第3話:伊藤家の財産分与
お祝いの日に松本から母、和子が東京の山下家を訪ねてきた時、山下和夫をま
じえて3人で伊藤家の財産の件で話をした。まず母が史郎に終戦後、おじさんの
伊藤一郎さんが肺結核で亡くなって伊藤家の財産を母と史郎で分ける事になった
と言った。しかし松本の嫁ぎ先の伊藤家も富豪で、お金に不自由していないので
母が私は財産を必要としないので史郎に全財産を渡すと言い、史郎は話の内容を
理解できたが、何故、母さんの分の財産を放棄するのと不思議そうに聞き返した。
すると、それは史郎が、私にとって宝物つまり全財産なのよと言い、さめざめ
と泣いた。そして昔の話を始めた。あれは冬の寒い朝、1936年2月26日、
早朝、突然玄関をたたく、けたたましい音がしたと思うと大きな口論があり
家の使用人が私と弟を書庫に入りなさいと言い内から鍵をかけた。
そこして一発の銃声がし、大きな足音がして数分後、今度は数発の銃声が
して、最初の銃声で私の母、伊藤早苗が亡くなり後の数発の銃声で、私の父、
伊藤博重が殺されたのよと涙声で言った。本当に悲しく、また5歳の私と
3歳の弟が残されて本当に悲しく寂しかったわ。
その後、この山本和夫さんの判断で屋敷や車、宝石など財産を売って、こんな
危ない日本に見切りをつけてスイスにお金を預けてくれたのよ。史郎が、これか
ら大学の授業料、下宿代など、必要な時に、このお金を使いなさいと史郎を抱き
しめながら優しく話してくれた。
これには史郎も山本和夫さんも涙を見せ、わかりました、言われたとおりに手
続きをしますと山本さんが言い、1971年8月に、ニクソンショックが起きた。
それまで金と交換できる唯一の通貨がドルであり、それ故にドルが基軸通貨と
してIMF(国際通貨基金)を支えてきたのがブレトン・ウッズ体制であったが、
ドルの金交換に応じられないほど米国の金保有量が減った事により戦後の金とド
ルを中心とした通貨体制を維持する事が困難になり、そしてこの兌換一時停止は
諸外国にも事前に知らされておらず、突然の発表で極めて大きな驚きとともに、
その後世界経済に大きな影響を与えた。
山本和夫の長男の山本康男もニクソン・ショック後に日本円と日本株が
必ず上がると言い特に円に関しては、強烈に上がると考えた。
日本株では豊田自動車とソニー株に注目していると言った。
翌年、1972年3月、山本康男は一橋大学経済学部を卒業して野村証券に
入社し、山下和夫さんが三菱商事か三菱銀行に入社してくれるように言ったが、
これからは投資の時代がきっと来ると信念が強く、N証券に入ったそうだ。
山下和夫さんは、自分のあとを継いで欲しかったようだが、言うことを聞かな
かった様だ。史郎は19才の時には1.48億円が口座に振り込まれて
資産総額1.5億円になった。
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