんなんだ。初心者はちゃんと覚えろ」

 「わかりました。帰ったらすぐに部屋を整理して手紙を書いてそれから土台と縄を用意します」

 「あれは上達者達のやり方だから真似しなくても良い」

 「なるほど。江口さん、未熟者たる我に懇切丁寧に説明してくれて、誠にありがとうございます。今後人間の後輩として、まだまだ先輩に色々学ぶことが多いから、何卒宜しくお願い致します」

 「」

 

 


 「そろそろ時間ですよ、愉快な時間はいつも短いでので」

 「あっ、本当だ」

 「では、我はこれで失礼します」

 「あれ、博士に会えなくて良いの?」

 「もう既に会えたから」

 そうか。僕たちより先に会ったわけか。

 「縁があれば、まだ会おう」

 「ああ。縁があれば」


「縁といえば、今日は七夕ですね。江口さん、短冊に何を書いたのでしょうか」

 

 自動扉は子供サイズの形に開き、そして閉じた。

 無序はまだ目覚めていない。

 

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当人の寝言 Tales 太湖仙貝 @ckd3301

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