第25話:シンガポールのLIMさんとの出会い
そして1999年が終わりを告げ、新しい21世紀の始まりの2000年を
迎えた。翌年2000年には、サウジアラビア、ロサンゼルス、タイ、マレーシア
、インドネシア、シンガポール、ベトナムと7つのプロジェクトがあった。
しかし、時代は、バブル絶頂期で、史郎は、バブル崩壊を予感していたが、
その通りになり、多くのプロジェクト中止が発生してきたのであった。主なる
原因は、急激な円高だった。1998年秋のドル円の147年から1999年
には110円、2000年1月には101円の円高になったのだ。円換算で、
費用が40%も増えた事になるので、決まったプロジェクトも、米ドル決済が
多く、我が社の儲けが、円換算すると、赤字になってしまった。
と言う事で、2000年1月から交渉するつもりのプロジェクトで価格競争力
がこの短期間の超円高によりなくなってしまい、他の海外勢に、多くの
プロジェクトをもっていかれた。そのため、2000年は、海外営業部の
大きな海外のプロジェクトは、連戦連敗の日が続いて史郎も交渉のための
出張の機会が訪れなかった。それでも2001年に入り再び円安方向に
動き出し110円、120円迄切り返した。2001年10月に、史郎は、
シンガポールへプロッジェクトの入札合戦の交渉に、3人と共に出かけた。
前もって、交渉相手の名前と、最も裁量権のある、上司の名前と、趣味、
嗜好を調べ上げた。幸いなことに、シンガポールのリム・LIM:中国系の
交通局長が、主席で、日本びいきで、日本旅行にも、たびたび来て、
我が社でも接待していた様であった。
今回も、交渉に当たり、博多人形と最高級の玉露茶を手土産に持参した。
今回、我が社の交渉のトップの霧島部長はリム部長に入り込んでいて、
我が社に有利な交渉となっていた。我が社の地下鉄、地下、掘削技術は
世界でもトップである事をプレゼンテーションする仕事、史郎が任され、
」スライドを見せながら、説明していた。終わりに近い頃、東京湾アクア
ラインの地下工事の18mのトンネル掘削工事のスライドの時、ちゃっかり
、そのシールドマシン(掘削装置)を背にして、史郎が、記念写真を撮った
スライドを見せると、リムが、あれに、映ってるのは、お前かと、史郎の顔を
見て笑った。エクセレントと言い、プレゼンテーションを終えた。
すると、拍手しながら、霧島部長が良くやった。リムは、むずかしい話
より、こう言う面白い話の方が好きなんだと良い、後は任せろと言った。
今晩の我が社主催の晩餐会にも出席した時、リムが史郎に微笑んでくれた。
数日後、シンガポールの地下鉄工事を我が社が入札できたとの報道が流れた。
この時、史郎は、この会社に入って始めて鳥肌が立つほど感激した。何という
充実感だ。また頑張っていこうという、やる気がみなぎってきた。その後、
霧島部長に呼ばれて、君は、個性的な性格であり、君に会った、海外の
有力者をリストアップして、その有力者の名前と所属や関連情報を送って
おくから、頭にたたき込んでおけと言われた。
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