玉鬘【下】
翌日は日中も若君は本丸奥殿で過ごされた。
自然、権六も若君の側に控えーつまりは、例の回廊へ赴く暇はなかった。
(致し方ない。一日位。……あの者達が昨日今日で、いきなり城から逃げ出そうとする事もない、筈だ)
己にそう言い聞かせながらも落ち着かずにいる。
正確には、心に隙間風が吹くような虚しさ、侘びしさが、権六の内に積もっていくのだ。
名も知らぬ、声すら聞いたことのない相手、しかも遠目で寧ろ後姿をより多く眺めている。
にも関わらず。
(会いたい)
そんな思いのみが自然に、鬱々と沈みがちな心から浮かび上がってくる。
と同時に、昨夜主君と交わした奇妙に印象と記憶に焼き付いた会話が、閃く。
(そうだ。俺は弥生を娶ると決まっている。それなのに……このような思いを抱くなど、決して許されぬ)
己はどうかしている、と自責の念に駆られる。
だが、他の男と恋仲であるに違いない女への抑えがたい恋情ーなのだと、ここに来ては流石に権六も認めざるを得なかったーは、より一層強く燃え、募るばかりだった。
ご兄弟で仲良く書を読まれたり、竹刀を振ったりする様をぼんやりと見守りながら、権六は主への務めと忠誠でなく、己の矮小な悩みに囚われ、抜け出せなくなりそうな己を意識しての恐怖に、戦いた。
やがて空が暮れ泥む頃合いとなると、若君と弟君は御台所の寝殿へ向かわれた為、権六も又付き従った。
御台所の御部屋には既に妹君も居られるようで、華やかで軽やかな笑い声と気配が溢れんばかりだ。
ご兄弟も共に自然浮き浮きと明るい表情となり早足で入室されるのを確認して、権六は定位置の廊下の片隅に陣取った。
若君が嬉しそうにしておられるのは変わらず権六にとっても喜ばしいが。
だが今は正直、あまりに明るく楽しそうな皆様のお声や様子などは聞いたり見たりしたくない。
昨夕と同様に揃っての夕餉を終えられて、昨夜の御言葉通り庭で花火をという段になって突如雨が降り出した。
弟君と妹君は悔しがり、慌てて飛んで来たらしき下男は残念そうに肩を落としていたが、御台所は慎重に花火で遊ぶのは取り止められ、御部屋で静かに過ごそうという事となった。
すぐに元々明るい性格であるらしき弟君や、これも素直で無邪気にころころと笑う妹君は元気を取り戻して、楽しげなお喋りが続く。
若君は母君である御台所と、これは静かに何事か語り合っておられる。
(今宵は見廻りはナシ、だな)
大した雨量ではないが、長続きそうな空模様だ。
若君は不本意かもしれないが、若君の為にもこれで良かったのだと権六は思った。
当然若君は睡眠不足だろうし、今夜はゆっくり眠る事を、御心はどうあれ御身は必要とされている筈だ。
権六自身は二晩位徹夜を通しても何程のことはないが、それでも身を休める事が出来るのならば有り難い。
少なくとも今の彼を支配し脅かしている煩悶と苦悩から、眠っている間だけは解放される。
そんな慰めと見通しを得て、また雨音と湿気に当てられて、権六の、揺り動かされ、熱せられた心も少し冷えたような気がした。
深まっていく夜闇と篠突く雨音に包まれて、権六は軒先で遠慮無く仮眠に着いた。
だが。
『権六』
誰かに名を呼ばれた、と思ったら、夜闇を切り裂くように、だが物柔らかな光に包まれて踊るような足取りで彼の女人が現れる。
権六ではない何かを嬉しそうに見詰めながら微笑んでいるのは相変わらずだ。
『お待ち下され。名を……せめて名を』
権六の懇願にも応えてはくれず、あっさりその場から駆け去ってしまいそうな気配に、権六は慌てて手を伸ばし、女人の袖を捉えた。
「権六」
「……若君」
掌に感じた具体的な感触に一気に覚醒し、権六は己が不躾にも主の腕を掴んでしまっていると気が付いた。
「申し訳ございませぬ、ご無礼を」
「いや、良い。……そちは随分と疲れているようだな」
今宵は私一人で参ろうなどという主を一層慌てて留める。
「為りませぬ、若君、それがしも参ります故」
「だが……」
「若君、雨が続いております故、曲者等も戸外に潜んではおりますまい。今宵は御殿内の見廻りに為さいませ」
「……」
若君の口が硬く引き結ばれたのを見て取り、権六は素早く続けた。
「このような天候ならば、忍びでもなければ曲者や不埒者共も皆屋内に潜んでおります。御庭の見廻りなどは無駄足になりましょう」
「……うむ」
元々思慮深く賢明な若君である。
権六が主を外へ出したくないという臣としての思いで諫めているだけでなく、実状と理に適った主張をしていると認めてくれたのだろう、微かに頷いて承諾を示した。
足早に廊下を進まれるお姿に、夜番である侍女等が時折不審の目を向けて来るが、権六は恐縮しつつも、堂々と前を進む若君を追うしかない。
今迄日中は奥殿へ特別に出入り許され、殿閣内の見廻りなどもしていたが、流石に夜半このような刻限にというのは初めてで、幾分物珍しい心地も覚える。
当然場所柄女達としか出会わないが、それでも実に密に見張りーの任も帯びているのだろうーが配されているのに権六は感心すると同時に、かの女人が何故夜間でなく昼間に男と密会を重ねているのかも理解した。
この奥殿では、夜間よりも日中の方が、警戒や警備が薄いのだ。
逆に此度の騒動、というよりも噂に関する主ー更には主の側近である乳母殿や近習等ーの憶測は、些か的外れか、穿ち過ぎな深読みでしかないのかもしれないと思った。
そのように片付けて、彼の女人のことはそっとしておきたいというのが権六の存念だった。
屋内だけでは若君にとっては不服不足だったのかもしれない。
物陰や使われていないらしい部屋を一々覗き込み、中を確かめつつの見廻りであった為、存外時間が掛かり、寝間に戻られたのは昨夜より遅い刻限であったろう。
灯明が幾つか点けられ、侍女等が気配と音を消して、ではあるが既に忙しげに立ち動いているのを見て取って、若君は少し不安気に権六を見返ってくる。
権六もまた訳が分からず頭を振るのに、若君は結局そのまま前に進まれた。
若君としては御家族に知られぬ内に寝所へ戻りたいという一心だったのだろうが。
「如何した?」
偶々顔を出した侍女にこっそりと小声で尋ねると、侍女は一瞬目を丸くしてーこれは無礼にも若君には返答せずに奥へと引っ込んでしまう。
「御台様、御台様、御安堵なされませ!若君がお戻りです!」
止める間もなく侍女が御台所に言い付けると同時に、わらわらと数人の侍女達が現れ。
更に今一人、小柄でほっそりとした女人が軽やかに縁先へ走り出てきた。
それが主の御生母、つまりは将軍家御台所と認識するより前に、部屋から漏れ出る灯りにはっきりと照らし出されたその御姿、相貌をまともに見てしまう。
(まさか、そんな……)
「竹千代!このような夜中にそなた何処へ行っていたのです!」
他の御子様方を憚って抑えておられるのだろうが、か細い涙混じりの声でその女人ー権六の心中、脳裏にもその面影は既に深く棲み着いているーは若君に訴えかけて、若君の手を両手で包み込む。
「母上……」
「まあ、こんなに身体が冷えて!一体どうしたの?私は、私はてっきりそなたが鬼か妖にでも攫われてしまったのではないかと怖ろしくて、旦那様に急ぎ戻って頂くよう使いを出そうかと思っていた所なのですよ!」
「……あの、眠れなくて……少しその辺りを歩いておりましただけで」
「だからって!黙って出て行くなんて!」
茫然自失ー最早何も考えられず、頭の芯迄真っ白に燃え尽きたかのような状態の権六を置き去りにして、御台所と若君を侍女等は取り囲み、一団と成ってそのまま室内へと消えた。
*
翌朝、早々に西の丸に戻られる若君に権六も無言で従った。
待ち構えていた乳母殿や近習等に若君は託し、権六は己に与えられている詰め所に戻る。
若君にはここ数日の疲れを取る為、二日間は暇を取るように、などと命じられた。
それだけでなく若君が別れ際に、奥での警備は暫く無用と告げられたのに、権六は一層混乱しー茫然としていた。
相変わらず同輩達は無責任に、若君のお供が多くて権六殿は幸運だ、とか、若君に気に入られて随分と結構なご身分だと、だが以前よりも妬み嫉みの度合いの増えた言葉を掛けてくる。
答えようがなくー答える気もなく、変わらず受け流すだけの権六に、皆離れていき、権六は一人になったが、それも殆ど意識には入らなかった。
(あのおなごが……いや、あの御方が御台所様、だなんて)
昨夜半からずっと彼の頭の中を巡り続けた言葉が又も繰り返され、更に己の部屋に戻って少し落ち着いた頃合いから加わった、今ひとつの考えにも追われる。
(御台所様は……では御台所様御自身が、不義を働いていた、というのか?若君の御生母が?)
信じられない、というこれも繰り返す思い。
だがすぐに、花々に囲まれた回廊で、表御殿より忍んで来た男に抱かれ、見つめ合う貌、赤い艶やかな唇を男に吸われるに任せている姿、などが脳裏に浮かぶ。
(これは……それがしは如何すれば良いのだ?このような……上様を謀り、上様を騙すだけでなく裏切り、上様の御名を穢す行為だ。喩え将軍家御台所であろうが、いや御台所様であるからこそ、許される筈もない、決して赦してはならぬ事、見過ごすことなど)
(だが……もしもそれがしがこの秘事を誰かに明かせば、御台所様はどうなる。御台所様だけではない、若君方、姫君にも累が及ぶかもしれぬ)
本丸に居る間の、若君方の賑やかに楽しげな笑い声や、幸せそうな御姿も又鮮やかに甦る。
同時に、夜半、権六と二人きりになった時に若君が見せた、ひっそりと寂しげな横顔も。
(駄目だ。若君から御生母様を奪うような結果を招く振る舞いは一切出来ない)
悶々と悩み続け、答えとも言えない結論が出たのは、主に頂いた暇が終わった翌朝だった。
心と同様重い気がする身体を引き摺るようにして、主の許へ赴くと幾分青白い顔色をした主が待っていた。
「如何した、権六。何やら顔色が良くないぞ」
少し嬉しげに問われるのに、権六は苦笑するのみだ。
「若君こそ、それがしがお暇を頂いている間に、お熱が出たと伺いましたが……」
「……大事ない」
今度は権六の返しに拗ねたように見えたが、すぐに若君は普段通り淡々と言葉を続ける。
「これから本丸へ参る所存だ」
「は」
心の奥底で轟くものを感じたが、権六は表向きは動揺を現さなかった。
本丸奥殿へと向かう道すがら、懐かしいような切ないようなー前に此処を通った時から何年も経ったようなー気がした。
整然と整えられた庭は相変わらず美々しいが、これまた虚しい。
以前覚えたようなー後ろめたくはあるがー心時めき踊るような心地を今後己は二度と味わうことなどないのかもしれないと権六は思った。
御台所の寝殿へと躊躇いなく若君は進んでいく。
若君が室内へと入られるのを見届けて、権六は廊下の端の定位置に控えた。
「竹千代、よく来てくれました。あの後、変わりはないでしょうね?」
嬉しそうな明るく柔らかく甘い声音ー確かに彼の女人に相応しきものだ、と権六は思うーで、御台所が問われるのに若君は小さく「はい」とのみ、応じられる。
実際は床に就いておられたらしいのを御生母には隠し通したいと思っておられるのだろう。
「……父上は如何でございましょうか。御挨拶に伺うつもりだったのですが……色々と取り紛れてしまい……」
「大丈夫ですよ。父上ならば何の心配も要りませぬ」
御台所が少し不機嫌そうな御声になられるのが権六にも分かった。
やはり御夫君とは不仲なのだ、と納得する。
「変わらず御政務に熱心であられます。……も少し、そなた達の事を気遣って下さっても良いのに」
「いえ、母上。父上は……私共の為に身を粉にして務めておいでなのですから」
静かに誠実に宥める若君の言葉を御台所は素直に受け入れ、穏やかに続ける。
「国松の所へも行ってやっておくれ。そなたが西の丸に戻って、あの子が一番寂しがっているから」
「……はい、母上。では少しだけ」
すぐに国松も連れて戻ります、などと言い置いて立ち上がる若君に権六も従おうとしたが、若君が素早く身振りでそのまま控えるようにと命じられるのに腰を落とす。
どうやら御言葉通り、本当に弟君を呼びに行くだけのおつもりであられるようだった。あるいは弟君と暫し二人きりで過ごしたいと思われたのかもしれない。
何れにせよ、権六は手を伸ばせば、声を掛ければ届く程近くに恋しさを抑え切れぬ相手ー将軍家御正室であり若君の御生母、この城の女主人である御台所ーと共に残された訳だ。
突然ーしかも思いもかけず主によってー与えられた機会が信じられず、暫し権六は茫然としつつ。
だが権六が心を定める前に、軽やかな気配と共に空気が動くのを感じ、反射的に顔を上げてしまう。
驚く程間近にー実際、権六は身を仰け反らせていたー御台所が立っていて、興味深げに権六を見下ろしているのと目が合う。
「そなた、竹千代に仕えている者ですね」
「……は」
「……先日も、夜、竹千代と二人で過ごしていたようですが」
先日とは何時のことか、などと言葉には出さずに己の内で反芻して、無論、この本丸奥殿で宿直や見廻りめいた真似事を若君のお供をして行った夜々のことだと思い付いた。
「は……」
「……竹千代は、将軍家にとって、それから私にとっても大切な嫡男です」
回廊で垣間見た際とは全く異なるー甘く可憐な匂やかさ、艶やかさではなく、凛と辺りを払う威厳と輝きを放っているー女人の姿に、権六は一層目を大きく見開いた。
「竹千代に対して、無礼不躾な振る舞いに及ぶ事、決して赦しませぬぞ」
「は……」
明らかに御台所が権六を見るーというより御本人的には睨んでいるらしいー目付きには、警戒心と憤りらしきものが含まれている。
何か御台所のご機嫌を損ねるような事ー明らかに若君に関する事だろうーをしただろうか、と忙しく頭を働かせてみたものの思い付かない。
せいぜい、若君が勤番侍の真似事をするのを、お止めしなかった事位か。
「見れば、其の方、明らかに竹千代よりも年嵩であるな。……未だ幼い、いえ、年若い主を惑わせ、誤った道へ進ませるなど、臣としてあるまじき行いです。竹千代は優しい子故何も言わぬかもしれぬが、私は母として見過ごせません。今後、二度と竹千代を迷わせるでない」
「は……」
ふんわりと愛らしい笑顔だけでなく、怒った表情も何より気高く美しい、などと権六は間の抜けたことを思った。
最早、この女人が、将軍家御台所であろうとー人妻であろうが、夫以外の男と不義を働いている淫らなおなごであろうが、構わない、等とも。
己の全てを捧げても惜しくはない女人だと感じ入ったのだ。
「御台様」
思い切ってー権六の身分では有り得ない事だが、今こそ千載一遇の好機であるとの思い付きは彼の内で先程から雷光のように閃き続けているー呼び掛けた。
「何です」
特に気にした風もなく、だが未だ不機嫌であられるのだろう、少しむっとしたように赤い唇を尖らせて応じてくるひとの前に身を投げ出した。
「お慕い申し上げております!御台様!」
「……」
「な、何という無礼な!この痴れ者がっっ!」
悲鳴のように返して来たのは、御台所の掻取の裾辺りに控えていた侍女だ。
御台所御自身は凍り付いた表情で立ち尽くしておられるのをこれも今この時だけと考え、権六は御台所の足元、正確には袿の裾を掴んだ。
「どうか、それがしの心をお察し下さい!先日、回廊で……お見かけした折よりずっとそれがしは、」
「離さぬか!御台様に対して斯様な狼藉、赦さぬぞ!ええい、離せ、無礼者!」
「誰か、誰かある!御台様をお救い申せ!」
喧しく侍女達が騒ぎ立てるのも権六の耳には入らなかった。
最早己の募りに募った思いを訴えー何とか御台所に心を入れ替え、正道に立ち戻って欲しいとの願いしか、頭にはない。
何よりも美しく輝くひとに相応しい生き方をして欲しかった。
「御台様はあのような場に居られて良い方ではありませぬ!心清らかで見目麗しい、まこと将軍家御正室に相応しき御方にございます!ですから、どうか」
「ええい、離せ、離さぬか!」
棒が手許に振り下ろされるのに、権六は反射的に退いていた。
奥においてはそういえば刃物は禁止されているのだという知識は後から付いてくる。
「御台様、どうか奥へお入り下さいませ、危のうございます!」
「さ、ここは我等にお任せを!」
それぞれ棒を槍の如く構えたーしかもかなりの腕前らしいとは権六にもすぐそれと知れたー侍女が二人前に出て、御台所を背後へと匿った。
「ま、待って、藤の葉、卯木、この者は竹千代の、」
「若君の従者であろうが!御台様への無礼、決して赦されませぬ」
わらわらと庭には下男達が集まって来たのも、更には若君と弟君が別の殿閣より回廊を曲がって駆けて来るのも権六は見て取っていた。
このまま己は集まって来た者達に取り押さえられ、将軍家に不義不忠不敬を働いた不届き者、重罪人として裁かれるのだとも理解している。
だがそれでも彼は、目を丸くして今は彼だけを見詰めている御台所を真っ直ぐ見返す。
今だけは、彼の女人の心には己しかいないと、この一時に今迄のささやかながら築いた地位と名誉も、今後得ていくつもりであった平凡でささやかな、だが何よりも平穏であったろう幸福も将来も、全て賭けた。
「……そなたは……」
御台所が直接、権六に言葉を掛ける、あるいは問い掛けようとしていると気付いて、権六はこの上ない喜びに身を震わせる。
この御方に名を呼ばれる事が叶うならば、その瞬間に死んでも構わない、と真剣に思った。
その時。
「お待ち下さい、皆様!お待ち下さい!」
権六の方へと一歩足を進めかけていた御台所と権六の間に身を乗り出してきた人影があった。
「御台所様、権六様は悪くありません!権六様には何の罪もないのです!」
上役の命により、奥殿において、権六を手引きし世話をしてくれた侍女だった。
身を低く保って服従の意を示しながらも、一歩も後を引かぬ強い意志を発散している。
(これは一体)
何故突然、この侍女がしゃしゃり出てきたー権六の感覚では、思うひととの間を邪魔されたようにしか感じなかったーのか権六には一切理解出来なかったが、若君と弟君がようやく寝殿に到達し、御生母の傍らへと寄り添う御姿に、権六の胸は痛むばかりでささやかな疑問はすぐに忘れた。
(若君……申し訳ない……お許しを請うことも出来ぬ……)
「これは一体何事ですか、母上。あの……私の従者が、何かご無礼を働きましたか?」
冷静を保とうとしておられる若君の声は、徐々に重く項垂れていく頭上で聞いた。
若君の眼前で、若君の御生母への身勝手な横恋慕の念を図々しく現すことはー流石に若君に仕える者として出来かねたのだ。
「悪いのは私なのです!全て私のせいにございます!どうか私をご存分にして下さいませ!権六様は何も悪くないのです!」
名も知らぬ侍女が又も訳の分からぬ事を泣き叫ぶのに、周囲の侍女等の間にも困惑と苛立ちが拡がっていく。
「竹千代、」
「母上、この者は、」
「権六様は私に会いに来ていたのです!私の許へと通っていらしていたのですわ!わ、私がそのようにお願いしたのです!」
権六にとっては正直理不尽な言いがかりとしか感じられない世迷い言を侍女が叫ぶのに、権六はぎょっとして顔を上げた。
「何を言われる、お女中。それがしはそなたの名すら知らぬのだぞ!そなたとは何の関係もない!」
明確に言い切って、彼は最前の主張をーつまりは思う女人への真心をー訴えようとしたが、すぐに後を振り向いた女の叫びによって遮られた。
「いいえいいえ!私はずっと権六様をお慕いしておりました!私はどうなろうが、構いませぬ!」
「な……」
あまりの事に権六が絶句すると、相手の女の表情が一瞬、別物へと変じた、ような気がした。
少なくとも権六が今迄目にしてきたーそれなりに整っているが、特に気に留めたり何か感じたりしたことがないー女の顔ではない。
それこそ、鬼そのもののような。
「……一体、どういうことだ。権六、そちはまことにこの者と不義を働いたのか?」
普段と変わらぬ平板で穏やかにすら聞こえる声音と口調であったが、権六には厳しく鋭く金剛石の如く硬化してしまっていると分かる主の言葉に、権六は無言のまま視線を彷徨わせる事しか出来なかった。
*
裁断が下ったのは、数週間の後。
その間、当然権六は牢獄に繋がれ、数えきれぬ程の詮議を受けたが、権六が覚悟していた程の厳しいものではなかったし、食膳も充分与えられ、逆に罪悪感を刺激される状況であった。
しかも奉行職に申し渡された裁きというものは、肩透かしを喰らわされたように軽いー権六の意識では罰とも言えぬーものであった。
捕らえられた直後より権六は、訳の分からぬ事を言い立てた侍女共々、不忠者として前例の通り斬首の上晒し首となるだろう、と予測していたのだが。
最後迄権六に対して意味不明な訴えを続けていた女は虚言を弄して御城内を騒がせたとして平川御門前で百叩きの後、一日晒し者となった上、不届き者として城を逐われ。
権六自身はというと、殆どお構いなしに近い、数日間の自宅謹慎と若君侍習の任を解かれ、新しい役目を頂くという、有り難いような情けないような決着であった。
同輩達あるいは上役達と顔を合わせたー今度はあからさまに冷たく軽侮の眼差しを向けられたーのは、けじめとして若君に御挨拶申し上げる為、登城した際であった。
若君から対面の許可が出るかどうか判らなかったーあるいはすげなく拒まれる、もしくは西の丸への立ち入り自体も許されないかもしれないと思っていたがー意外にあっさりと通されて、見覚えのある対面座敷に通された。
簡単な先触れの後、乳母殿と松平正永が現れるのに、一瞬、権六は胸が詰まるのを覚えたが、早々にその場に拝復する。
まさしく今の彼の身の上では、若君の御姿どころかその御足すら窺う資格すらない。
「わざわざ挨拶に参るとは殊勝であるが、少々不躾でもあるな」
乳母殿が以前と変わらぬ辛辣な口調でちくりと言うのも懐かしかった。
「長崎へ発つと聞いたが。身体には気を付けよ」
何事も無かったかのようにーあるいは何の関わりもないというようにー正永が淡々と告げるのに、権六は平伏した状態で頷く。
若君に一言だけで良いから詫びたいと願っているのをー当然乳母殿や正永は承知しているのだろうし、若君も察しておられるのだろうが、若君はなかなか許しを与えてくれそうには無かった。
「若君、」
見かねて小声で正永が取りなそうとしてくれたのも、非常に有り難く感じる。
「……私は二度と、その顔、見たくない」
「……」
正永に応じる形で、だがその内実は厳しく突き放した言葉を若君は誰にともなくという風に発せられた。
「私は父上に、慮外な不義者には死を賜るよう進言した」
淡々とした声音でありながら、鋭く厳しい弾劾として、その一言一言、音の一つ一つが権六の心に突き刺さる。
「だが父上は、実際に罪を犯していない者を罰する訳にはいかぬと仰せになられた。それに……」
若君の御声が微かに揺れたような気がしたが、気のせいーあるいは願望に過ぎなかったーかもしれない。
権六が若君のお側から離れて、かなりの日数が経過しているのだ。
「母上が、父上に命乞いをされた。件の侍女だけでなく、私が信頼し側に置いた者を傷付ける訳にはいかぬ、と」
思わず権六は顔を上げ、ずっと権六を睨んでいたらしい若君と目が合ったものの、若君だけでなく乳母殿も正永も権六の無礼を咎めなかった。
「……母上はそういう御方なのだ。それなのに、寛大でお優しい母上を……母上の御心を踏みにじり、謀り貶めるような真似をした者達を、子である私が許せる筈など無い」
「は……」
「母上の御心に背く訳にはいかぬ故、命は取らぬ」
若君は権六から目を逸らさぬまま、淡々と続けた。
「だが、私は絶対に赦さぬ。二度と私の目の前に現れるな。意味のない言い訳や詫び言など申すな。このまま出て行け」
「……」
権六は、若君の怜悧な美しい瞳が己から逸らされ、更には若君が音もなく立ち上がって部屋から出て行くのを、更には乳母や近習がちらと同情と憐れみの籠もった一瞥を権六に与えた後、若君の後を追ったのも、拝跪した姿勢のまま見送った。
*
若君が徳川家当主の座、及び将軍職を引き継がれた元和九年に、権六は江戸へ戻った。
老いた両親が相次いで病で歿した為、であり、これを機に家財一切を親戚達に分配しーそれには当然、権六が江戸を離れる前に婚約を破棄し別の男に嫁いだ元許婚の弥生も含まれるー家督も近親者に引き継がせた後、出家した。
本来は若君の元を離れた際に潔く世を捨て仏門に入るべきだったのだが、何も知らない両親を失望させたくなかった為、思いとどまっていただけだ。
武士としての体面も名も捨て、墨染めの衣を纏うようになって更に数年の後。
将軍と大御所が上洛して江戸を留守にしている際に、大御台所が病に倒れ、あっさりと亡くなってしまった。
仏門にあるとはいえ、それなりに地位やら身分やらはある訳で、当然、彼は大御台所の葬儀に参列する資格などはなく、江戸の町衆等と同じく、その見事で壮麗な葬列が城から菩提寺へと続くのを見送り、遠目で火葬の白く物悲しい煙が空に棚引くのを眺めただけだった。
大御台所の葬儀の喪主を務めたのは、徳川家当主となられていた若君、つまりは上様で、大御所様は未だ上方から戻られていないとの話に、虚しく侘びしいー憤り混じりのー心地も覚える。
(お可哀想な御台所様。……最後迄、ご不幸であられたのだろうか)
結局、己も又、将軍家及び若君の御為にという大義名分をかざして、御台所の女人としてのささやかな幸せを壊したのだ、と今では理解していた。
あの当時はあくまでも若君の為、将軍家への忠義故だなどと考えていたが、実際の所は、ただ単に。
(己が手に入れられぬのならば……誰の手も届かぬ御方であって欲しかった。ただそれだけ、だったのだ……さもしく、卑しい、嫉妬に過ぎなかった。忠義の心など、それがしには無かった)
あの極楽浄土のような花々の中に浮いている回廊で、おそらく心から慕っておられたのだろう男に抱かれ、少女のように無邪気に艶やかに微笑んでおられた貌、光り輝く御姿が、未だに瞼の裏に容易く浮かび上がる。
母としての姿、御台所としての貌とは完全に異なる、おそらく、彼がその名を知らぬ、尊い女人御本人の生来のものであったに違いない。
そして彼にはやはり、彼の蝶のように鳥のように軽やかで鮮やかな女人は、御台所という御身分や、堅固で険しくも厳しい城には相応しくない、と感じられた。
(だが今は、完全に解き放たれ、世の柵全てから自由になられた。泉下か、いや天上に居られるのかは分からぬが)
美しい花々に囲まれて、鳥のように、あるいは蝶のように。
そんな事をぼんやりと思いつつ、俗名を権六といった名も無き僧は、将軍家菩提寺の門前で手を合わせた。
花鳥風月 一宮 オウカ @sorano138
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。花鳥風月の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます