【中】

 千代は御台所に礼を取ってから茶碗を高坏に乗せ、叩き込まれた礼儀作法通りに淑やかに静々と運んだ。

 几帳から出た千代に、将軍が微かに手にした扇を揺らしたのを見て取っていたが、流石に御台所の指示とあってはー少なくとも客人の前ではー止められないと判断したのだろう、将軍はそれ以上の反応は示さず、又千代にも特別に目を向けなかった。


 千代は堂々とー勿論、振る舞いとしては大人しやかにー茶碗を客人の前迄運んだ。

 高坏を捧げながら膝を付き、一端頭を下げてから、目線を上げる。


「これは、お手数をお掛けしました。有り難うございます、姫」

 丁寧で恭しい感さえある労いの言葉に驚いて、まともに顔を上げ過ぎた。

 自然、相手の男の顔を真正面から、作法に外れる程不躾にかつまともに真っ直ぐ見詰める形となる。


(え……)


 清らかに澄んだ美しい眼差しに心の奥迄貫き通されたような気がした。

 少し悲しげな憂愁を帯びつつ整ったー男でこのように綺麗な顔立ちの者は見たことが無い、と千代はぼんやりと思った。将軍家の幼い若君達はそれぞれ異なる魅力のある御子達だが、あくまでも本当に子供だ。大人になれば、他の男達のように臭くてむさ苦しくなるだろう、と千代は常日頃残念に思っているー容貌は、男にしては色白なきめ細やかな肌のせいか、あくまでも優しく、雅かですらある。


「……」

 ぼんやりと男の貌に見惚れている千代に不審を覚えたか、男が僅かに眉を顰める。


(夫差の気持ちが分かるかも)

 等と幼い頃、生真面目な将軍に絵巻物代わりに読み聞かせられた漢籍の故事などを思い出す。

 非常に手許どころか、身体の自律自体が疎かになっている、とはこれ又意識の外だった。


「危ない」

 抱えていたままであった高坏から手が離れそうになったのを、男が素早く抑えーつまりは両手を握られる形になったのに、漸く我に返る。


「きゃぁ!」

 己でもどうなのかと感じる程、幼いだけでなく愚かしい声を上げてしまったと思った。

 慌てて、既に男の手に渡っている高坏からは手を離し、その場に平伏する。


「申し訳ありませぬ!粗相を致しまして」

「……いえ。こちらこそご無礼を致しました」

 男があくまでも優しく穏やかに声を掛けてくれるのに、顔に火が付いた様に熱くなってくる。


「しっ失礼致しまする!」

 お辞儀を一つするのが精一杯で、千代はこのような際には慰め抱いていて欲しい、などと思う大叔母の許へと逃げ戻った。


「まぁ、姫。大丈夫ですか。火傷など、しなかったでしょうね」

 飛び付くようにしてしがみついた千代に、御台所は優しく呟いて千代の手を取り、言葉通り傷付いていないかどうか確認する。


「良かった。大丈夫なようですね。後で念の為、御医師を呼びましょうね」

「い、いえ、平気、ですから」

「……気にせずとも良いのですよ」


 そっと小さく囁きかけてくれたのは、千代が粗相をして決まりが悪い思いをしているとか、意気消沈していると思ったからだろう。

 千代の頬を撫でてから、御台所は几帳の向こうへと注意を向けた。


「忠利殿もますますご立派になられました。御父上様も御祖父上様もご自慢でございましょう」

「……いえ、そんな……お恥ずかしゅうございます」


 美しい青年の美しい声が、実際恥ずかしそうに震えているような気がして、千代も頬を染めながら身を震わせた。


(や、やだ。私、どうしてこんな)


「……御台様が点てて下さったお茶を頂けるなど、まことに光栄でございます」

「あら。私の茶など。私の方こそ恥ずかしゅうございます。御父上様や御祖父上様の御薫陶を受けておられる忠利殿にお出しするなど、烏滸がましいですが……点前でなく私の心を受け取って下さいませ」

「そんな……あ、いえ、その、とても美味しゅうございます」


 青年の声の響きに聞き惚れながら、千代は青年が随分と御台所と親しげなのが気になってきた。

 将軍の言によると友人の子ということであるから、あるいは幼い頃からの顔見知りなのかもしれないが、千代の目から見ても、千代よりずっと年上である筈の御台所は今でも誰よりも美しく、若々しく魅惑的な女人だ。


 だが同時に、将軍である大叔父がこよなく愛し、大切にしているひとである。

 それはおそらく、今は将軍と親しげに千代には分からぬ政の話をしている青年だって承知している筈だ。


 浮ついた落ち着かない気分で青年の声を聞きその貌を思い出していた千代だったが、瞬く間に時は過ぎ去り、再び礼儀正しく青年は退出して行ってしまった。

 几帳を取り払って元通り、寛いだ形で座した後、大叔父がすぐに声を掛けてきた。


「どうやら随分と疲れた様子だな。やはり泊まって行くが良い」

「……はい。有り難う存じます」


 何と言っても大叔父は優しいし、大叔母の言う通り、思い遣り深いと思ったが。


「で。どうだ。私がそなたの為に選んだ男は。なかなか佳い男であろう」

 穏やかに、態とらしく問うてくる。


 いつもと変わりがない大叔父の口調と声音であったが、千代の耳には自信満々、それ見たことか、などと言いたげ、という風に聞こえた。

 むぅと頬を膨らませてそっぽを向く。


「別に!一瞬顔を合わせただけですもの!あれだけでは人柄など分かりませぬ!」

「そうか。……最近の若いおなごは難しいのだな」


 将軍が微かな声を上げて笑い、だが後は妻である御台所にからかうような目線を向けているのを横目で眺め、千代は一層ふて腐れた。


 *


 縁談は結局、とんとん拍子に纏まり、父は母の位牌を前にして男泣きに泣いたと聞いた。


(まだお嫁に行ってないのに)


 そんな風に思いつつも、父の亡き母への想い、それから千代自身の母への想いは千代を随分としんみりさせ、父母を安心させる為にも良き妻そして母になるべく努めよう、等と決心させた。


 自分の心向きの変化には、もっと大きな別種の理由があるのには目を瞑る。

 家の為の縁、将軍お声掛かりの婚姻に、己如きが反意を示せる訳がない、と千代は己に言い聞かせーだから、このまま、何も考えずに嫁げば良いのだと結論付けている。


 縁組み成ったとはいえ、許婚や許婚の家族には会っていない。

 許婚は江戸に滞在中だが、許婚の父は国許で暮らしているし、許婚の兄達は御家とも三男でありながら御家の世嗣となった許婚とも疎遠になっていると聞いている。

 十五の頃に人質として江戸に身を寄せて以来、許婚は寧ろ、将軍家やその譜代、旗本達及びその子弟との関わりが多いらしかった。


 おそらく輿入れしても、千代の暮らしは今現在ー江戸邸に住まい、時折登城して将軍家のご機嫌伺いをし、御家との関係を良好に保つーと大して変わりはないのだろう。


 だが実際の輿入れの日が近付くに連れて。

 徐々に千代の心は落ち着きが無く、千々に乱れ騒ぐ、ような気がした。


 自分が気になってならないー不安と怖じ気を感じているー事から逃げているとは分かっていたし、別に人に態々偉ぶったりした事はないし、するつもりもないが、千代は織田信長と徳川家康という、希代の英傑を曾祖父に持つ、現在の武家においては最も誉れ高き血筋の姫だ。


 戦略的撤退や待避は有り得ても、怯懦や愚昧による振る舞いあるいは考えー単なる逃避ーは有り得ない。

 許されない選択肢だ、と千代は思った。


 それでも直情的な彼女にしてみれば、随分と迷い逡巡した後、結局登城した。

 常と同様、直ぐさま快く本丸奥殿へ通される。


「まぁ、千代姫。しばらく見ぬ内に随分と大人びて」


 御台所は変わらず優しく嬉しげに千代を迎えてくれた。

 千代は先ず、御台所から贈られた晴れ着について丁寧に礼を言ってから、決意を持って御台所に視線を当てた。


 改めて見れば、本当に美しいー可憐であるだけでなく嫋やかで艶めかしいー女人だ。

 こういう女人こそ、傾国の美女というのではないか、などと思う。

 実際、将軍辺りは妻の為ならば何でもすると決めている人間だ。


(亡き母上よりも年上、なのよね。忠利様よりも十三も年上なのだわ。……でも私だって忠利様より十二も年下なのだから……)


 年が明けて十三になりはしたが、だからといって突然大人の女になれる筈もない。

 それに、忠利の母ー関ヶ原の戦の折りに敵方の人質になる事を嫌って自害したという誇り高く気高いひとーは、それこそ光り輝く程に神々しい、折り紙付きの美女であったという。

 生母や御台所のように美しい女人を幼い頃から見知っている忠利の目にはーそして忠利本人も男にしておくのは惜しいような容貌の持ち主であるからー千代など、ごく平凡でつまらぬ娘にしか映らないだろう。


(忠利様は御台様とはどのような関係なのですか)

(忠利様は御台様の事をお好きなのではないですか)

(だから、今迄、妻帯しておられなかったのではないですか)

(それを御存知な上様は、誰か適当な女人を忠利様に宛がわれようとしておられるのではないですか)


 問い糾したい、知りたい疑問は、だがこうしてその答えを知っている筈の人と対面してしまうと、口にすればどれも目の前の母親代わりであるーそして今では養母でもあるーひとを傷付けるだけではないか、という気がして来た。


 父の境遇だけでなく母の身上を考えてみれば、どれだけ徳川家更にはおそらく、豊家の時代それ以前には織田家の血筋の人々が、自分達を庇い、支えてくれたのか、千代には慮り知れない。

 確実に分かるのは、大叔父と大叔母が確かに千代の事を可愛がり慈しんでくれているという事実、だ。


「あ……の……聞きたい、事があって」

「ええ。何ですか」

 御台所はふわりと笑んで、優しく千代の髪を撫でてくれる。


「もうすぐ輿入れですものね。色々と不安に思う事もあるでしょう。何でも聞いて下さい。姫が安んじてお嫁に行けるよう、私も努めましょう」

「……」


 千代には想像出来ないような怖ろしい時代に生まれ、生きてきたひとなのだ。

 千代には理解出来ない苦しみや哀しみを味わってきたのだろう。

 そう考えると己の悩みはとんでもなく卑小でちっぽけなモノに思えてくる。


「……あの、どうしたら、旦那様の御心をずっと繋ぎ止めておく事が適うのでしょう」

「え?」

 不思議そうに首を傾げる女人に、焦りつつもだがこれも確かに知りたい事の一つなのだと思い、訴える。


「だって……上様は側室や妾などお持ちでないでしょう?御台様一筋であられます。一体如何様にしたら、旦那様に、そのように大事にして頂けるのでしょう」

「……」

 御台所が繊細な眉を顰め、幾分責めるような気配を醸し出したのに気付いて千代は唇を尖らせた。


「母が生きておりましたら、母に聞きますけれど、母はもうおりませぬ。父上に聞いても、父上は分かっていないと思うんです。……上様にはこんな事、聞けないし」

「……」

「私、旦那様に心を込めてお仕えするつもりですし、御家の為にも尽くす覚悟はあります。でも……夫を、誰か他のおなごと共有するなど我慢ならぬのです」


 大叔母が溜息を吐き、千代を責めるのは止めてくれたー正確には諦めてくれたーような気がして、笑みを堪える為に奥歯を噛み締める。

 そんな千代の頬に、御台所はそっと手を当ててきた。


「何も心配はいりません。忠利殿は誠実な御方です。姫のことを大切にして下さるでしょう」

「でも」

「……人の心を繋ぎ止めるなど、誰にも出来ぬ事です」

 千代が知る、常に柔らかく優しい印象の大叔母らしからぬ口調と感じ、思わず千代は大叔母の顔を見直したが、大叔母は千代に常通り微笑んだだけだった。


「久し振りですもの。皆に会ってやってくれるでしょう」

 御台所は千代の手を取り、幾分上目遣いに甘やかな瞳を向けてくる。


「子達も最近姫には会っておらぬ故、寂しがっています。存分に遊んでやって下さい」

「はい、御台様」


 確かに嫁してしまえば千代は将軍家の養女とはいえ、細川家の人間になる。

 今迄のように気儘に登城したり、将軍家の子達と遊んでやることも出来ないだろうと千代自身寂しく思い、将軍家の御子達が日中を過ごしている釣殿へ向かった。

 子煩悩な御台所が同行しないのを一瞬不思議に思いはしたものの、江戸城奥殿の女主人であり、また徳川宗家の正妻である御台所はそれなりに忙しいひとだとは千代も知っている。

 又、釣殿に居た幼い御子達ー四歳の国松君と年子の妹姫である和姫ーが千代を見つけて、「千代姉様!」などと呼びながら飛び付いて来たのに僅かな不審など跡形もなく消えた。


「竹千代君はどうしたの?」

 上の若君の姿が無いのに何の気なしに疑問を口にすると、幼い子達はとても可愛らしく顰めっ面をしてみせた。


「於福がめって言ったの」

「おやくとーを飲んで、おねんね、だって。竹兄様、可哀想」

「そう」

 素直に言い付けてくる子達の艶やかな髪を撫でた。


「勝姫は?」

「お勝姉様、花嫁修業中だから遊ばないって」

「修行なの!」

 あまり意味が分かっていないらしい子達に千代は苦笑した。

 三の姫も既に、越前への輿入れが定まっている。


「千代姉様も修行するの?じゃ、修行ごっこしよう!」

「修行ごっこ?何それ、国兄様。お和、隠れ鬼が良いの」

「やだよ!お和は鬼になると、泣いてばっかりなんだもの!」

「泣かないもん!」

「嘘つき!泣き虫の癖に!」

「嘘、じゃないもんっっな、泣き虫、じゃない!」

 既に涙ぐんでいる幼い姫を抱き上げて、千代は膨れっ面をしている若君とは手を繋ぐ。


 庭に出ると二人ともすぐに機嫌を直し、千代の両手にそれぞれぶら下がり歌を歌い出す。

 千代も一緒になって歌いながら、幼い頃、姉や兄達と過ごした頃の事、国許の、今現在居る場とは比べ物にはならない程ささやかな城などを想った。


(私も……このように可愛い子達を授かる事が出来るのかしら)


 何の気なしに心中に浮かばせた考えに千代は赤面したが、子達と繋いだ手は離さなかった。

 大御所の曾孫の姫と言いながら、実質は質に近い意味合いでー尤も、父の心情としてはあくまでも御家に対する忠義の証、外様大名らへの牽制としてー江戸に置かれた身だ。

 家族と離れて寂しかった心の隙間は、大叔父夫婦だけでなくその子達が埋めてくれた。


「あのね、国松君、和姫」

「なぁに、千代姉様」

「なぁに、新しいお話してくれるの?」


 生え始めの芝草の上に付いてきた侍女に命じて毛氈を敷かせ、その上に幼い二人と一緒に腰掛けた。

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