AAゴールデンエイジ

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AAゴールデンエイジ

 結局、日本初の女性首相の座を射止めたのは芦田愛菜だった。初の女性であるばかりでなく、憲政史上最年少での就任だった。

 平成が終わり、さらに愛機(ラブマシーン)がわずか12年で終わり、愛子帝の請振(ギミギミシェイク)が始まった。ギミギミシェイク13年、西暦2043年に芦田愛菜は39歳で首相に就任し、現在は3期目の7年目、46歳である(ギミギミシェイク20年、西暦2050年)。


 かつて天才子役として名を馳せた彼女は、年齢以上の知性や能力の高さを見せて

「実は人生何周目かなのでは?」

と冗談が交わされたこともあった。しかしそれが冗談に聞こえないほど、「これしかない」という最短・最適な経歴でわずか39歳で首相に就任し、初代首相・伊藤博文の44歳の記録を破ったのだった。ただ芦田首相自身は、党総裁選の最中から自身の若さを強調したことはなく、「若いから」ではなく、地位にふさわしい人物がたまたま若かっただけだという。


 彼女は偏差値72の慶應義塾中等部に入学後、内部進学で慶応大学まで進み、フルブライト・プログラムを受けてカリフォルニア大学バークレー校で政治学を専攻した。中東研究で博士号を得た後も米国内で政策系シンクタンクに所属し、中東を専門とする政治研究者として活動した。女優業を辞めて世間から少し忘れられていた頃、28歳でNHKの「プロフェッショナル」に取り上げられたことで世間に鮮烈な印象を与えた。

 英語、アラブ語、ペルシャ語、トルコ語を駆使しその若さで各国の専門家と対等に議論する姿。国連の関係機関で発言を求められ、中東各国を飛び回る。既に十分実用に耐え得るリアルタイム翻訳AIも普及して久しかったがそれを使わない彼女は「自分の声でないと伝わらないことがどうしてもある」と笑う。アメリカ・イスラエルを巻き込みながら、石油からのエネルギー源の転換に成功して生き延びたサウジアラビアを中心とした湾岸諸国と、ロシアと手を組む以外の選択肢がなかったトルコ、イラン、シリア、そうした争いから取り残されたイエメンやイラク、そんな各国の思惑が入り交じり市民の生活が虐げられる。そうした混沌を明快な言葉で解きほぐしていきながら、利害関係国にとっての落としどころを探り当て、キーパーソン達へ働きかけていく。様々な肩書きを持った外国人専門家たちがインタビューでマナ・アシダの素晴らしさを語る映像が挿入されていった。

 日本の人々は彼女が「テレビから消えた芸能人」でも「スクリーンから消えた役者」でもなく、「世界で活躍する専門家」なのだと理解した。実のところ、テレビのクルーも視聴者も、彼女が具体的にどのように「凄い」のかははっきりとは分からなかったものの、他の専門家が凄いと言うので凄いのだろうと思った。


 その2年後、30歳で芦田愛菜は参議院議員になった。

 集票要員と揶揄する声も一部にはあったが、選挙期間中に全国を遊説し、あのよく通る明るい声で、明快に日本社会の問題点を語って怒りを人々に呼び覚ました後で未来への道を示されると、どうしようもなく熱狂してしまうのだった。

 当選後は自民党、宏池会系のグループに所属した。かつての55年体制で覇を唱えた平成研究会(経世会)、その平成研を小選挙区制となってから徹底的に弱体化させ一強体制を作り上げた清和会、そのいずれでもなく政争とは縁が少なく政策通のイメージをかろうじて持っていた宏池会は、芦田にとってぴったりだった。


 当時、自民党は下野していたが「愛菜ちゃん旋風」も手伝って参院選で勝利した結果、ねじれ国会となっていた。「愛菜ちゃん旋風」という呼称は一部マスコミが使用したが、芦田本人は「それは女性蔑視のひとつ」「対等な大人として『ちゃん』付けは不適当」と毅然と、しかし穏やかに反応しつつ、「それに、私個人の旋風ではなく、私たち国民の思いです」と付け加えることを忘れなかった。彼女は「国民の皆さん」という呼びかけは使わず、「私たち国民」という言い方に徹していた。「国民対政治家」ではなく「国民の一人としての私」という意識からだった。


 彼女はさして欲張りとは言いがたい国会対策委員会の副委員長のポストを求め、その通りになった。ねじれ国会下で与野党の調整の重要性が大きくなる中で、野党側の国対委員として彼女は周囲を感嘆させる働きを示した。

 芦田議員は、国会議員707人すべての氏名、これまでのキャリアや所属団体、家族親族構成、傷病歴、その他付随する情報を暗記していた。そのことを誰かに直接誇示したことは一度もなかった。ただ説明しなくとも利害関係を理解した上で最初から落としどころを提示してくれるのは、議員たちに大きな心地よさと安心感をもたらした。それは議員に対してばかりではなく官僚、特に若手官僚に対しても同様の接し方だったから、自然と芦田議員のシンパが各省庁に広がっていった。芦田議員に情報をインプットしておけば、必ず自分に得になる結果をもたらしてくれるという心地よさを提供したために、芦田議員へ流入する情報量は急激に増大していき、それに比例して彼女の重要性が増していったのだった。

 当時の国対委員長は、委員の経験が長く与野党の議員にパイプを有し、いわゆる「国対族」のベテラン議員だったが、顔が広いというだけで調整力はさほど高くなかった。その穴を芦田議員は埋めた。しかし彼女は自身の一切の手柄を、国対委員長の手柄に仕立てあげた。党務だけでなく、国会での仕事でも、地元での付き合いでも、ほとんど自分の成果を他人に譲っていた。そうして恩を受けたと感じた人々がそれに報いようとすると、彼女はそれを素直に受け取った。その報いはすなわちポストであった。こうして彼女は国政の空間の中で、急速にネットワークを構築しその全ての結節点に自身の位置を占めるに至った。

 そのやり方は、宏池会的というより、かつて55年体制下で政界を牛耳った経世会、竹下登元首相のようだと言う人もいた。


 その後の衆院選で与党に返り咲いた自民党は、有力な対抗馬もなく直前の総裁選で勝利した小泉信次郎が首相に指名された。小泉首相は若い頃には抜群の集票力を誇っていたがその力に陰りが見えていた。その穴を埋めたのもやはり芦田議員だった。全国の自民党候補者の応援演説を精力的にこなし、その圧倒的な人気をまざまざと見せつけた。

 第一次小泉内閣での大臣起用もささやかれたが、蓋を開けると芦田議員は内閣官房副長官のポストを得ていた。官房副長官を2年、自民党幹事長を2年、内閣官房長官を2年経験していった。それはかつて安倍晋三が通ったキャリアパスだった。

 40年前、小泉純一郎首相が安倍晋三にそうしたポストを用意していった時は、55年体制下で確立された自民党のキャリアパスが崩れ去り、党首の一存でパスなどどうとでも描けるという、権力集中の一側面を意味した。しかしその息子である小泉信次郎首相が芦田議員に全く同じことをした時は、それは確立されたキャリアパスの一つになっていた。


 芦田官房長官は、教育、福祉、経済、外交、安保、どの分野であっても原稿に目を落とすこともなく滑らかに答えてスポークスパーソンとしての能力の高さを示した。どの記者よりもはるかに勉強していることは誰の目にも明らかだったが、記者を立てて花を持たせる配慮も忘れなかった。時に熱っぽく、時に嬉しそうに、それでいてわざとらしさもなく自然体で語りかけた。記者達と冗談を交わすこともあった。

 一方で各省庁・大臣間の調整役も十分に果たした。国対委員時代に築いた議員、官僚とのパイプが役立った。予算編成の最終調整の段階で、中国との緊張が高まり、その上ある省での不正行為が明るみになった。同時に3つの厄介事が重なったが、彼女は関係者の誰にもダメージを与えずにさばき切った。彼女はあくまで調整者として、表だって解決したわけではなかったが、複雑な利害関係を平行してさばいて当事者たちにアクションのヒントを提供し続けた。ほとんど答え一歩手前のヒントを与えて、本人達にはあたかも自分で答えを見つけたような気分にさせて、政治家や官僚のプライドを守ってやっていた。「彼女に任せれば大丈夫だ」という雰囲気が醸成されていった。

 小泉首相は総裁任期を2期6年務めて退任した。後継として芦田議員を指名し支援に回った。総裁選は3人が立候補したが、芦田議員の出身派閥である宏池会、小泉前首相の出身派閥である清和会の支援を受け、一度目の投票で議員票・党員票ともに芦田候補が過半数を獲得し、芦田愛菜は「ごく自然に」首相に就任した。女性初、30代初、参議院議員初の内閣総理大臣だった。




 首相就任時、愛子帝が

「おめでとう」

とカジュアルに祝意を伝えると、芦田首相もまた気軽に

「火中の栗だよ、こんなの」

と応じた。

 細々と説明をしなくても、芦田首相のその一言だけで愛子帝は理解した。


 事実、誰が首相に就任してもお先は真っ暗だった。

 覇権国家が存在しない状況は世界にとって不幸だった。アメリカも中国も一国で覇を唱えるには至らず、二国の熾烈な主導権争いで世界は疲弊し、ブロック経済が進んでいた。どの国々も、状況や分野に応じて細かくどちらかにつき目まぐるしく国際情勢も変わってゆく。安全保障面では対立しつつ経済面では折り合いをつけるといったことは当たり前で、単純な認識では間に合わない。あまりに複雑化し過ぎていた。資本と国家と民族の軋轢が限界に来ていた。

 極東では朝鮮半島が南北融和した結果、西側諸国の一員だった韓国が中国側に寄り、防波堤のラインが下がって日本は直接中国と対峙せざるを得なくなった。その中で日本はロシアと関係を強化しつつ、アメリカとも関係を維持することで立場を守る必要があったが、同時に中国市場を無視できはしないから経済面では折り合いをつけていく。そうした立ち位置はちょうど中東諸国と似た面もあって、かつて芦田首相が築いた人脈が役立ったのだった。かつての人脈はそれぞれの国の中で出世し有力者となっていた。


 最新情勢に関する大量のインプットから、短期的な最適解を求める作業を繰り返し続ける。それを芦田首相が自らこなしていた。本来であればブレーンや官僚がやれば良い。しかし高いレベルでその情報収集と分析と選択肢の洗い出しのできる日本人の絶対数が不足していた。

 40年前から日本で基礎研究をないがしろにしてきたツケが、こうした形で回ってきていた。日本の科学技術力は衰退し、ノーベル賞受賞者も長らく輩出していない。根本的に知的体力のある日本人が減っていたし、優れた人材がいても海外に流出していた。

 基礎学問を捨てて実学に走ればこうした将来が訪れることは誰もが分かっていた。それでも実学に走らなければ利益を上げて生き残れない。このチキンレースに早々に破れた先進国のひとつが日本だった。

 自然科学だけでなく人文系の優秀な人材も乏しい。

 外国人労働者が増加しても十分な教育が行われない環境が、生きるために彼らを団結させ、言語・文化面の断絶を生んで国家内でコミュニティが分離する現象を生んでいた。宗教的な争いは幸い起きていなかったが、ナショナリズムを強化させて国内での憎しみをじわじわと育て上げていった。人文系の人材の乏しさが間接的にこうした問題に効いていた。


 そんな苦労を乗り越えて、国際情勢の綱渡りをかろうじてやりきったとしても国内の経済的な豊かさには結び付かない。せいぜい「ひどい悪化を回避する」ことにはなっても、「良くなる」ことにはならないのがつらいところだった。

 産業資本主義の末期に生きるどの国も似たり寄ったりだった。価値体系の差分から利益を取り出す資本主義というシステムは、水の高低差からエネルギーを取り出す水力発電のようなものだが、その「水の高さ」がもうどこにも見当たらなかった。ずっと昔は遠隔地貿易によって「地域による価値体系の差」から利益を得ていたが、すでに世界中のどの地域も十分な物流網と情報網の整備によってそんな差は消滅していた。それから農村と都会、発展途上国と先進国といった間の労働賃金の差を利用して利益を得ていた時代もあったが、その差も使い果たした。

 残るのは現在と未来の価値体系の差から利益を取り出す、つまり「既存の技術や製品をバージョンアップして小さな利益を生み出す」あるいは「革新的な技術や製品を出して大きな利益を生み出す」ことだが、それもスピードが激化して人間が追従できる水準をすでに越えてしまっていた。

 産業革命以降、人類の技術進化が指数関数的に伸びたのは、この産業資本主義のシステムによるものだったが、「良くすればするほど、もっと良くすることを要求される」仕組みは人類を徹底的に疲弊させた。誰もが「どうしてこんなに技術が進歩したのに、私たちの生活は苦しくなっていく一方なのか」と疑問を抱いていたが、基本システム上の問題だった。だが、この「基本システム」を一国だけで放棄しようとすれば、「一人負け」状態に陥り、破滅的な苦しみが待っていることは目に見えていたから、誰もこの勝負からは降りられない。

 AI技術は、この状況から人間を救ったかと言えばそうはならなかった。単に人間が生物として持つスピードの限界値を多少緩和させ、「基本システム」を延命させるのに役立ったばかりで、むしろ人類をさらなる苦しみの中に追い込んだだけだった。かつて人間が危惧した「AIの反乱」とか「AIが仕事を奪う」とかいった事態は起こらず、AIはどこまでも人間の役に立って寄り添ったが、その寄り添いがかえってじわじわと人類を苦しめていった。


 そんな中で、支持率を維持して政権を安定させなければならなかった。正しい方法は、国民に希望を持たせることではなく、国民を絶望させておくことだった。「どうせ人生は良くならない」と人々を諦めさせ、疲れきって「もうどうでもいい、とにかくこれ以上悪くならないでくれ」と思わせる。その中で「他よりはマシ」という消極的な選択で支持率を維持させていく。

 あえて国民をマイルドに貧窮させておくことで、疲れさせて反対する気力さえ奪っておく。このネガティブな手法は、芦田政権のものというより、一つ前の小泉政権も同様だった。かつて国民に大きな希望を持たせた政党が自民党を打ち負かして政権党を担ったが、その希望が急速に失望に変わるにつれて、怒りは政府・与党へと向かって一気に支持率を失った。小選挙区制では党首に権力が集中するが、その権力は支持率に淵源するから、支持率が失われれば党首は信任を失って交代する。しかし政策とは無関係に失望する構造は変わりないからそれでも支持率は回復せず、次第に政党は構成員を失って瓦解していく。そんな姿を反面教師にした結果、国民を疲弊させて飼い慣らす手法が定着したのだった。


 首相業はそんな「火中の栗」だった。それを上手にこなせば国民は痛み止めを飲みながら生きていくことになるし、下手に進めれば大いに苦しみながら生きることになる、といった違いがあるだけで、病が根治することはない。誰がやっても変わりなかった。

 愛子帝はそうしたバックグラウンドを認識していた。

「でも、あんたはその栗を拾った。そういう人なんだよ、あんたは」

 そう愛子帝が言うと、芦田首相は目を合わせず無言でふっと笑っただけだった。




 芦田愛菜が首相に就任する12年前、皇太子愛子内親王が天皇に即位し、ギミギミシェイクの時代が始まった。

 前の天皇、すなわち愛子の父帝、徳仁は即位した時点で59歳であり、その先代、愛子の祖父である明仁の55歳での即位と比しても高齢だった。徳仁には健康問題などはなかったが、71歳で「若い世代に託したい」と日本国民に語って30歳の一人娘、皇位継承順位第1位の愛子へ帝の座を引き継いだ。平成からラブマシーンへ移った時点では、皇位継承順位の第1位は秋篠宮、2位はその息子の悠仁であり、女性皇族には継承権がなかった。誰も愛子帝の誕生など想像もしていなかった。


 父帝、徳仁が即位した時、愛子内親王は18歳だった。まだ学生だったが皇族全体の高齢化とメンバー減少の中ですでに多数の公務をこなしていた。さらに秋篠宮の二人の娘が婚姻により皇籍を離脱したため、天皇 徳仁、皇后 雅子、皇嗣 文仁親王、皇嗣妃 紀子そして愛子内親王の5人に公務が集中することとなった。秋篠宮の長男・悠仁親王はまだ中学生だったから公務を担うには早過ぎた。

 愛子内親王が膨大な公務をこなし学生生活に支障が生じているという報道が流れ、世論を喚起した。学習院大学に進学した彼女の成績は他を圧倒して抜群だったが、出席日数の面はどうしようもなかった。公務の整理を進めた甲斐もあって愛子内親王は無事に大学を卒業した。しかし一連の報道を通じて「膨大な公務に皇族が忙殺されている現状」と「愛子さまの優秀さ」を国民は深く知ることになり、同情と尊敬が集まった。

 愛子内親王が結婚によって皇籍を離れれば、残されたわずかな皇族に一切の公務が集中することになる。女性宮家創設が現実的な課題として浮上したが、政府の対応は歯切れが悪く遅々として進まなかった。しかし愛子内親王が20歳になってすぐに婚約を発表したことで事態は一気に進展した。愛子さまの皇籍離脱へのカウントダウンが始まったからだ。

 「女性宮家の創設等に関する皇室典範特例法」がラブマシーン3年に成立し、「女性皇族は一代に限って宮家を創設できる」とルールが改訂された。ただし「旧皇族を復帰させる」というルールは盛り込まれなかったため、実質的に愛子内親王を皇族に留め置くためだけの法律だった。

 愛子内親王は22歳で結婚し男児をもうけた。夫は「たまたま」旧皇族の出身者だった。戦後の臣籍降下で皇族の地位を離れた11の宮家のうちの1つの男系男子だった。


 しばらくして大学生になった悠仁親王が行方不明になるという事件が起こった。宮内庁はその事実をひた隠しに隠したが5日後に情報がリークされると連日連夜メディアはその話題一色になった。誘拐、失踪、殺害、あらゆる憶測が取りざたされたが、7日目になって本人の映像がYouTubeに公開された。皇族を離脱したいという意思が語られた18分間の映像だった。


 私の行動によって多くの人々に多大な迷惑と心配をかけていることを、まずは率直にお詫びし、私の行動がどのような意図や思いから至ったものかを説明したい。

 将来、即位する立場にあるということは理解している、この世に生を受けて今日までずっと、国と国民によって生かされてきた立場も理解しているし、今後は公務によってそれに報いるべきだとも思う。

 しかし、自分自身も国民の一人となって働き、誰かを支えていきたいという思いがずっと強くあった。そのあり方が本来自分のなすべきことだという確信が年を追うごとに強くなっていった。そして、そうした確信を抱いた人物が、国民統合の象徴としての責務を果たし得るのかという疑問も、同時に強くなっていった。家族や職員にもこの思いを伝え続けてきたが、受け入れられることはなかった。それは当然のことであり、周りの誰もが私を思いやって心の底から助言してくれていることも理解している。

 これは、一人の未熟な者の、愚かな我が儘だと批難されるだろうと思う。大人になれば理解できるだろうから早まるべきではないと諭されるかもしれない。そしてそれは真実であるかもしれない。それでも、人がその人生を賭して役目を全うしたいと願った時に、与えられた役目と自身の信ずる役目とに乖離が生じた時、独立した一人の人間はやはり、自身の信ずる役目に殉ずるべきではないか。

 国民に生かされ、象徴になるというあり方をここで否定したいわけではない。そのような意図は全くなく、ただそうではないあり方、国民の一人として生を全うしたいという思いが、私をこの行動に至らしめているのだということを、どうか理解してほしい。


 19歳の端正な顔立ちの若者が、そんな意味のことを穏やかに、しかし切実に画面に向かって語りかけていた。国内に大論争を巻き起こした。身勝手な行動だという意見もあったが、大半は悠仁親王に同情的なものだった。

 この訴えは、天皇制が「生まれによって基本的人権から疎外される人物が存在することを認める」という矛盾に依拠して成立している事実、これまで曖昧に無視されてきた事実を、まさに当事者が正面から問うものだった。そのため憲法訴訟まで起こされた。

 そしてそこに至っても悠仁親王が一体どこにいるのかまだ突き止められていなかった。このまま彼の願いが否定されれば、彼が自裁さえ選択するのではないかという恐れも声高には語られなかったが人々の中には確実に生まれていたことも、悠仁親王擁護を後押ししていた。


 皇室典範の第11条は次の通りである。


年齢十五年以上の内親王、王及び女王は、その意思に基き、皇室会議の議により、皇族の身分を離れる。

○2 親王(皇太子及び皇太孫を除く。)、内親王、王及び女王は、前項の場合の外、やむを得ない特別の事由があるときは、皇室会議の議により、皇族の身分を離れる。


 悠仁親王は、親王であったから2項に該当した。

 また皇室会議は第28条で規定され、首相、衆参両院の正副議長、宮内庁長官、最高裁長官と最高裁判事1名、皇族2名の計10名で構成され、第29条によりその議長は首相である。

 当時の皇族は、上皇后美智子、天皇徳仁、皇后雅子、愛子内親王、皇嗣文仁親王、文仁親王妃紀子、悠仁親王のわずか7名しかおらず、上皇后、天皇、皇后は慣例上、皇室会議のメンバーには選出されないため、実質的には秋篠宮家の3人と愛子内親王の、計4人しか候補がいなかった。

 この時の皇族2名の議員は、皇嗣文仁親王、愛子内親王だったが、第36条の「議員は、自分の利害に特別の関係のある議事には、参与することができない。」という規定により、悠仁親王の皇籍離脱を議事とした今回の皇室会議には文仁親王は参与できなかった。第30条により成年皇族から予備議員が2名定められているが、その2名は文仁親王妃紀子と悠仁親王だったから、この欠員は充当されず、皇族からは愛子内親王のみが出席し、皇室会議は9名で開催された。


 皇室会議の開催に合わせて、所在不明だった悠仁親王が姿を現した。皇室会議の議員たちは、悠仁親王が翻意し皇籍に留まり、将来の皇位継承を認めるよう促したが、当人の意志は固かった。

 議員からの

「もし皇室会議で反対多数と決議され、皇籍離脱が認められなかった場合はどうするつもりか」

という質問に対して

「皇位の任を果たさない手段は、いかようにでもあろうかと思います」

とただ答えただけだった。その場にいた全ての議員が、自ら命を絶つ選択肢を彼は排除していないのだ、という恐れをはっきり理解した。

「それではあなた以外の誰が皇位を継承するのか」

という質問には

「私がそれを決めたり指名したりするような立場にはありませんが」

と断った上で

「私は愛子内親王が次代の皇位継承者にふさわしいと考える」

と言明したのだった。議員として出席しながらそれまで一度も発言していなかった愛子内親王へ議員たちの視線が注がれた。しかし黙っている彼女に、議長である首相が

「あなたが皇位を継承する可能性について、どう思われるか」

と尋ねると愛子内親王は

「そのようになれば、そういたします」

と淡々と回答した。それを耳にした瞬間に、首相はもはや女性天皇を実現させる以外に道はないと腹を括った。

 皇室会議は、悠仁親王の皇籍離脱を承認した。


 ずっと後になって、愛子帝は芦田首相にこう語っている。


「ひー君(悠仁)はね、はたから見てても『天皇になること』への葛藤があったよ。もう、葛藤している時点でなれない。だからあたしが手を差し出したってだけで、正直あたしは天皇になってもならなくてもどっちでも良かったんだよ」


「帝王学というのはつまり、刷り込みなんだよ。『お前はそうなる』って覚悟を小さいうちから刷り込ませていく。例えば、貧しい家に生まれて、両親にずっと『うちは貧乏だから』『お前もこうやって生活していくんだ』って小さいうちから刷り込まれたらどう? そう生きることから自由になるのが難しくなる。それと同じ。これって、『自分の生き方は自分が決めなきゃいけない』って価値観が蔓延しているけど、それだって刷り込みの一種で、みんながそう思い込まされているという点では同じだけど、ただ作用の仕方が裏表なだけ。『お前の生き方はこうだ』って刷り込みも、『お前の生き方は自分で決めろ』って刷り込みも、親や教師は別に意識して刷り込んでるわけじゃないだけで同じ。ただ帝王学が違うのは、それを分かっててやる。一種の狂気と言えるかもしれない。

 叔父様(秋篠宮)はご自身も帝王学を受けてはいないから、そこまで振り切って自分の子供に刷り込むことはできなかった。どうしてもためらいが出てくるんじゃないかと思う。逆に父(徳仁)はそういう教育しかできなかった。自分の受けた教育を、自分の子供にするというのは、自分自身を無意識に肯定しようとすることの一環なのかもしれない。

 世間でも学習院(に通った私)とお茶の水(に通った悠仁)の違いが言われているけど、実際にそれはあると思う。自主性を重んじる校風がメリットと言われるけど、刷り込みの種類が違うということで、それは『自由であること』とは違う。かえって表面上は自由であるように見えてしまって、原理的にあるはずの不自由を隠蔽してしまうという意味で、実はかえって不自由なんだと思う。

 それは、ひー君の選択が間違っていたっていう意味じゃない。誰でも、刷り込みや思い込みから自由にはなれない。その制約の中で真剣に考えて出した結論ならそれはもうしょうがない。あとはせいぜいその不自由さをどこまで自覚できるか、という話でしかない」


 愛子さまが悠仁さまを追い落としたのではないか、やめたくなるように仕向けたのではないかという噂も世間にはあった。その「思い込み」に隠微な影響を与えて誘導するということは可能かもしれない、と芦田首相は愛子帝の話を聞きながら思ったが、それは誰にも分からないことだった。


 「女性天皇の即位等に関する皇室典範特例法」が成立し、愛子帝の即位前日に施行された。施行日がそのように設定されたのは「施行日以前に愛子さまが亡くなることがあれば法律が無効になる」とされていたためで、また「施行日は政令で定める」とされた。これは平成天皇が生前退位する際の処理と同様だったが、違いは特例法が成立した時点で、平成天皇は退位への流れが決まっていたが、今回は徳仁の退位の見込みまでは立っていないという点だった。

 また女性天皇は一代限りとされ、男系での継承は維持された。愛子内親王は「たまたま」男系男子である夫と結婚し、その時点ですでに2人の息子を儲けていたから、男系男子の皇統に関してもクリアしていた。

 この特例法により皇位継承順位が変更され、1位が愛子内親王、2位が愛子内親王の長男、3位が次男、4位が秋篠宮となった。一連の騒動で、秋篠宮の責任論が世間には噴出していた。国会の内外で特例法の内容に関して紛糾している最中に、秋篠宮が「お気持ち」を公表し、国民に心配をかけたことを詫び、自身が皇位を継承すべきとは思わない旨を表明したことで、男子優先ではなく長子優先の継承順位にするという方向性へと流れていった結果だった。


 先帝(明仁)が退位の意思を表明して以来、皇族による皇位継承にまつわる言動が増えていた。大平洋戦争の反省からくる「天皇・皇族の政治的影響力」の懸念を示す人たちもいたが、大多数の国民はそうした「お気持ち」の表明をもっともなことだと受け止めていた。天皇・皇族を機関として見る人々は「黙っていろ」と言うし、人間として見る人々は「発言するのは当然だ」と考える。現実の国民の大多数は曖昧にその中間あたりにいた。これも、人間でありながら人権を制約された矛盾の表出のひとつだった。


 女性宮家の創設も、女性天皇の即位も、皇室典範そのものを改正せず特例法で対応したのは、国粋主義団体への配慮からだった。自民党内では相変わらず国粋主義団体の支持を受けて活動する有力議員が多く、彼らは(本当の自身の考えはともかく)女性宮家も女性天皇にも反対だったが、それ以上に世論の賛成が大きかったこともあって、容認せざるを得なかった。「進めたのは首相であって我々はあくまで反対した」「我々の反対で今回限りの特例にすることができた」というポーズを取って支持団体からの攻撃を弱めようとしたが、その結果、首相は総裁任期は満了したが再選の見込みが立たず出馬断念に追い込まれて首相が交代し、その後も政局が安定せずついに自民党の下野に繋がった。


 そして徳仁が父親と同様に生前退位したことで(これも特例法で処理された)、愛子は30歳で即位した。この時、愛子帝は男3人、女1人の母だった。

 愛子帝はその後も次々と子をなしていった。臨月にもかかわらず被災地を訪問し、被災者がひしめく体育館の中で出産したこともあった。ふいに陣痛が訪れ、幕を張った一隅で男児を無事に出産した。そのまま子を抱き、汗で光り火照った顔に穏やかな笑みを浮かべて幕の内から現れた姿は、ほとんど神話の中の女神のようで、国民を呆然とさせた。どのテレビ局もネットメディアもその姿を流したが、どうコメントしていいか分からなかった。ある女性アナウンサーは「すごいですね……」とだけ言って二の句が継げなかったが、実際、それがみんなの感想だった。


 皇族はそれぞれ研究者としての一面も持ち合わせている。愛子帝も例外ではなく、彼女は都市工学、特に都市計画史を専門とし論文により博士号を取得していた。第二次大戦後の発展途上国での都市開発に関する分類では、十分な先行研究がなかったこともあって、その分野で世界的な研究者になっていた。単純に形態や時間軸に基づいた分類ではなく、何がそうさせたのかという構造的な要因に基づいて横断的に分類する手法はこの分野で類例がなく学会での評価も高かった。

 曽祖父である昭和天皇が粘菌とヒドロゾアの分類、祖父である平成天皇がハゼの分類、叔父である秋篠宮がナマズやニワトリなどの分類といった生物学の研究者であった一方で、昭和天皇の末弟の三笠宮が古代オリエント史、父である上皇(ラブマシーン天皇)が水運史といった歴史学の研究者だったことを思うと、愛子帝は後者の歴史学の系譜に属すると言える。しかし分類という意味では前者の系譜にも連なり、さらに工学という分野では皇族初だった。

 東南アジア諸国の諸都市に関して大平洋戦争後の発展を論じるということは、旧日本軍による侵略・占領の過程を避けては通れない。事実、愛子帝の論文や講演でもその経緯は語られていた。かつて三笠宮は、戦後になってGHQにより廃止された紀元節を復活させるという動きに対して、歴史研究者として実証主義的な立場から「日本の初代天皇とされる神武天皇の即位日をもって国の記念日とすることは、古事記や日本書紀といった伝説と現実の歴史を混同するものだ」と反対した。これにより右派からは「赤い宮様」と共産主義者のレッテルさえ貼られ中傷された。(結局、紀元節は建国記念の日と名前を変えて復活した。)愛子帝の研究にも同様の事態を懸念する声があった。旧日本軍の行為に関しては徹底的に価値判断を避け、単純に事実のみを書いていたが、それでも「事実」そのものを否定する国粋主義者(団体・雑誌)から「反日天皇」などと誹謗されることもあった。しかしそうした「言いがかり」は、愛子帝の国民人気の前では無力だった。

 愛子帝の研究は、さらに災害と都市再生の分野へと発展していった。




 愛子帝・芦田愛菜首相のイニシャルから「AA体制」と呼ばれたり、名前の「愛」の字から「Wラブ体制」と呼ばれたりした。




 芦田首相は、愛子帝が辛味チキンにむしゃぶりつく口元を何気なく見つめていた。ナイフやフォークを使わず手づかみで食べている。指先に残った皮のかけらと鶏の油を舐めさえしている。完全にテーブルマナーを逸脱している。それなのに、上品だと思った。愛子帝がすると、それが正しいマナーであるかのように見える。マナーが愛子帝を縛るのではなく、マナーが愛子帝に縛られているようだと思った。

 辛味チキンの一本を手でほぐして、身をミラノ風ドリアの上に振りかけた。そして半熟たまごと絡めた青豆の温サラダをその上にスプーンひとすくい乗せて、オリーブオイルをさっとかけ、さらにテーブルに置いてある唐辛子フレークをたっぷりかけた。それを軽くかき混ぜながら愛子帝はおしぼりで指を丁寧に拭きながら、

「私これ好きなんだよね。あんたも食べていいよ」

と無表情で芦田首相に言った。愛子帝は人に勧めておきながらさっさと自分で食べ始めた。ひらりひらりとスプーンが優雅に舞う。愛子帝は日曜の昼間からフレッシュワイン赤のマグナム1500mlを飲んでいた。

 芦田首相は野菜ジュースとメロンソーダを混ぜたものを飲みながら、愛子帝のスプーンの間をぬって「みかどスペシャル」を自分もひとすくい口に運んだ。

「旦那さんは?」

「この時間は『MISIAにおまかせ!』見てるんじゃない?」

「好きだよね」

「うん。ワイドショーとか好きだよ。見ながら出演者と一緒に怒ったり笑ったりしてる」

 和田アキ子が引退した後、番組をどういうわけかMISIAが引き継いだ。MISIA姉さんと呼ばれ、MISIA軍団と呼ばれる芸能界の取り巻きを置いて、芸能ニュースなどへのコメントを飛ばしていた。番組の途中でMISIAが歌うコーナーがあり、さすがの音域と声量で視聴者を圧倒した。

 紅白歌合戦の常連となり、毎年「オルフェンズの涙」を歌い上げる。かつてアッコの「あの鐘を鳴らすのはあなた」を聞いて年の終わりを実感した日本人は、今はMISIAが「オーーーールフェーーーンズ」と歌い上げる姿を見て年を越す。


 愛子帝の夫は、もちろん外では「皇配陛下」と呼ばれていたが、愛子帝との間では単に「旦那さん」と呼ばれていた。皇配は旧宮家の出身だったが、お世辞にも聡明・優秀なタイプとは言えなかった。もちろん芦田首相も何度か会話したことがあったが、丁寧に背景や意図を説明しないと上手く伝わらずに少しイライラすることがあった。天皇の配偶者にまでなったのに、それでも自信のなさの裏返しで虚勢を張るような面があった。相手の意図を正確に読む能力を持っていなかったから、外国の王室などとの付き合いには難しい面もあったが、有能な通訳がそうした不足を補うことで何とかこなしていた。しかし公務は減らされていた。

 一方の愛子帝は西欧語では英仏独伊西語を、アジア圏では中国語、韓国語、タイ語を話した。

「ただの趣味だし、上手くもないから」

と本人は謙遜ではなく言うが、英語と中国語は通訳が不要なレベルで、その他の言語も簡単な日常会話が可能なレベルで習得していた。

 皇配は聡明ではなかったが、善良な人物だった。控えめで野心もなく、家族を愛し、人の苦しみへの共感を絶やさない人だった。公務を減らされている代わりに子供の世話をするし、被災地や施設への訪問では熱心に相手の話に耳を傾け、すぐに涙を流していた。国内に限らず海外への訪問でもその調子だった。「暗愚とまでは言わないが聡明ではない」と国民にも知れ渡っていたが、それでも内外を問わずに人々から愛されていた。愛子帝はそんな夫を「うちの」と呼んで、パートナーというより子供の一人のような仕方で愛していた。


 皇居には様々な建物がある。吹上御苑に所在し天皇・皇配(皇后)の住居である御所、祭祀が執り行われる宮中三殿、新年の一般参賀や歌会始などのイベントが行われる宮殿、また宮殿に隣接して宮内庁があった。宮殿の中に小食堂「連翠(れんすい)」が従来よりあり、茶会・会食などに利用されてきたが、それとは別に愛子帝の時代に入ってから「彩是(さいぜ)」が増築されていた。サイゼリヤが監修し完全にサイゼリヤの店内とメニューを再現させた空間だった。

 愛子帝と芦田首相は、毎月第2日曜日の昼にそこで2時間会食していた。中央省庁の次官、都知事、日銀総裁、学者などが特定のテーマについて天皇らに教える「進講」や、不定期に大臣などが天皇へ報告・説明をする「内奏」があるが、これはスケジュール上は「内奏」と記載されていた。実際にはもっとざっくばらんな2人だけの食事会だったし、内奏の部屋として宮殿の表御座所棟に「鳳凰の間」があったが、そこではなくもっぱら「彩是」で行われていた。内容が非公表という点は内奏と同じだった。これは内容を公表すれば天皇の政治利用にあたるという従来からの配慮に基づくものだった。

 仕事や子育てなどの近況を話すだけだったが、お互いの職業が天皇と首相だったからそのまま国内外の情勢などの情報交換に自動的になっていた。


 芦田首相にとって、この年齢になって姉ができたような不思議な感覚だった。芦田首相は判断を下すのは早かったし、その判断をいちいち悔いたりするタイプではなかったが、それでも話を聞いてくれて、ほとんど説明しなくても理解してくれて、受け止めてくれる誰かがいるのはとても嬉しいことだと思った。そうした役割をパートナーが引き受けてくれればいいのかもしれないが、芦田首相は未婚で私生活上のパートナーもいなかった。側近に話せればいいのかもしれないが、政治の世界で不用意に本音を漏らすことは回り回って自分の首を絞めることになるのは分かりきっていた。

 「天皇の政治利用を禁じる」という制約のためにこうして率直に話し合える相手ができたのかと思うと、不思議な気がしていた。


 芦田首相は何気なく愛子帝のふくらんだ腹を見つめていた。その視線に気付いた愛子帝は腹を撫でながら、

「臨月」

と言った。49歳で14人目を妊娠していた。若い頃に卵子と精子を保存しており、高度な医療技術で体外受精で着床させていた。どうしてそんなに子供を作るのかと芦田首相が聞くと、

「楽しいから」

と簡単に愛子帝は答えた。

 「楽しい」というのは、子育てが好きとか、小さい子供と暮らす喜びがあるとか、家族が多いのは楽しいとか、そういった理由なのだろうか。あるいは、世間が驚く姿を見るのが面白いとか、自分の手で天皇家の子孫を作るのが楽しいとか、そんな意味だったりするのだろうかと、ふと芦田首相は思った。後者であれば狂気だけれど、愛子帝なら別に不思議でもないような気もした。


「うちの子、ダイヤモンドと結婚するみたい」

 シーフードパエリアをさっさと口に運びながら愛子帝は言った。「うちの子」とは皇太子のことだった。すでに長男は27歳になっていた。

「本気?」

「うん。ダメって言ったら降りちゃうんじゃない?」

 「降りる」とは皇籍離脱のことだ。すでに悠仁親王の前例があり、しかも弟たちがたくさんいるのだから、十分にあり得ることだった。もうパエリアはほとんど器から消えていた。

「ダイヤモンドさん……正直どう?」

「いい子だよ。頭もいいし性格もいい。家族も素敵だし」

 ダイヤモンドはすでに何度も皇居に招かれて愛子帝とも面識があった。博士課程に在学中の24歳の黒人女性だった。両親ともが日本国籍を取得し、彼女自身も生まれも育ちも日本だった。皇太子が結婚すれば、将来の皇后は黒人、さらに将来の天皇は黒人とのハーフということになる。愛子帝は目の前にイタリアンプリンを5皿並べて次々に平らげては回転寿司のように皿を積み上げていく。

「お腹が空くんだよね」

「でも、風当たりはさすがに強いだろうね」

「最初はね。でも慣れの問題だよ。時間が経てば当たり前になってみんなどうとも思わなくなる。周りは時間が経てば忘れる、だけど、本人はもし、愛した者と結ばれなかったらそれを一生引きずることになる。文句を言うけどすぐに忘れる人達のことと、黙って飲み込んで一生悲しみを引きずる当事者のことと、どっち取る? って言われたら迷わず後者でしょ」

 デザートを食べた後だったが愛子帝はポップコーンシュリンプを注文してつまみ始めた。

「お腹が空くから」

 ダイヤモンドは極めて控えめな性格だという。世論の風当たりが強く、その上皇室も政府も反対すれば、どれほど皇太子が結婚を望み、自身の皇籍離脱さえ検討しても、彼女は身を引くのだろうと、直接は会ったことはなくても今の愛子帝の口ぶりから芦田首相は感じたのだった。

「あんたが首相のうちに結婚させるから」

 芦田首相もひとつポップコーンシュリンプを口に入れた。付属のサイゼリヤドレッシングは、クリーミーなのに酸味がさわやかで、噛んだ時のエビの旨味も口のなかに広がって嬉しい。今日はサイゼリヤドレッシングをレジで買って帰ろうと思った。きっとダイヤモンドとの婚約を公表すれば、内閣支持率はひどく落ち込むだろうなと思った。

「あんたじゃなきゃ取りまとめらんないでしょ」

 政府の中からも、与党の中からも、世論からも、猛烈な反対に見舞われるだろう。そしてそれは差別そのものだから、諸外国もきっと報道するだろう。特に欧米では、黒人がその努力によって地位を向上させたことに比べ、アジア人への差別はまだ強く残っていた。欧米から見ればどちらも「被差別人種」であるのに、そのアジア人たちが黒人を蔑視しているという構図がきっとクロースアップされるだろう。欧米のメディアは、自分たちの足下の社会ではまだ有色人種への差別を抱えながら、というよりそれだからこそ、自分達を棚に上げて「遅れた日本」として一斉に叩くだろう。そんな未来が容易に想像された。

 ただ、それは現実的に起こり得る景色としてただ想像しただけで、芦田首相は気後れなどしていなかった。愛子帝が「そうする」と言うのなら、私はそうするだけだ。ポップコーンシュリンプをもう一皿注文しながら愛子帝は芦田首相に言った。

「あたしがいいって言って、あんたがそれを後押しして、それで実現できないなんてこと、この国の中であると思う?」


 一瞬、二人とも「あ」と呟いた。揺れの最初の瞬間を体が捉えて(来る)と思った。日本人なら誰でもが体に染み付いている感覚だった。芦田首相は咄嗟に席を立ち、愛子帝の体に覆い被さった。直後、極めて大きな揺れに襲われた。震度7だった。到底立っていられるものではなく、二人ともテーブルのへりに掴まったがなすすべもなく揺すられ、ソファ席から床に滑り落ちた。それでも芦田首相は愛子帝をかばっていた。

「おおおぉぉーっ!」

 自分の体の下で愛子帝が低く唸るのを聞いた。陣痛だ、と思った。同時に今、東京がこの地震で破壊されていく姿を想像した。津波が大田区、品川区、港区、中央区、江東区、江戸川区の沿岸部を襲い、さらに多摩川や荒川を遡上し内陸部も襲い、地下鉄に流れ込んでいくイメージが湧いた。そしてそれは、この30分後に現実になった。

「わくわくするぜェーーーーッ!!」

 芦田首相は大揺れの中で絶叫していた。逆境に立たされるほど、課題が大きいほど、自分でも抑えられない衝動に突き動かされるのだった。愛子帝は無事に出産するし、きっと陛下の研究者としての能力も存分に生かされる。芦田首相は首相就任する以前、議員になってすぐの頃に95年の阪神淡路大震災、11年の東日本大震災を始めとした戦後に発生した大災害の資料や書籍を大量に読み込んでいた。当時の政府・自治体・民間の動きとその反省点を詳細に把握していた。そうした過去の具体的な教訓が一斉に頭の中を駆け回っていた。

 長くてひどい揺れが一旦収まった。職員が一斉に愛子帝に駆け寄る。首相専用端末が大音量で鳴っている。芦田首相の脳の中で突如、「マル・マル・モリ・モリ!」が流れ始めた。もうずっと忘れていたメロディーだ。肉体が勝手に駆動し始めた。


 ダバデュア ダバジャバ

 ダバデュア ダバジャバ デュア~


 強い余震に襲われた。もう地面が揺れているのか、それとも止まっているのかも分からなかった。

「うおーーーーっ」

 愛子帝は吠え、職員たちは地震の恐怖で叫んでいた。もう14人目の頭が出てきていた。

 芦田首相は激しくマルモリダンスを躍っていた。アレンジが効きすぎてもう原型を留めていなかった。揺れに足を取られて転倒したが痛みはない。芦田首相は跳ね起きて躍り続けた。このエネルギーはどこから来るのか。この私の、どこからこのエネルギーが爆発して私の肉体を動かすのか。分からなかったが、脳の全部が圧倒的な速度で働いているのを感じた。あらゆることが、完璧に成し遂げられそうな、完全な確信が全身を満たしていた。


 この惜しみ無い破壊が、二人の黄金時代をもたらす。




※実在の人物・団体・元号とは一切関係ありません。

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