五ヱ門は喋らない

 五ヱ門は喋らない。口があっても、無口である。

 

 口は喋るだけに存在するわけではない、と彼は思った。生き物にとって口とは食料、もとい栄養を摂食ためにある構造であって、そもそもそれだけでは発声できないのである。たまたまその声帯という発声器官がその中にあるだけというわけだ。セミだって鈴虫だって口と発生器は別々にあるのに。蚊や蝿などの騒々しい声も、あくまでも飛行するとき羽の振動による結果である。例えるなら、飛行機のエンジンの騒音みたいなものである。飛ぶことで飛行機の価値が実現するのと同じよう、喋ることは人間のすべてではあるまい。意味さえ通じれば、なぜエネルギを消耗して声を出せる必要があるのか、と遠くにいる鹿の姿を見つめながら、彼はそう疑問していた。 

 

 鹿は、純白だったのである。発光でもしているかのように、真っ白。

 

 森の中で迷子になった彼は、もちろんのところ、自分はどこにいるということはわからないのである。身のいる場所をわからずことは、一般的には大体の位置はわかるはずなのに。例えば、渋谷駅で迷っても、せめて自分は東京にいることくらいはわかる。この場合の『大体の位置』とは東京の町である。東京の地名に詳しくない方にはその位置は日本の東にある都市、とさらに広がる。方位さえ分かっていれば問題なくいつか出られるはずだが、残念ながら、彼にはそうはいかなかった。なぜなら、彼の場合、その大体の位置というのは、足元にある土、つまるところアースのことーー戦闘機の墜落から生き残ったわけである。今時なら、GPSなどを使えば、すぐ解決できることだが、残念ながら、この時代ではまだそう言う技術が誕生する前の話であるから。そして、無線などの通信も、戦闘機と共に破壊された。生き残ることは、奇跡と言っても過言ではない。

 

 生きること自体は奇跡みたいなものだが。

 

 ソルジャーたる彼は、上からの指令に従い、目的地を知らないままに三人の仲間と一緒に戦闘機に乗せられ、途中で強烈たる嵐に遭い、やがて方位を判明する設備もすべて無効化され、飛行士が必死に方向転換を試みた挙句、こういう羽目になったのである。衝撃を受けた途端、彼は一時的に気絶した。

 

 再び両目が開く時、目の当たりにしたのは戦闘機の残骸と、この密林だけだった。まだ夜に入ってない。それから温度や湿度なども感じられない。まだショックの状態から回復していないからかもしれない。そして、汗だくの状態になっている。

 

 寝汗かもしれないし、怯えによる冷や汗かもしれない。

 

 周囲を色々と確認したが、生き残ったのは彼しかないようだ。 

 

 生きてさえいれば幸いなんかと、彼はそう思わない。強いていうなら、いつものように寝起きするときと同じ嫌な感じだった。眠ることは一番心地良い。その感覚は、安心感そのものと言っても過言ではない。眠る間に死んで欲しかった。こんな有様に比べて、生きていても、夢を見ることの方がまだマシだ、と彼が考えていた。いくら失敗を重ねても、恐ろしいものを見ても、惨めな遭遇を体験しても、最後は無に帰す、すなわちリセットすることになる。この点について、死ぬことも同じだが。

 

 彼は再び周りを観始める。まだ夜に入ってない。

 

 森の瘴気が重い。それで無闇に死を連想したのかもしれない。

 

 人が死ぬというのは、実は夢から覚めたことかもしれない、と彼は思った。

 

 そう思った理由は、実に簡単であるーー実感がないから。死についての実感なんてことはありえない。感覚とは、生きる時しかないものである。瀕死体験というものの、その体験があくまでも擬似で、本物の死亡とはもはや別物でしかない。一度死んだら再び戻ることはない。ゆえに、世の中に残った死云々についての体験談は全部ペテンだと、彼は結論を出た。ゴーストなどもいるわけがない。いるのは、生きている人と、他界へ逝った者を観て、生きることを恐れるようになった人だけだ。妖怪変化云々は、わけのわからない現象とそれを観るときの心理を擬人化した結果にすぎない。死亡への恐怖があるからこそ、人は生を実感し、いろんな危険を回避し、やがて生き続けることができる。夢の中で今は夢であると自明することが少ないのと同じーー夢だと分かってしまう瞬間、大体の人は目覚めてしまうから。しかし、彼がその実感がないのは、別に死への恐怖が薄くなったわけでもなければ、真実味の帯ない夢を観たわけでもないーー単なる記憶喪失だけである。今までの人生、断片しか思い出せない。しかし、その断片でさえ、あまりにも曖昧模糊で、この世のものではないようにさえ感じる。自分にまるで関係がないとも言える。

 

 事故により衝撃の所為かもしれない。否、それしか考えられない。

 

 さっきまでの情報は、彼が自ら状況を認識し、観察し、確認し、それから自分が遭難したという事実を把握したわけである。煙はまだ上昇していることは、まだ長い時間うが経ってないころである。夜ではないことだけは幸いと言えるかもしれない。眠っているうち虫や野獣などの食料になる可能性が極めて高いから。生きることは嫌いが、生かされる以上、生き残る義務がある、と彼は思った。それから、生きることを決意した。死ぬまで生きることを決断した。

 

 知らない鳥の鳴き声がする。凄じい声だった。


  五ヱ門は空を観ようともしなかった。

 

 呼吸による体の起伏は見えるが、やはり無言のまま、喋らないのである。

 

 彼は横に倒した巨樹の幹に座ることにした。まず今夜を過ごせる対策を練るつもりのようである。

 

 記憶というものは、実にいい加減なものである。自分に関する情報は一切思い出せないくせに、なぜか認識や思考を支えるだけの知識量が残っている。喋る相手がいないとはいえ、言葉はちゃんと覚えてる。その喪失とかの境は、一体どこにあるだろう。と彼は手中の懐中時計を弄りながら、不意に考えた。蓋の裏に飾った写真がある、綺麗な女の子だった。自分の恋人かもしれない、娘かもしれない。あるいは、姉か妹かのどっちかもしれない。顔が見覚えがあるが、やはり思い出せない。


 鹿は近寄った。

 

 綺麗な角が生えている。

 

 鹿は、彼の袖を引っ張る。何か彼にして欲しいことでもあるかのような仕草だった。

 

 基本的には温順たる動物だが、下手に反応しない方が良い、と彼は思った。

 

 反射弓が長いせいかもしれないが、今更脇腹が薄々痛みを感じるようになった。痛みも生を実感させる。今はその生のため、目前にいる来訪者が興味を失うまでもう少し我慢しようと考えた彼が、今自分の方がもっと来訪者という立場に相応しいことを気づいていないようだ。

 

 鹿はますます力強く引っ張る。

 

 彼は動かない。

 

 だから突き飛ばされたかもしれない。

 

 痛いとしか考えられなくなった彼が、反応に迷う暇もなく、鹿の背中に乗せられた。

 

 かなり乱暴な形であるが。これでも優しい方だろう、鹿の中では、と彼は考えた。さっき感じた痛みは鈍感によるものではなく、予感だったかもしれない。飛ばされる前のことはともかく、そのことの直接なる原因は自分の鈍感のせいだが。


 彼は森の中へ突入した。正確に言うなら移動するのは下半身と密接する動物の方だが、運動学で彼と鹿は一つの物体として見做すことができるから、そこまで問題のある物言いでもあるまい。


 五ヱ門は上下に起伏しながら、前進してゆく。躰に感じた疼きのせいかもしれないが、彼は喋らない。呼吸だけはしている。


 リズムに合わせて、その木々をすり抜けてゆく。


 木々が両側に拡散しているように見えるほど疾い。


 足と地面が接触する。躰と枝葉が摩擦する。


 鹿は鳴きだす。


 鳥の声が聞こえる。


 水の音が耳にする。


 水。流れる水。


 川。流れてゆく川。


 止まる意思まるでない。止まるような意思がないから。


 鹿。走ってゆく鹿。


 止まる意思まるでない。止まらない意思があるから。


 跳躍する。


 両者の躰が共に宙に浮かぶ。ごく短い間の無重力を体験する。


 集中する。集中することのできない状況に集中する。


 頭は、この鹿のように、真っ白になった。


 一瞬の静寂を味わう。


 着地する。重みを再び体感できる。


 その瞬間、音は耳元で爆発する。


 川が流れる音。


 足と地面がぶつかる音。


 躰と枝葉が摩擦する音。


 呼吸をする音。汗を流す音。


 音は、物体の振動により発生し、発散するものである。鼓膜の振動により受信して、信号に変換する。英語で言えば、サウンドのことである。


 心臓の鼓動は、鼓膜の振動で聞こえたのか、それとも骨の振動で聞こえたのか。


 声は、声帯の振動により発生し、発散するものである。生き物、あるいは人間が発信源であるゆえ、音と区別される。英語で言うなら、ボイスのことである。


 心の叫び声は、心の鼓動によるものなのか、それとも心の鼓動そのものなのか。


 ハートのスクリームは、サウンドなのか、それともボイスなのか。


 音は情報。外界を認識する情報。情報は頭に入力し、意志の形成を促進する。


 声は証拠。外界との交信の証拠。証拠は自らの存在を示し、そして再び意志に帰還する。


 その意志が、生命の律動。ライフのリズム。


 五ヱ門は聞こえるが、喋らない。力がないせいかもしれない。


 入力できても、出力はしない。エネルギーが足りないせいかもしれない。


 目が曇る。朦朧する。


 彼は、鹿の動きに合わせるうち、だんだん眠りに入った。


 鹿はそのまま走ってゆく。彷徨う様子まるでなく、目的地に向かってゆく。


 夜になっても、走り続く。


 やがて森から抜き出す。


 とても広い草原に入った。


 そして、ようやく白い巨石の元に止まった。


 石は、人の顔のように彫刻されていた。


 月の光を浴びて、より一層神秘的な雰囲気が出る。


 鹿は背中にいる彼を、そこで降ろした。


 五ヱ門は喋らない。眠っているからではない。五ヱ門は、鹿の名前であるから。


 彼は、再び目覚めることもなく、そのまま眠っていた。


 夜風と同じく、すやすやと。


 黒い夜空の中で、白い月が輝いてる。黒い大地の上、白い巨石が佇んでいる。


 白い鹿は、黒い肌をしている彼を、静かに眺めていた。


 五ヱ門は鳴きだした。鳴きだしても、やはり喋らない。その必要がないから。


 目前にいる彼が、一体夢の中で何を喋っているだろうと、考えているかもしれない。

 

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ユメノキュウサク Story About Dreams 太湖仙貝 @ckd3301

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