二人三脚

 四十八願安奈はロシア人と日本人のハーフである。

 苗字は日本でかなり珍しいだが、下の名前、いわゆるアンナという名は、ロシアではよく見かけるような名前である。漢字文化圏での姓氏で例えるなら、中国の李、陳や日本の佐藤、鈴木みたいな感じである。とはいえ、諱の風俗が残ってない限り、珍しいというのは所詮他の苗字との間の数の差にすぎない。西尾維新の作品でもあるまいし。

 0から1が誕生するのと、1からさらに数を増えるの両方、一体全体どっちの方がより『珍しい』という定義に相応しいだろう。

 などと考えずつ、吉川良子は隣にいる金髪青眼の同行者を凝視する。お人形さんよりも綺麗に見える人間は本当にいるんだなと良子は感心した。

 「アニャ」良子は安奈を呼ぶ。

 「何が、ダメなの?」安奈は首をかしげるような仕草をする。日差しで顔の輪郭が一層美しくように見える。

 「違う違う、韓国語の方じゃなくて、安奈ちゃんのことを読んでたんだ。ヨーロッパ系の人間がアジアの文化圏の言語にそこまで敏感するなんてどうするんだ。それとも、あたしのイントネーションがおかしかった?もしそうならごめん、もう一度教えてください」良子は真面目そうな顔をする。

 「今のは、ジョークだったが、どうやら失敗したらしい」前進しながら前を見つめる安奈。「イントネーションの方が、おかしいなんてこと全然ないわ。変に長音をつけるよりずっと自然で、むしろそっちの方が私にとって親切感のある呼び方だわ」

 「じゃあ、これからもそう呼ぶわね。ちなみにさっきのジョークって何ジョーク?コリアンジョーク?もっと範囲が広いなら、アジアジョーク?それともアニャちゃんの故郷にあるロシアンジョーク?」

 「さあ。ジョークの名前はその面白味とは全然関係ないと思うわ。いや、むしろ名前のあるジョークって、大体面白くないとさえ感じるわ。そうね、さっきの失敗作、私が言ったので、カチューシャジョークと命名しましょう」安奈は微笑む。

 「失敗なんかないと思うわ。少なくとも、聞き手のあたしに、それは何をネタにしたのかを理解したけれど」良子も視線を前方に向かう。

 「駄洒落としては成功と、言いたいかしら」安奈は速度を緩め、良子もそのペースに合わせる。「結局のところ、普段私たちが言う失敗と成功も、その程度のことだね」

 二人とも山道に沿い、歩きし続ける。時には子鹿の姿が目の当たりにする。

 「アニャちゃんの言葉、なんだかいつもお年寄りさんみたい。女子大生の言うことには全然聞こえないわ」

 「お年寄りくさい、と言わないね。本当に良子ちゃんは良い子だね。名前通りになれる人間はそうそういないから」

 「名前通りになれるほど純粋なものは、将棋の駒くらいかしら。あたしにはそう言う生き方はできないと思う。駒になるのも、駒を動かすのも」良子は返事する。

 「貴女は人間ですからね。将棋の駒には自分たちが名前がある自覚なんかこれっぽっちもないでしょう。お天道さまも、そこらへんの石灯籠も、隣にいる木々も、そして今目前で通す子鹿も、みんな自分の名前を知らない。自分に名前があると自覚し、自分の周りに名前を付けるのは、人間しかできないこと。あるいは、人間しかしないこと。頭が悪いから」

 「あたし、頭が悪いとは何かはよくわからないけど。頭が悪いからかもしれない」

 「それこそは賢さの証拠だわ。わからないことがあるとき鵜呑みせず素直に言えること」

 「実感がないね」素直に思うままのことを喋る良子。

 「専門知識を学んだことがないのに、何かの技術を身につけた者は、他の人から天才と呼ばれる。コツコツと知識を暗記し、練習を重ね、かろうじて同じことをできる者は、人々は努力家と呼ぶでしょう。外から観察すれば、苦労の少ない方が当然頭が良いと認識する。それと同じことで、自分に名前があるのを知らなくても生きられる生物たちと、万難を排し物事を名前で定義しなくては生きられない人間、後者には優れた努力家という肩書きの方が相応わしいでしょう。それにしても、考える葦と考えない葦って、どっちもどっちで葦として生きているから、別に優劣がないと思うわ」

 「あたしの足は考えないかもしれないが、割と疲れを感じる方だから、ちょっとだけ、休憩しても良い?」足の痛みで提案する良子。

 「良いわ」あっさりと賛成する安奈。「ほんっとう、良子の良しは頭良いの良しだよね」

 「その話、よしてくれない?」良子は口を尖らせた。

 

     *

 

 くじ引きにはいろんな不思議なことがある、と良子は考えた。

 お金を払い、自分に有利な情報を買う行為は別に理解はできるだけれど、お金で自分の可能性を束縛する紙片を買うのはやはりおかしい。その紙片に書いてるものは本当に自分にとって価値のある情報かどうかはともかく、一番であるはずの大吉は、なぜか一番希少なものではなくて、その大凶を引くのは逆に一番確率が低いーー宝くじではあるまいが、それらを買う者との差、一体どれくらいあるのでしょう。

 問題がある時、その解決法を考えることは最善策であるはずだが、時間がなければそれはそれで仕方のないことであって、わざわざ神社へ行く時間があるというのは、それほど緊急ではないことでもある。あるいは、ストレス解消のため散歩に行ったかもしれない。単なる願いことなら、そのお金にとってもっと実用のある使い道があるなのではないでしょうか。美味しいラーメンを食べて元気出しで生きるのもそう悪くないはず。元気だけでは問題を解決できないだが。

 それとも、真剣にくじ引きをする人は実際極少数派で、皆はそのお金で買うのは、その問題に向かいながら、生き続ける元気、あるいは、勇気なのか。元気と勇気で解決できる問題もそれほどの問題ではないはずだが。多分、これらの風習を理解できない自分、今までくじ引きしたこと一度もなかった自分は、日本人失格ではないかな、と、観光客の流れを眺めながら良子は思った。

 「良子、今日は記念すべき日だわ」安奈はニヤニヤしながら良子に声をかけた。

 「何?ヨーカでも用意しましょうか」微笑んながら相槌をする良子。

 「ほら」安奈は手に掴んでる紙を示す。「やっと大凶を引いたわ。今まで一番欲しかった」

 本当にいるんだね、宝くじ感覚でくじ引きする人、と良子は思わず感心した。

 「ね、アニャ、くじ引きする時、人って一体何を考えるかしら」疑問を言い出す良子。

 「そうね。何も考えてないからくじ引きするんじゃない?あるいは、その考えるきっかけを求めるためにくじ引きをするのかしら。例えば今私、『奈良漬けって美味しいか?帰る時買っておこう』という考えを始めた」

 「それ、くじとは全然関係ないじゃない」

 「そうよ。関係がない。全くない。皆無だわ。だって私、考えし始めたもん」

 「関係があると、考えることとは言えないの?」

 「そうでもないね。関係のある考えは連想で、関係のない考えは発想だわ。私は後者の方を好むだけだから」

 「思考の自由を縛れたくない、と言いたいかね」

 「そうよ。人間が生きているうち手に入れた最も自由に近いもの、それを逃せないようにわざわざと枷をかける真似は、勿体無いと思うわ」

 「生きているうち、と言うと、人が亡くなっても更に自由に近いものを手に入れる、ということ?」

 「自由に近いというか、自由そのものかもしれない。時間の流れでそれ以上衰老しなくても良いし、空間の制限もなくなるでしょう。色んな関係から解放される、ということになるでしょうね。死の後に続けが無い限り。なにせ、私、その経験が無いから」

 「アニャ、もしかして、一度体験してみたいとても言いたいのかい?危ない真似をしないで、お願い」

 「お願いされても、いずれは体験するようになるでしょう。安心してください、良子。あるいは、ごめんなさい。さっきの話、あまりにも死への憧れのような物言いには聞こえるが、別に私、生きることは嫌なんて言ってないよ。両方とも生きているうちしかできない発想だから、それぞれの価値があると認めただけで」

 「あたし、そういう発想はあまりしたくない、というか、できない」良子は自分の脚を見つめる。

 「何か嫌なものに連想できたでしょうね。きっと。嫌のものを回避するのも、貴女の自由だわ」

 「アニャほどの自由とは、比べ物にならないでしょうね」

 「まさか」安奈は口元を綻ばす。「ご覧の通り、四十八願安奈は、不自由な人間だよ。通りを通る人々よりも、貴女よりも」

 「アニャの冗談って、人が笑わせないものばっかりね」良子が切ない顔をする。

 「人を笑わせるつもりはないからね」安奈は瞬きする。「駒の出た冗談は、人があまり好まないから、自分でしか笑えない」

 「自嘲にしても、あまり気持ちの良いものとは思えない」

 「自嘲は、だいたい気持ちの良いものではないからね。元々は自照するためであって、自笑といい、自傷といい、結局のところ、事象の自性が解らない限り、単なる不幸なる自称にしか聞こえないね」微笑んながら言い出す安奈。

 「その話に出た同音語をわかるため、もうあたし、自証するしかないようだね」良子は吹き出す。

 木の陰に入った途端、二人とも、表情が見えなくなった。

 藤の花が、風で少し揺らいてた。


     *

 

 人間の言葉を分かるようになったら、きっと鹿は紅葉を敬遠するだろう。そして馬は桜を。イノシシは牡丹を。

 しかし、あくまでも日本限定の話であるが。しかもブラックジョークの類に入る。

 それについて、しかとするしかない。

 人間の言葉は、人間の間でさえ伝え難いものであるから。

 馬と鹿は、いつの間に自分たちが一つのコンビになったのかは知らないし、彼らが日本語を操ることになったら、きっと馬鹿馬鹿しい以上の褒め言葉は見つからないだろう。馬鹿馬鹿しい話だが。

 鹿もイノシシも、海の中で泳いてる巨体たる親戚があることを知らない。両方とも山鯨と呼ぶことができる。それからカバは川鯨か。キリンは陸鯨。ラクダは砂鯨で、牛や羊などは草鯨。どのみち、海鯨は再び陸地には戻れないし、山鯨は海に入ることもできない。彼らがそれぞれの社会を築くことになるなら、お互いをどう見るのであろう。相手を罵るとき、鯱という言葉を使うことになるだろう。そして何かをお祝いするとき、鯨幕は欠けないはず。

 暖かい日になると、なぜかよくこういう想像をする。これが小春日和かしら。

 顔に当たる風が優しい。

 風向は南南西、天気は晴、

 時々夢。

 

     *

 

 「ね、アニャ」良子の声である。「アーニャー、そろそろ帰る時間だよ」

 「あっ、本当」時計を一瞥して、手にした文庫本を閉じる安奈。「ごめんね、私、さっき聞こえなかった」

 「別に謝るほどのことではないよ」安奈が起き上がるのを手伝いながら言い出す良子。「にしても、本当、アニャって集中力がすごいわね。本を読むときもそうだし、考えことをするときもそう。本の内容が面白かった?」

 「ううん、さっきはただぼうっとしてっただけ」立ち上がった安奈は隣にいた子鹿にお辞儀する。向こうも頭を下げ、黙礼のような仕草をする。「内容が面白いかどうかなんて、読み終えるまでわからないことだわ。それに、面白くない本なんかないと思うよ。あるのは面白くないという評価だけ。ものの価値を評する行為が変えられるのは、その価値自体ではなく、あくまでも値段くらいのものでしょう」

 「正論だけどね」良子は頷く。「で、何を考えてった?」

 「さあ。ぼうっとしていたから、よく覚えてないわ。記憶には入らない程のことなら、言い換えればつまらないこと、あるいは、乙女らしき、馬鹿馬鹿しいことかもしれない」

 「機嫌が良いね」くすくすと笑い出す良子。アニャの言ってた通り、今日は記念すべき日かもしれない、と良子は思った。初めて彼女の口から『乙女らしい』と言う言葉が出たからのである。『馬鹿馬鹿しい』と同じ文句に組み込まれているだが。

 鹿に囲まれ、そして追い込まれることではしゃいた外国観光客の姿を眺めながら、二人とも駅へゆっくり歩く。よくこんなことで喜ぶだなあと良子は考えた。

 「何の本かしら、その、ぼうっとした前に読んでヤツ」良子は話題を変えてみた。

 「小説だわ」

 「まあ。てっきりアニャがノンフィクションを好むと思ってた。漫画しか読まないあたしとはまるで正反対。あたし、文字を見ると目眩がする。ぐるぐるとまわる、まわりまくる」

 「良いじゃないでしょうか。眠れないときの対策になるわ」

 「本当だ!アニャってすっごい!今まで眠れないとき、あたし、漫画を読むことにしたわ。あまりにも面白いと思うので、ますます眠れなくなってしまって、今は深刻な寝不足で悩んでいるところだわ」

 「贅沢な悩みね」

 「えっ?何が?」首をかしげる良子。

 「いいえ、独り言」笑顔で返す安奈。「さっき読んでた本のことを思い出しただけ。中に出る人と会話したような奇妙な感じだったわ」

 「人の話聞かないね」呟く良子。

 「だって、ギャグだったでしょう。文字を読むと眠くなるとか。良子が読んでた小説、私の何倍もあるはずと思うわ。ジャンルはともかくとして」

 「そんなことはないわよ」どんなことがないだろうと一瞬思った良子。あんなことかもしれない、と次の瞬間で意味もない戯言を考えた。

 「にしても、よく通じたわね、私のギャグ」と、良子は感心した。

 「バヤン」悪戯っぽく微笑む安奈。「私にも通じるなんて、良子ってオヤジになる才能があるかもしれないね」

 「……」急に無言になった良子。

 「どうだった?さっきのジョーク」意地悪く質問する安奈。

 「オーチンハラショー」と、良子は安奈を睨んだ。

     

     *


  駅の近くにベンチがある。そこに座っている良子の姿が見える。

 奈良漬けを買いにいく安奈を待つ間、件の本を借り、読むことで暇つぶししていた。プロローグしか読んでないが、夢についての話だけは分かったものの、何を伝いたいのかやはりわからないのである。元々伝いたいことが無いかもしれない。冒頭のモノローグの内容はともかくとして、禅問答たる会話と摩訶不思議たる光景で展開していて、そして途中でいきなり終わってしまう。いかにも夢っぽく見える。(文字で読んでいるから、たとえそれは作者の夢であっても、それを読む行為はやはり実際に夢を見ることとは違う)そしてなにより、語り部の『僕』の苗字の方が一番印象に残った。名前に敏感する人間であるかもしれない。四十九院って、アニャの四十八願とは似ている。その上、喋り方を除けば、話すこともよく似通っている。単なる偶然としか思えないが、と良子は思った。

 「眠れない、夢を見ることはできない、さっきアニャが言ってた贅沢な悩みは、このことかしら」良子は呟く。続きは帰ったのちで読もうと考えながら、本を閉じた。

 と、その時、自分が鹿に包囲されたことに気づいた。今回鹿せんべいは全然買わなかったし、どうしてこうなるでしょうと不思議に思った。まさか買わなかったことに対しての怒りでもないかな。よくよく見ればいつのまにか周囲に全く人気がなくなった。鳥の鳴き声さえ聞こえない静寂さである。

 どう反応するのかを迷う途端、手に入った何かが奪われた。

 向こうは次の瞬間で逃げ出した。

 叱っても仕方がないのである。

 相手は鹿だから。

 鹿と言っても、白鹿である。

 ニホンシカって白い種があるだっけ?ホワイトタイガーみたいな白変種かしら?と、良子は一瞬で思った。

 残った鹿たちは良子に頭を下げ、謝るようにも見えるし、礼を示すようにも見える。それから次々と去ってしまった。

 追う気がまるでない。というか、追い込む気力もなければ、どこへ追うのかもわからないから。

 奪われたのは、さっきまで読んでいた文庫本である。食べなければ良いなと、心の底から願った。

 「お詫びに、アニャに新しいのを買おう」と良子は小声で言った。「天然記念物に強盗される羽目になるとは、いやはや、我ながらかなり弱そうに見えるでしょう」良子のよしはよわむしの略かもしれない、と自分を揶揄した。

 強盗するのは人間ではなく、天然記念物であることも、あるいは平和の証拠であるかもしれない。そう言えば、さっきの小説に出た作家も、苗字は平和だった、読み方は違うけど、と何もかも本の内容に連想する良子だった。

 あの鹿は、綺麗だったわ、と彼女が感心した。

 遠いところ人の騒ぎ声が聞こえた。

 アニャは、このまま戻らなくなるかもしれない、となぜか彼女はそう予感していた。不吉な方ではなく、いつものように自分で帰ったかもしれない。

 「帰ろうかな」と良子は囁く。

 欠伸をし、身をあがて、駅に向かってゆっくり歩む。

 路傍にある水窪に、蹣跚する金髪青眼の女の子の姿が反射されている。

 それを一望さえしなかった彼女は、なぜか手中にした杖をさらに力強く握った。

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