第3話:レフの毛皮・行商と子供が日本航路で働く

 売値は合計で3000ルーブル。店の店主には、2500ルーブルと言って、お金を手渡した。喜んだ毛皮屋の主人は、どうやって売ったのか聞いた。それに対してユーリは商売人の腕ですよと答えて煙に巻いた。明日から、うちで雇うから売れ残った商品を売って来いと言った。


 まーそんなとこかと、ユーリは思っていたが、職にありつけたので良しとしようかと自分に言い聞かせた。家に帰り妻のミラナに事情を話した。ミラナは、これからの仕事が見つかって大喜びだった。儲けの500ルーブルのうちの200ルーブルを刺繡をしたマリアに手渡した。


 マリアに、明日からも手伝っておくれと、依頼した。翌日、セルゲイの店へ出かけて、今後の仕事について聞くと、うちの店で、雇うのではなく、店の商品を卸売りするから買い取って郊外の町、村へ出かけて売ってこいと言った。そこで、仕方なく、了解した。


 セルゲイが、店の倉庫にユーリーに見せて売れ残り品どれでも良いから持っていって良いと言いユーリーが慎重に商品をみて、刺繍つきのブラウスや毛皮のチョッキ、ハーフコート合計15点を選んだセルゲイが10000ルーブルで良いと言った。


 しかし、ユーリは8000ルーブルなら即金で買うが、10000ルーブルなら5回に分けて来月から毎月2000ルーブルずつ払うと答えた。そりゃ厳しい帽子3つもつけるからとい10000ルーブルで即金と言ってもユーリは8000ルーブルで即金の条件を譲らない。


 押し問答したが、即金の魅力に負けて8000ルーブルで買い取った。それ商品を家に持ち帰り4日かけてマリアとベロニカが協力して綺麗な刺繍つきのブラウスに仕立て直したり、毛皮の裏地を刺繍をあしらった生地にして仕立て上げた。


 それを持ってユーリがトラックに乗って女房のミラナと2人で販売して回った。少しずつ売れ始め、チョッキが5つ、ハーフコートが4つを3日かけて売った。売れた金額の合計が12000ルーブルで美しい刺繍が、富裕層の女性達の人気になった。


 しかし、売れないであろうと思った毛皮の帽子や手袋は高く買ってくれたお客さんにサービスとして無料で渡した。それでも、いらないと言われた小物、手袋、帽子は、最終日、近所の人達のじゃがいも、野菜、魚などの食料品と物々交換した。


 最終的に売れ残った手袋や帽子は、地元のアカギレだらけの恵まれない子供達に無料であげた。そう言う行いが、正直者のユーリという評判を呼び、行商にいくと、家に呼ばれて、お茶をご馳走になる事もあった。


 さらに、お客さん達に愛されるようになり順調に売上を伸ばし、お金が入るようになっていった。マリアの息子レフとユーリの息子のフョードルが、中学時代、ウラジオストクに住む日本人、加藤彰が経営する柔道場を見学した。


その時、大きなロシア人を相手に小柄な日本人が、面白いように投げ飛ばす姿を見て、感動した。そして、柔道に興味を持ち、加藤の柔道教室に通いだした。その後、柔道を通じて、日本文化に興味を持つようになった。


 やがて月日が流れ、1957年にレフが、同じ会社のウクライナ系ロシア人女性アリサと結婚。翌年1958年、フョードルが、ロシア系の女性ポリーナと結婚。レフは、妻のアリサとの間に1958年に長男マキシムと1959年に長女ソフィアを授かった。


 フョードルは、奥さんポリーナとの間に1959年の長男マカール、二年後に長女オリガをもうけた。1958年、レフ24歳の時、船会社の仕事で1958年から開設された、ナホトカ、日本の敦賀港への定期貨物船の船乗りの仕事に就いた。


 レフは、敦賀港に着くと、りんご、なし、日本のお米、お餅と、うどん、そばの乾麺など、珍しい物をお土産に実家に帰ってきた。ユーリは、51歳になり毛皮の行商からウラジオストクに毛皮の店を持った。


 その他、食料品や日用品などスーパーマーケットを経営し金回りも良くなっていった。レフの店に閉店時間に売れ残った食料品を貧しい人達に、超格安の値段で売るので、閉店の間際には、かなりの行列ができた。

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