第16話:再就職に成功

 史郎は翌日、手はず通りSM建設の山下専務の部屋に行き、これからも宜しく

お願いしますと挨拶した。君の熱心さ、実力は良くわかった。うちで存分にその

実力を発揮して欲しいと言われ歓迎された。その後TK建設から電話がかかって

こないか心配していたが、遂に電話はなかった。その後聞いた話によると東京湾

の橋梁建設にTK建設は全く参加できなくて協議会から脱退したようだ。


 その後、SM建設ではドラフター、製図版のある個室を与えられて係長という

肩書ももらった。ほとんど毎日定時、夜7時前には帰宅できるようになった。

 そして1980年8月になり、SM建設は、2週間の休暇が有り1歳になった

誠一とゆっくりと遊んで、過ごす毎日が続いた。TK建設の時は毎晩9時近くで

出張ばかりの仕事だった。1980年9月になり仕事は現場視察でなくて設計の

仕方の指導ばかりになり、。若手が来ては実際に設計図を書いて見せて、やらせ

て指導する方法が一番身につくようで好評だった。その他は協議会の資料づくり

とか、広報の仕事を頼まれてはワープロで書く仕事が増えていった。


 会社では大学の建築学部を出たばかりの新入社員を次々に史郎の部屋へ来させ

て1日、午前、午後、1人ずつ、毎日2人に教えた。製図の書き方だけでなく、

どういう気持ちで書くべきかとか、誰が見てもわかりやすい製図の書き方を懇切

丁寧に教えていき、いつしか伊藤設計教室と呼ばれるようになり社内でも有名

になった。


 1980年も11月になり風邪やインフルエンザが流行して、家に帰ると義理

の父が具合が悪く熱が37度を超えたので翌日は午前中、休暇をもらい義理の父

を近くのKU病院に連れて行き、熱を測ると38.2度と上がっておりインフルエ

ンザ陽性だろうと言われ緊急入院した。お母さんに午後から出勤する事を話し、

会社に出かけた。その日の夕方、仕事を終え父が入院してる部屋を訪ねると寝て

いたので、そっとして家に帰った。翌日は史郎は、いつも通り会社に出かけた。

 帰る途中で父の病室を訪ねると、お母さんがいて36度台まで熱が下がり食欲

も出たので数日後に帰れそうだと言い、翌々日には退院して自宅療養になった。

 11月も終わりを告げて12月のクリスマスパーティーは可愛い住人が一人増

えて喜びいっぱいのパーティーだった。やがて1981年がやってきて年末年始

の休みも10日あり以前の会社が嘘のように待遇が良かった。

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