苔雲茶
安良巻祐介
苔雲茶をどうしても呑みたくなって、夜に一人部屋の中で立ち上がった。
しかし、もどかしい気持ちを抱えて、すぐにまた椅子に座り込んだ。
手元の冷めた珈琲を味気なく啜りながら、脳裏に思い描く、小振りの、縁の欠けた、ひどく古びた茶碗。
立ち上る、風雅な薫り。
覗き込めば、利休色に濁った熱汁の中へ、映るボンヤリとした顔。その周りを、濃緑の旨屑が、名の通り、雲のように浮かんでいる。…
元は、かの小泉八雲も取り上げた「茶碗の中」という怪談に因む、些か得体の知れぬ滋養の薬であったそうだが、何代か前の主人の工夫で、呑んで舌鼓の鳴るような今の旨い汁物に仕立てられ、それ以来好評を博しているという。
――蜃気楼を呑む、とも言われているんだよ。
――ふつふつと温かな、その汁。それが喉元を過ぎてゆく時、だれしも、背後に誰かが立っているような錯覚を覚えるそうだ。
――そうだよ、誰か、だ。ひどく親しい、けれどなぜか顔のわからない、誰か。
しかし、それを私に教えてくれたのも――誰であったか。
そして、苔雲茶を振る舞ってくれた、あのやけに古臭い空気の茶屋は、どこの峠にあったか。
わからない。考えようとすると、全ては温泉郷の霧の向こうの景色のように、頭の中で溶けてしまうらしい。
あの不思議な茶を呑みたいと思い出すたび、最後には、その謎に行き当たり、結局思いを遂げた試しがないのである。残念無念。
苔雲茶 安良巻祐介 @aramaki88
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