玉鬘【中】
西の丸に戻り、日々の日課となっている報告の為に正永と顔を合わせた際も、権六は口を開かなかった。
正永の方からは一向に奥へ忍び込むような不届きな真似をする者は見当たらない、等という首を捻りながらの愚痴を聞かされたが、権六は無表情を装いつつ殆ど聞き流す状態だった。
「ここ数日何やら忙しそうだの、権六殿」
同輩が暢気そうにー内実は巧みかつさり気なくー聞いてくるのも上の空で受け流す。
思うのは蝶か鳥のように捕らえ所のない軽やかさで前を歩き突然消えてしまう女の姿。
それから口惜しくも、別の男の腕の中で幸せそうに微笑み、嬉しそうに瞳を輝かせている女の貌だ。
(次こそ……次こそ、あのお女中には声を掛けねば。よくよく言い聞かせれば、拒みはすまい)
女の為を思ってこのように己は悩み、算段を付けようとしているのだ。
ー忠義の道を外れる危険を冒して迄、女を助けようとしている。
(奥仕えも止めさせよう。あのように幼げなおなごには城での暮らしは辛い事も多かろう。我が家は狭いが、おなご一人位どうにでもなる)
そんな事を夢想しながら、彼はかつては己の日々の喜びと誠心の基であった、だが今は味気なくつまらぬものと感じられる西の丸での時をやり過ごした。
だが権六の期待と意気込みは、翌日、ものの見事に裏切られた。というよりも肩透かしを喰わされた形となった。
今度こそはといそいそと張り込み場所に潜んだのだが、何故かその場には誰も現れなかったのだ。
本丸に居られる刻限ぎりぎり迄件の場所で粘ったが、流石に主持ちの身では己の意を優先させる訳にはいかず、すごすごと西の丸へと戻った。
上役へ報告に行く前に、上役からの使いにより主君の座所へと呼び出される。
「権六、ご苦労であったな」
主君が穏やかに、だが普段より幾分早口で御声を掛けてこられるのに、権六はただ平伏するばかりだ。
「急で悪いが、今夜と明晩、其の方に宿直を頼みたいのだ。頼まれてくれるか」
依頼の形ではあるが、当然主君の言葉に異を唱える事など有り得ない。
権六は更に頭を低めながら、「若君の御意のままに」と呟いた。
実際、臣下が己の言に服さない事があるなどと思った事もないであろう、産まれた時から将軍家の御嫡男であられる若君自身もごく当たり前に権六の服従を受け入れる。
普段ならばもっと敏く鋭く、権六の屈折した心中に、というより己の心を隠す事など到底出来ない権六の暗い顔色などに気付かれる筈であるのに、若君は急いだ、幾分浮かれているような口調で話を続けられる。
「上様が鷹狩に出掛けられ、城を留守にされている。それで、弟妹達と……母上が、上様の留守中は私も本丸で過ごすようにと上様に願われたのだ」
心から嬉しそうな気配も感じて、権六は一層主君への申し訳なさが募った。
この世で唯一人と決めている主であるにも関わらず、己は最近この若君にお仕えする事よりも、名も知らぬ女人を追うことにかまけていたと自覚しー自省している。
「上様も快くお許し下されただけでなく、私に留守を頼むと仰せであった。父上、いや上様のご信頼とご期待に是非にお応えせねばならぬ」
乳母殿と正永も又、上機嫌で頬を桃色に上気させてお加減も宜しそうな若君のご様子に、表向き渋い顔付きをしながら目は笑っている。
「若君、お早く御支度なされませんと。御台所様から夕餉は皆様でご一緒にとご連絡がございましたでしょう」
「お約束の刻限に遅れましては、御台所様や弟君、妹君もご案じ為されます、お早く」
普段通りの世話焼きな二人の言葉に、若君は素直に頷いてまた御自身慌てておられるようだ。
「そうだな、母上をお待たせしてはならぬ。良いな、権六、其の方も早々に支度して供をせよ」
そういう訳で権六も又乳母殿や上役等に急き立てられながら、御台所様の座所へお供するのに相応しい正装に着替えて、一刻足らず前に後にして来た本丸へと戻った。
その途上。
「権六。其の方を供として連れて参った理由、分かっておるだろうな」
「は」
「我等で曲者を捕らえるのだ!これ以上、母上の周辺を騒がせる者を許してはおけぬ」
「は」
主君が厳しく断じるのに、権六はやはりあの女人の事を主君に明かす訳にはいかない、と強く思った。
若い主君は潔癖であるだけでなく母君や御弟妹のことを大切に思うが故に、主家に隠れて密かに不義を働く者など容赦しないに違いない。
近習の末席に列し、今現在目をかけて頂いている権六が幾ら懇願しようが、意に介されないだろう。
そういった峻厳さ、厳格さが若君にはある。
実際に御目見得したことはないが、若君の父君である上様も、公正ではあるが法度に反する者には非常に厳しいと聞いているから、父君譲りの清廉さ峻厳さ、なのだろう。
(だが。世の中、何もかも法度通りにはいかぬ)
星のように輝く瞳と花のように匂やかな笑顔が脳裏を過ぎった。
*
若君の到着を待ち侘びていたらしい、御弟妹の賑やかで嬉しげな歓声が聞こえ、権六も先日耳にした御台所の御声が優しく、だがこれも嬉しげに注意されるのを権六は部屋からは下がった、だが非常時には直ぐさま対応出来る廊下で聞いた。
無論、将軍家のご家族の御姿を目にするなど不敬であるし、また権六自身の姿をお目に掛けるのもあってはならぬことと心得ている。
「竹兄様ったら全然遊びに来て下さらないのだもの。すっごくすっごく寂しかったわ。国兄様もしょげちゃってずっと元気なかったのよ」
「お和、兄上に詰まらぬことを申し上げるんじゃない!……でも本当に、お見限りでございました。せめて講義位、ご一緒したいのに」
「お和、国松、兄上を困らせてはなりませんよ。兄上はお忙しいのですから」
御弟妹等を諫めながらも、御台所の声にひどく寂しげで哀しげな気色が溢れるのに当然若君は黙ってはいられないのだろう。
「……申し訳ありません。まだ色々と慣れぬことが多くて」
「良いのです。それより無理をしないで下さい。母はそなたの身が案ぜられてなりませぬ。……無論、於福等が気を付けてくれていると承知しておりますが……そなたの身に何かあっては、父上も、この母も、亡き御祖父様に顔向け出来ませぬ」
「……はい」
母君の御言葉に、主君が何処か幼い頼りない声で応じられるのに、権六は主君を気の毒にーというより可哀想に思う。
年齢より大人びているし、気性も確りとした御方だが、未だ十四歳の少年なのだ。
確かにそろそろ元服する頃合いかもしれないが、それでも一人だけ母君や御弟妹と引き離されて、仕える者達だけに取り囲まれて西の丸に住まうというのは、お寂しくお辛いだろう。
特に年の近い御弟妹は未だ母君と更には父君である上様のお側近くで暮らしているのだから、ご不満も覚えられるのではなかろうか、などと少々不躾な推測などもした。
「さ、竹千代。お上がりなさい。そなたの好きなものを用意させたのですよ。せめて本丸に居る間は、存分に自儘に楽しくお過ごしなさい。国松やお和とも遊んでやっておくれ」
「はい、母上」
和やかで賑やかな夕餉の様子は、御姿を垣間見ることなくとも権六にも充分窺えた。
御台所の御指図なのだろう、権六の前に置かれた膳を有り難く頂きながら、果たして若君は今夜何を為さる気なのだろうと思う。
(もしや一晩中御自身で見張るなどとお考えなのだろうか。もし若君がお風邪でも召されたら)
乳母殿と正永の、まさしく鬼と化した形相などを思い浮かべてしまって一瞬権六は身を震わせた。
給仕をしていた侍女が僅かに頬を染めながら不思議そうに己を注視するのには気付かなかった。
(折角の機会なのだ。御台様や弟君方とお過ごしになられるよう勧めてみよう。存外、若君も心中ではそのようにお望みなのでは)
珍しくもー他のお三方に比べれば控えめで静かだがー軽やかに笑われる御声など聞いていると、そう強く思う。
「実は竹千代が本丸に泊まるお許しを頂いたのと同時に、巳の吉等に色々と支度を頼んでおいたのです」
御台所が今度は若君の御弟妹と変わらぬ位無邪気な悪戯っぽい口調で言い出されたのに、つい権六も耳をすませる。
御声だけでなくその話し方、明るく屈託無く柔らかい口調などに、ついつい心惹かれてしまうのだ。
これも将軍家御台所という尊い位に相応しい御人徳、あるいは御威光が備わっておられるということなのかもしれない。
「……何でしょうか」
「え~何?何ですか?母上?早く教えて下さい」
「なあに、母上様。巳の吉にってことは御庭ですか?もしかして花火とか?」
姫君のこれまた無邪気な御声に、ああ、花火も素敵ですねぇ、明晩は花火にしましょうか、などと同じ位、御台所は無邪気に返される。
「ふふふ。それは後のお楽しみ、ですよ」
「え~いや~ん、知りたい~母上様~お和にだけ、こっそり教えて!」
「何言うんだ!狡いぞ!お和。……何だろ。庭ですよね。父上が何か又珍しい花を育てておられるとか?」
「……」
「内緒です。さ、皆、残さず食すのですよ」
賑やかに楽しい席はそのまま保たれ、どうやら食膳は終わったらしく、侍女達が少々慌ただしく権六の周囲を駆け回る。
とはいっても、灯明や御台所及び御子様方の履き物の準備を素早く済ませると、又何事も無かったように引いていくのは、なかなかに見事な仕業であるように権六には見えた。
仕える主に世話をしているということを意識させず、指示を受ける前に万端整えるというのは、従者としてはまさしくあるべきー望むべきー挙動及び姿だ。
己も見倣わねばと思っている所に、歓談しながらご一家が縁先に出てこられる気配を感じ取り、素早く権六も退いた。
幸運にも若君に直接お仕えする身ではあるが、やはり尊い御身の御台所や姫君の御姿をこちら側が窺うだけでなく、権六の姿をお見せしてお目を穢すなど可能な限り避けねばならない。
そういう訳で、権六が護衛として庭へと降りたのは、御一家が連れ立って仲良く賑やかに歩き出された後だ。
弟君と妹君は子犬か仔猫のように、御台所と若君の周囲に纏わり付いている。
上様が城外に居られる今現在は家長代理との意識を持っておられるのだろう若君は、普段より一層しゃんと真っ直ぐな姿勢を保ち、誇らしげに手ずから灯明を掲げておられるのが何とも微笑ましい。
御台所は時折、下の弟妹方に転ばぬようになどと注意されながら、若君に西の丸での暮らしに不自由がないかどうか、熱心に訊いておられる。
(良かった。……本当に仲睦まじくてあられる)
城下やあるいは表御殿でまことしやかに囁かれていた噂など嘘八百、根も葉もない浮き草の如き空言だったのだと、権六は明白に納得した。
「さ。此処ですよ」
御台所がそう告げて立ち止まったのは、小川の辺だ。
御子様方の足元を案じてなのだろう、転々と小さな灯りも用意されている、というより身を屈めて下男らしき者達が掲げていると気付いて、権六は少々呆れた。
が時折、灯りに偶さか照らし出される下男達の表情も何処か浮かれた、悪戯を企んでいるかのように楽しげなものであったので、主従共に今宵の出し物を堪能しているのかもしれないと思い返す。
これだけ下の者達が自ら進んで仕事をしているのだから、暢気なようでいて御台所という御方は人を扱いあしらうのに長けた優れた女人なのかもしれない。
ー若君の御生母ということで、少々権六の評価は甘くなっているのかもしれないが。
とにかくその場に居る者達はー少し離れた場所に待機している権六も含めてー皆、次なる御台所の指示あるいは事態の展開を待った。
充分皆の期待を集めたと判断したのだろう、御台所は灯りとは別に黒っぽい布を被せた大きな籠のようなものを抱えていた老爺に合図を送る。
老爺も又嬉しそうな満面の笑みで応じ、年齢や風体に似つかわしくない敏捷さで布を取り払い、籠の中の何かを宙に放った。
「わぁぁぁっ」
「綺麗~っすっご~いっっ」
「……」
若君は無言ではあるが驚いておられるのだろう、目を丸くして自分達の周囲に纏わり付くかのように乱舞している光の点を見詰めているし、弟君と妹君は素直な歓声を上げて手を伸ばし、青白い光に向けて翳す。
「蛍ですね?母上?何処で捕まえたんですか?」
「こんなに沢山凄い~御城に棲んでいるの?」
「馬鹿だな、お和。蛍は水の綺麗な、野山にしか居ないんだぞ」
「え~でも、御城にだって木は沢山あるし、御池だって小川だってあるもの」
仲良く言い合う弟妹方の隣で、若君も恍惚とした眼差しを飛び交う蛍に向けている。
「まぁ、本当に見事だこと!まるで夢のよう。天の河が降りてきたようではありませんか」
御台所もまた幻想的な風景に相応しい玲瓏とした響きを伴う声音で嬉しそうに誰にともなく言う。
権六も夜闇に浮かび上がる夢幻の如き蛍の光に見惚れていたのから、その声につられて御台所の方へと目線を向けた。
丁度その時、蛍が数匹、御台所の周囲をゆっくりと漂ったのも、あるいは彼の予め決められていた定め、であったのかもしれない。
(え)
御台所の白い横顔が仄かな光に包まれて浮かび上がったのは、ほんの一瞬の事だった。
素早く目を瞬かせ、確りと確かめようと目を懲らした時には既に蛍はふわふわと御台所の周辺から去り、御台所も権六には背を向ける形で、若君に話し掛けておられる。
(違う。目の迷いだ。そんな筈がない。……ずっとあのおなごの事を考えていたから)
己の詮索がましい不躾な目線に、幸いな事に御台所や若君方は気付かなかったが、下男達は微妙にさり気ない非難の空気を向けてくる。
それでも目を逸らせないでいた権六だったが、蛍が何処かへ行ってしまったのを名残惜しげに見送られた後、御台所はもう休む時間だからなどと仰せになられて御子様方に寝殿へ戻るよう促した。無論、権六如き一介の侍習などは一顧だにしない。
「明日は花火ね!」
などと強請る妹姫に下男等はこれも嬉しそうに笑って応じ、御台所が穏やかに労いの言葉を掛けるのには恭しくその場に拝跪した。
「巳の吉、作蔵、弥吉に仁助も、皆良くやってくれました」
「いえ。御台様。あっしらは、上様と御台様のご恩に僅かなりとも報いる為に働いているだけでございます」
人の良さ気な老爺が代表して答えている。
どうやらあの者が庭番の元締めであるらしい、と権六は庭番の方にも注意を移す。
庭番達の顔を覚えておけばー更には誼を通じておけばーあるいは、今後の務めに役立つかもしれない。
庭番等に話し掛ける機会はないかと、若君等が寝殿に戻るのにすぐには従わずにいたが、将軍家の御家族がいなくなると途端にその場に居た者は普段通りの無愛想、というより存在感を極力無くすよう努めているような無色とでも表現すべき佇まいに戻り、隙無く灯明の後始末をして散ってしまった。
仕方なく権六は急ぎ足で若君達の後を追い、若君が殿で、縁へと上がる前にぎりぎり追いついた。
あるいは若君は権六を待っておられたのかもしれない。
権六を認めるとすぐに御声を掛けて来られた。
「権六、分かっておるだろうが」
普段とさして変わらぬ無表情を保っておられるが、寝殿から射す灯りだけでも若君のほの白い頬が良い色に染まっているのが見て取れる。
主が随分と楽しい心持ちで時をお過ごしになったのだと権六も嬉しくなった。
「一端私は寝所へ入るが、皆が寝静まった頃に出てくる故、それ迄慎重に、気を付けて待っていよ」
「……若君」
「其の方も分かったであろう?」
権六が不本意どころか、異議を唱えようとしたと気付いたのだろう、素早く遮ってくる。
「母上だけでなく、弟も妹も、あの通り人を疑うことなど知らぬのだ。この奥を乱し、不忠を働く者が潜んでいるなどと考えてもみない。だから、私が何とかしなければならぬ」
「ですが、若君」
「私は上様より直々に留守を頼まれたのだ」
まさしく反論は許さないという意思を真っ直ぐ珍しくも現して、若君が断言するのに権六は口を閉ざした。
「母上も、国松もお和も、必ず私が守る」
「……」
如何にすれば若君を説得することが叶うのだろうか、と考えたものの、元々口巧者な訳でもない権六だ。
逡巡しつつ、むっつりと黙っている間に。
「兄上!早く早く!皆で双六をしようって母上が」
「竹兄様、今夜は皆で川の字になって寝るんですって、母上が仰ったの」
弟君と妹君が賑やかに呼ばわってくる。
若君は一瞬、面映ゆいような困ったような気色を浮かばせたが、「直ぐ行く」と応じられ、権六にも「では頼む」とのみ言い置いて寝殿に上がられた。
最早、主を諫める手段など権六にはなく。
ご兄弟で「四人だと川の字にならないよ」「それなら王の字とか?」「つまらぬ事は良いから二人とも中へ入れ」などと言い合っておられるのが廊下で待機している権六の耳にも自然届いたのだった。
*
亥の刻を過ぎても寝殿からは、これは妹君のものだろうかきゃっきゃと楽しげに笑う声が聞こえていたが。
流石に四つ半、更に子の刻となると、しんと静まって時折不寝番あるいは見回りの侍女が身を動かす微かな衣擦れの音が聞こえるだけとなった。
九つ半を過ぎ、丑の刻に入る頃には、権六は若君はお疲れになって寝入っておられるに違いないと安堵していた。
何と言っても深窓育ち、しかも元々病弱であられた若君だ。
武芸を好まれ、最近は鍛錬を積んでおられても、元々の身体の造りが違う。
だが微かな気配を感じ、まさかと思いながら振り向くと白帷子に単衣を肩に掛けた若君が立っておられた。
心配そうに控えの間から廊下を覗いている不寝番の侍女とも目が合う。
「権六、待たせたな。さ、参るぞ」
「……は」
これはもう諦めて、若君がある程度満足する迄付き合うしかないと腹を決め、権六は若君の履き物を支度し、己も庭へと降りた。
幸い、雲間に月が出ているし、また夜気も、権六が主の為に怖れていた程冷たくはない。
通り過ぎる庭木の蔭などが時折揺れるのに、蛍遊びの準備をした下男等が潜んでいるのではないだろうかと権六は疑ったが、権六如きに公儀お抱えの忍び達の気配など完全に感じ取れる筈もない。
下男達や御台所付きの侍女達は、あるいは若君の意図を察しているかもしれないが、権六としては若君はただ単に夜半の気紛れな散策を愉しんでおられるだけだと思いたい所だった。
真面目で一刻なご性格の若君は熱心に庭の彼方此方だけでなく寝殿の陰や床下などを覗き込んでおられたが、何の異変も無いのに徐々に飽いてこられたらしい。
後にしてきた寝殿の方へとちらちらと目線を送られる。
御家族の許にーおそらく皆様眠っておられるのだろうがー戻って出来るだけ共に過ごしたいのだろう。
「若君、そろそろ……」
「権六。其の方、許婚がおるのだったな」
全く関係のない話題ー以前にも乳母殿達と上せられていたーを持ち出されるのに、一瞬権六は口籠もった。
「は……」
「具体的に何時祝言を挙げるか、決まったのか?」
素早く若君の様子を窺ってみても、特に深い意図がある訳ではなく純粋な興味ーあるいは臣下のことを知っておいた方が良いだろうとのお考えかー位しか、見て取れない。
「いえ、それは未だ」
「……其の方は、そのおなごのこと、如何様に思っておるのだ?」
月の光の下で、若君の元々白い肌は透き通るように美しい、などとふいに思った。
「は。その……元々、又従姉妹で……幼馴染みでもあります、ので」
「では好いておるのだな」
若君が大きく頷くのに、何となく権六も頷き返した。
実際、別に弥生を嫌う理由など全く無いのだ。
「……父上は、母上のことを、とても大切にしておられるし……好いておられるのだと思う」
「は」
「母上も……父上のことを敬って、慕っておられる。でも……」
若君が少し哀しそうな貌をされたような気がしたが、これは権六の目の迷いなのかもしれない。
とにかく青白い光を受けて、もともと線の細い若君の御姿は頼りなく儚く見えて、権六は不安になるばかりだった。
「あの……若君、やはりそろそろ寝殿にお戻りになられた方が宜しいかと」
「……私も何時か、誰かを好きになることが出来るのだろうか」
ポツリと小さく呟かれた言葉に権六は瞠目したが、若君は静かに身体の向きを変え、早足で歩き出す。
寝殿の方角へ向かっていると気付いて、大いに安堵したが。
(若君は何かお悩みなのだろうか)
身体は少々人より弱いかもしれないし、又普段御家族と離れて暮らしておられてお寂しいかもしれないが、しかし権六の主は徳川将軍家のご子息、しかも世嗣の君であられるのだ。
この日の本の、大抵の者が羨ましいと思い、妬むか嫉むかのお立場にあられる御方なのだから、と権六は己の内に俄に生じた疑問をねじ伏せた。
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