【下】
珍しくもしんみりとした感傷的な思いと口調で、告白する。
「私も、もうすぐお嫁に行くの」
「うん。知ってる!父上が仰ってたの!すっごい剣士が一杯いる御家なんだって!国も行きたい~」
「お和に可愛いお手玉をくれた、綺麗なお兄様の所にお嫁に行くんでしょう。いいなぁ。お和も一緒に行きたい~」
無邪気な幼い者達の言葉についつい、千代は苦笑する。
同時に、千代は全く知らぬ事であったが、かの外様大名の継嗣である許婚は随分と将軍家の家庭にも親しく入り込んでいるのだと覚った。
無論。
だからこそ、千代との縁談も受け入れたのだろう。
「どうしたの、千代姉様。千代姉様はお嫁に行きたくないの?」
流石幼くてもおなごという事だろうか、小さくて人形のように愛らしい末姫が無邪気に丸い瞳を見開いて、とても鋭く訊いて来るのに咄嗟に応える事が出来なかった。
若君も又すぐに心配そうに千代の顔を覗き込んでくる。
「……そうね。千代は、本当は国松君のお嫁様になりたかったのよ。だから、かな」
「駄目駄目!国は母上とケッコンするんだもの!千代姉様をお嫁にはもらえないの!」
愛らしい困り貌になりながら本気で拒んでくる若君に千代は思わず吹き出した。
がすぐに傷付いた顔を装って拗ねてみせる。
「まあ!ひどい若君ですこと!日頃、千代千代と私を御寵愛下さって、私をその気にさせておいて、千代の心を弄んだのですね!」
「え~」
「国兄様、ひどい!」
賑やかに戯れ、随分と心が晴れてきた、などとも思ったのだが。
「此方においででしたか」
聞き覚えのある、涼やかに美しい声に、千代は息を呑んだ。
それでも身についた礼儀作法に則り、素早く立ち上がり頭を下げる。
「細川様。ごきげんよろしゅう」
「……お寛ぎの所をお邪魔して申し訳ありませぬ。御台様より、姫もいらしていると伺い……御挨拶だけでも致したいと思い、罷り越しました」
「ご丁寧に、有り難う存じます」
深く礼を取ってから、しかし千代は将軍家の姫に相応しく堂々と顔を上げた。
養女となった以上、決して大叔父である将軍や、実の弟妹のように思っている御子達の面目や名誉を汚すような忸怩たる弱腰の振る舞いは出来ない。
(それに私は、小笠原秀政の娘なのだから)
父の家名も又、千代にとっては誇らしくも重いものである。
だが優美で柔らかいーそれでいて底の知れぬ湖のように深く動かぬー眼差しと合うと、心の芯が揺さぶられるような気がした。
美しい穏やかな笑みを千代に与えた後、忠利は将軍家の御子達に丁寧な臣下の礼を取る。
「国松君、和姫様。ご機嫌麗しゅう」
「……」
生まれた時からずっとこの奥殿で、殆ど外部の者には会わず、両親と侍女達に傅かれ守られている御子達は素早く千代の背後に隠れ、千代の着物に掴まりながら、物慣れぬ相手を見上げた。
「……ご、機嫌よう」
「……よう……」
恥ずかしそうに、だが人懐っこい笑顔で挨拶する若君に吊られて、人見知りが甚だしい妹姫も小さく挨拶の言葉を呟いた。
「良い御子様達です。……ますます御台様に似て来られましたね。ご健勝そうで幸いです」
一層優しく笑んでから、忠利は御子達が日常的に接していない相手に対してはー貌は見知っていても直接言葉を交わす事などない者へもー内気で警戒心も強いと承知しているのだろう、深追いはせず、「それではこれで」などと綺麗なお辞儀を返してから、あっさりと踵を返した。
確かにその言通り、礼儀として挨拶をしなければならないとー義務としてー赴いただけ、なのだろう。
(御台様に……会いに来られたのだわ)
千代は哀しくそう思い、振り返りもせず去っていく後ろ姿からは素早く視線を逸らせた。
*
将軍家からの突然の呼び出しが掛かったのは、凡そ一週間後の事だった。
幾分気は重かったものの、登城すれば大好きな人々との対面は当然の倣いであったから、基本的に千代は嬉しかったし、唯々諾々と従った。
おそらく間近に迫った輿入れに関する諸々の打ち合わせやら訓示の申し渡しであろうと思い、将軍の御前に出る。
総触れに使われる大広間や個別の謁見に使われる御広座敷などではなく、将軍が一人で調べ物や考え事をするような小さな書院に通されるのに戸惑い、更にその場に既に許婚である細川内記が座しているのを発見して動揺した。
「これへ」
将軍の落ち着き払った平板な声に従ったものの、己に向けられた大叔父の眼差しが普段より冷たく余所余所しいような気がして、思わず身を縮める。
「千代。そなた、如何なる所存なのだ」
唐突に糾してくるのも、常に理性的で法度や公正という言葉を日頃非常に好んで良く使うこの大叔父らしくない。
どうやらー見た目では全く分からないがー珍しくも大叔父は動揺しているらしかった。
「あの……」
何となくーあるいは大叔父の機嫌や考えを探る手掛かりになるのではないかとー許婚へと視線を流した千代に、特に忠利は目を向ける事なく、だが確実に千代の要請に応えて、膝を進めた。
「上様。姫には関係ない事でございます」
「内記。私を謀ろうとするでない。……そのような真似、其の方だとて、決して許さぬ」
簡単に年下の臣下を封じて将軍は千代に真っ直ぐ向き直る。
「正直に申せ。この内記の、何が気に入らぬと言うのだ。しかも既に輿入れの日取りも定まっている今この時になって拒むとは、そなたらしくない振る舞いだ。一歩譲って、余程の理由があるのであろうと考えてみても」
「……」
「先ずは養父であるこの私に申すべきではないか。何故、このような」
一瞬きつく大叔父が唇を引き結ぶのを見て取り、大叔父の怒りは相当のものであると千代はまざまざと感じた。
と同時に大叔父に言われた言葉に衝撃を感じてもいる。
慌てて許婚へと視線を戻すと、端麗な男は特に動じず、優雅にお辞儀をしただけだ。
(そんな……ひどい)
(幾ら……私が気に入らぬからといって……御台様の事を想っておられるから、といって……こんな……)
己で意識せず、勝手に涙腺が決壊した。
「千代。そのように泣いても無駄だ。先ずは申し開きをせぬか!」
大叔父の厳しい叱責の声もー普段ならば何があっても避けたいと思う冷たく鋭い眼差しも気にならずーどうでも良くて、千代は素早く立ち上がり、こんな時にも綺麗で優雅だと感じ入りそうになる男に詰め寄った。
「何よ!この、卑怯者!よくもこんな真似してくれたわね!」
「姫」
大名家の世嗣、しかも勇武も名高い家門ー祖父や父の名は非常に高名だーで生まれ育った青年は、千代の罵言に流石に顔色を変えた。
武将として、侍としては決して聞き捨てならない言葉とは、千代も承知している。この辺りは将軍家でなく父から習った『喧嘩』の売り方だ。
「そんなに私を妻にするのが嫌なら、話が出た時に断れば良いじゃないの!そ、それなのに、私に顔を見せておいて、私の気を引いておいて、よくも!」
「……」
「わ、私だって分かってたわよ!私だって、自分で情けないって、でもでも、貴男の妻になれるならって思って目を瞑ったのに!狡い奴!この、ろくでなしのコンコンチキ!あ、貴男なんて」
大嫌いと言おうとしたものの、どうしてもその言葉は出てこなかった。
美しく澄んだ瞳を丸くして千代を見上げている男を嫌うなど全く有り得ない。
何とか自分を納得させようと、自分の片恋を終わらせる為にと、拳を固め、きっぱりと言う。
いや、叫んだ。
「何よ!卑怯者の臆病者!自分は好きなひとに好きって言えないからって、年下の女の子を弄んで捨てるなんて、恥を知りなさい!貴男なんか絶対絶対、振り向いてもらえないんだからね!わ、私くらいなんだから!他のひとに片思いしてる男に嫁いで、それでもその薄情男に尽くして、幸せにしてあげようなんて子は他にいないんだから!何よ!一生後悔すれば良いんだわ!もう知るもんですか!」
「姫」
「望み通り、破談にしてやるわよ!一生、片思いしてれば良いんだわ!わ、私はその内、もっといい男を好きになってお嫁に行くんだから!貴男の事なんか……」
涙だけでなく嗚咽が漏れそうな感覚に、一端言葉を途切らせた。
が、千代の決意も衝動も、弱まる事や薄れる事も無く迸る。
「わ、忘れないけど、もっと好きなひとを見つけるんだからね!見てらっしゃい!」
ビシッと相手の眼前に指を突き付けた。
それから今迄静観していたー憎らしい事に全く動揺も驚きも見せていないー大叔父を睨み付ける。
「そういう訳ですから!この縁談は無かった事にして下さいませ!私は必ず他の、上様のお眼鏡に適う立派な殿御を見つけてみせます故、細川様にも小笠原の家にもお咎め無きようにお願い致します!全ては千代の身勝手でございます故!」
憤然と顎を上げ、踵を返した。
そのまま堂々と、将軍家の養女、織田右府の曾孫、徳川初代将軍の曾孫に相応しい毅然とした態度で退場するつもりだった。
だが。
「姫。少々、お待ち下さい」
相変わらず穏やかに涼やかでー千代にとっては己の身を呪縛する妖術のような声に、千代は身の動きを止めた。
言いたい事を言い切った後の虚脱感だけでなく決まりの悪さも覚えて、ついもじもじと千代はその場で身じろぎする。
「上様。ご無礼致しても宜しいでしょうか」
「ああ、許す」
先程の千代の少々不躾で感情的な訴えなど男達二人が見事に無視仕切っているのに、千代はむっと頬を膨らませた。
が素早く、元許婚が己に向き直り、真正面から千代の顔を覗き込んでくるのに、慌てて両手を頬に当てて引っ込ませた。
「……先程、姫は、他に縁談相手をご所望との事でしたか」
「ええ!」
つんと顎を上げてみせたが、不細工顔になるかもしれないと気になり、すぐに戻した。
「既にそのような相手を見つけておられるのでしょうか。ならばこの場で明かして頂きたいのですが」
(何よ。まだ私の事、馬鹿にする気?!)
綺麗な貌をして意地が悪く冷血だと心中で罵りつつも、千代は相手を睨み返した。
「そのような事!もう貴男には関係ないでしょうに」
「いいえ。そういう訳にはいかなくなりました」
「何よ!」
一層むっとして強く千代は言い返したが、そっと柔らかく、だが有無を言わせぬ素早さ強引さで手を取られたのに、口を噤む。
勝手に頬が火照ってくるのが恥ずかしく、だが相手から目を逸らす事も出来ずに睨む目に力を込めた。
少なくとも自分ではそうしたつもりだった。
「……初めてお会いした際、私から決して目を逸らそうとしない貴女が、とても……良い、と思いました」
「……」
「貴女との縁談、いえ、将軍家との縁組みなど、余りにも畏れ多い事と、お断り申し上げるつもりで……御台様にお縋りしようと姑息にも考えておりましたが、思い直した、のです。貴女のような方ならば、我が家でも、我が父とも渡り合っていけるのではないか、と思って」
「……ええ」
今更何を言っているのだろうと千代は眉を寄せたが、忠利は穏やかに優しげな風に合わず、千代の困惑など無視して続ける。
「ですが。それは私の勝手な考えで……貴女のお気持ちを伺っていない事に気付きました。貴女のお気持ちを確かめなければと、そう思って」
「……」
「確かめた以上、私の方からお断りするのが筋、と思ったのです。決して貴女を不足などと思ってはおりません」
「別に慰めて下さらなくても良うございます!」
漸く相手が言いたいことを理解してー少なくとも己ではそのつもりでー千代は男の意外と固く骨っぽい手を振り払おうとしたが、逆に深く掴まれる。
「ですが。私に、僅かなりとも、その、好意を、お持ちでいらっしゃるならば」
「!悪うございましたね!どうせ私は惚れっぽい愚かな小娘です!一目会っただけの貴男の妻にどうしてもなりたい、などと思ってしまいました!でも無理にもらって頂こうなどとは思っておりませぬ!」
強く言い返して、ついでに男の鉄の環のように閉まっている手から逃れようと己の手を振り回した所を、更に腕を掴まれて動きを封じられた。
「何よ!強引な!無礼でしょうに!」
「貴女をこのまま、他の男に渡す訳には参りませんから」
癇癪が破裂しそうになったー正確には金切り声を上げて相手を無茶苦茶に引っ掻いてやりたいという衝動に駆られたー千代の身は、一体どういう加減であったのか、男の腕の中に吸い込まれる。
「な、何をなさいます!」
「……これで我等、夫婦とならざるを得ない仕儀と相成りました。貴女が如何様に仰せであろうと、将軍家の御面目、貴女の御名だけでなく我が細川家の家門に懸けて、決して覆す事、適いませぬ」
柔らかく優しいーしかし明らかに得意げな響きを伴うー声で、忠利が宣言するのに身を固くする。
「お騒がせしました。上様。斯様な事と次第でございます」
「うむ」
常と変わらぬ重々しい将軍の相槌に、そういえば御前であったのだと思い出し、千代はあわあわと両手を動かしたが、勿論全く役には立たない。
「改めてお願い致します。どうか御息女との婚姻、お許し下さい」
「ああ、許す」
男達がまさしく今、己には不可解かつ理不尽な合意に至ったらしいのに、怒髪天を衝く状態でありながら、千代は何も言えなかった。
結局直情的で思うが儘に振る舞う事に慣れている千代には、己の覚悟や誇り、悲愴な決意を無視され台無しにされた怒りや意地よりも、心の内より滾々と湧き出てくるような喜びと幸福感の方が大切であり、従うべきものであったので。
*
祝言を挙げ、褥を共にした夜、夫はその決意を口にした。
「何時か、必ずそなたを国へ連れて行く」
「はい」
素直に頷いたものの、正直どうでも良いと思った。
このひとが居る場所が己の故郷なのだと、そう思っているし信じたい。
「とても豊かで良い国なのだ」
婚姻前と変わらぬ優しい穏やかなー少々浮世離れしたー声に、憧れと夢想のようなものを込めて繰り返す夫の頬に手を当ててそっと撫でてやる。
「きっとそなたなら、父上とも仲良くなれると思う。そなたとならば気も合う筈、だ。父上は、本当はとても良い御方なのだし……」
「ええ。無論です」
いつかこのひとにとっても己が故郷になれれば良いと思い、千代は微笑んだ。
顔色や挙措では全く見て取れなかったのだが酔っ払っているらしくそのまますぐ寝入ってしまったひとの可愛らしい寝顔を眺めながら、千代も又己の幸運と、例えようもない喜びに酔い痴れた。
夫が拘る『父』という人に実際に千代が会うのはもう少し後の事。
更には美し過ぎるーと千代は思っているー夫を持った常として、様々な気苦労は後々ずっと絶えずに続いたが。
それでも。
千代の恋は生涯、その鮮やか過ぎる程の彩りを失いはしなかった。
とよのくに 一宮 オウカ @sorano138
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