私は貴方との約束を破る
天意報ヰ
こうして、私は約束を破った
没頭していた意識の隙間に、紙面の上をシャープペンシルが滑る音と、時計の針の進む音が入り込んできた。ああ、もうダメだろうな、なんて思考も割り入ってきた。それでもどうにか区切りの良いところまではと、入り込んでくる雑念を押し退けて問題に向き合うものの、手の動きが少しずつ少しずつ雑になっていく。
そうしてしばらく経ってようやく、自分の決めた区切りまで辿り着き、私の手は止まる。顔を上げれば、時刻は一六時をとうに過ぎていた。およそ二時間、私は集中していたようだ。これだけ勉強出来たら上出来だろう。満足しながら参考書とノートを閉じて、我に返ったように顔を上げた。
その先には満足気な顔でノートの上で眠る彼女がいた。とても可愛らしい。可愛らしいのだが、はたして彼女はいつから寝ていたのだろう。横に退けられたプリントの束を見やる。……進展は全然なし。やはり。
もうすぐ三月が終わる。つまるところ学校が始まる。ということは、宿題の期限が間近であるということだ。
ある日なし崩しに彼女を家に招いて以降、彼女は幾度となく私の家にやってくる。宿題が終わってないから一緒にやりたいと、理由をつけてやってくる。私自身はとうに終わっているから嫌だったのだがしぶしぶ了承した。
──したのだが、この有様であった。見張るだけでは暇なので私は私で勉強や読書で暇を潰すのだが、どうにも集中し過ぎてしまう。その間に彼女は寝てしまう。
「起きなさい」
やれやれとため息を吐きながら、彼女の小さな体を揺する。満足気な顔を途端に顰めたが、私は止まってやらない。ゆさゆさ、ゆさゆさと動かし続ける。
「う、うーん。やめ、やめてぇー。起きるからぁー」
「なら、さっさと体を起こしなさい」
観念した彼女はようやく体を起こした。柔らかそうな白い頬に、真っ赤な線が走っている。何かしらで跡が付くほど長く眠っていたようだ。寝惚け眼を擦る彼女の、その頬をペチリ。痛くしないようにしたが、彼女はわざとらしく「いたーい」と声を上げた。
「宿題をしに来たのに毎回寝てばっかりのバツよ」
「ごめんなさーい」
そう言いつつ彼女は私の手に頬をすり寄せる。猫のような仕草。目を細めるところまでそっくりだった。
「ねね。一緒に寝よ。疲れたでしょ。ベッドいこ、ベッド」
「ダメ。宿題はどうするのよ」
「今日のノルマもお家で終わらせまーす。ダメ?」
いつもそれだ。ダメに決まっている。そう口にしようと彼女の目を見ると、どうしてか毎回言葉が詰まってしまう。どうにかして口にしようとまごまごしているうちに、彼女の両の手がそっと私の手を包み込んでしまう。たったそれだけで、私は逃げられなくなる。
──長く集中して勉強したし、私は少し疲れてる。やや遅めの昼寝をしたっていいだろう。
──彼女の宿題は彼女のものだし、進展しようがしまいが、私に責任はない。
──彼女から誘ってきたのだから、一緒に昼寝するくらい問題はない。
心の中で唱えてからゆっくり立ち上がった。スミレはパッと笑顔になり、私の手を離した。少しだけ悔しい気持ちになる。無造作に身体を投げてマットレスを軋ませながら、突き放したような声を無理に作った。
「あとでどうなったって知らないから」
「自己責任でしょ?わかってまーす」
柳に風といったように彼女は私の言葉を受け流す。彼女は私に颯爽と飛びついた。ここまできて避けるような真似はしない。彼女の小さな身体を受け止める。
「うふふ。今日もつかれた、つかれた」
「疲れるほど何かしていたかしら」
「ずっと待ってたもん。待ちくたびれてた」
くたびれた。そう言った彼女のその様子はどうにも、こがれていた、ように私は見えた。
「ああ、よーやくこの時間がきた」
ひどく耳触りが良かった。蕩けてしまいそうな言葉。口に放り込んだ砂糖菓子を思わせる。その幸福感は刹那だ。欲しがる気持ちだけを強烈に残して去って行く代物。抑えることが難しく、段々と私を狂わせていく。
「まるで、私と眠るために来てるみたい」
ずっと口にすることを躊躇っていた言葉が、思考する間も無く口をついて出ていった。吐き出してからようやく我に返り、そして私は恐怖した。この言葉がどう捉えられるのか。そう不安になった理由は、よく分からない。……急に怖くなったのだ。そうなる原因はないはずなのに。
「なんて、ね」
深い意味はない、いつもと変わらない私の言葉だ。つまり皮肉で、そして冗談でしかないのだ。だから貴方は『そんなわけはない』答えてくれればいい。何も邪推しないで欲しい。
なのに彼女はおずおずとしながらそれらを裏切った。
「そうだよって言ったら怒る?」
あまりにもしおらしく、いじらしい。見たこともなかった彼女。その衝撃は、僅かな空白を生んだ。
「……別に、怒りはしないわ」
「ふふ、よかったあ」
それが口に出来ただだけでも上出来だった。そんないっぱいいっぱいな私にすり寄ってくる彼女はもういつも通りの仕草に見えた。私を窺うような彼女はどこにもいない。きっと私の冗談に対する、彼女なりのいつもの冗談で、いつも通り私を振り回しただけなのだ。
激流に飲み込まれているのきっと私だけなのだろう。勝手に一人で救われない私。そんな私を彼女はきっと岸で佇んで見ているだけ。いや、見ていてくれているのかすらハッキリと分からない。
そんな彼女にこの手を伸ばしたらどうなるだろう。憐れんで取ってくれるだろうか。蔑まれて払われるだろうか。
恐る恐る片手を彼女の背に回した。ピクリと彼女の体が震えたが、払われることはなかった。ほっと隠れて安堵の息を吐きながら、少しだけ力を込めて彼女と私の隙間を埋めた。
パチパチと私を見上げる彼女。その姿は少しだけ新鮮だった。だから、だろうか。その後に続いた彼女の表情が、なんとなく、色めいたように見えて。今更ながら意識する。天使の相貌が私の隣にあること。鼻先が触れ合いそうなほど近い。
回せなかった私の右手がそっと握られた。全身が強張り何もできなくなる。目の前で彼女は蠱惑的に微笑んだ。そして私の手だけを連れてって、胸元できゅっと抱き留めてしまう。
「このまま」
小さな口を僅かに動かす、幼気だった彼女。怯える子供のようになった私に、か細い声で囁いたのだ。
「いっしょに、ねよ?」
白無垢に朱の花を咲かせたような、背反的で背徳的な色めき。その輝きは鮮明かつ鮮烈で、私の目にはいっそ毒だった。恐ろしさにも似た華麗と可憐に私は正気を失いそうになって、逃げるようにして顔を伏せて、それで逃げおおせたつもりだった。
投げ出された彼女の脚が、私の脚と触れ合いそうなのが見えた。僅かにブラウスが捲れ上がり、小さな臍が垣間見えてしまう。抱かれた私の手が見えて、その甲から、押し当たる膨らみの柔らかさが強く伝わる。手折れそうなほどか細い首はいやに無防備な気がした。口元は妙に艶やかで、緩く弧を描いていて。
彼女の瞳はそっと閉じられていた。
全部を委ねられている。そんな気がした。してしまった。同じような状況は幾度もあったのに、この瞬間だけがいままでとはまるで違ったように感じていた。
そんなことあるはずない。この感覚もきっとまやかしでしかない。何もかも見間違いでしかない。だって、全てを許されてるなんて、あり得ない。 私たちの関係は、そうじゃないはずだ。少なくとも彼女にとっての私は、そうじゃないはずだ。
逃げるように私も目を閉じるけれど、想いは私を逃してくれない。何度も都合のいいまやかしが瞼の裏に映り込んでは、それを私は否定する。彼女はいつだって自分勝手で、私のことなんて考えず、振り回すだけの女の子なのだから。だから……。
──そうだよって言ったら怒る?
そんな、先ほどの彼女が脳裏を過ぎる。
──ふふ、よかったあ。
それらはまやかしではなかった。少なくとも聞き間違いではなかった。私は改めてギュッと目を瞑り、そしてゆっくりと目を開いた。すぐに彼女の顔が見えた。既に口元に笑みのようなものはなく、僅かに開いた隙間から規則正しい寝息が通り抜けていた。
私はホッとした。いつも通り、今までに見た通りの、彼女だった。見たこと、感じたことは、やはり、まやかしだったのだと。そんな、そんな──。
「私、言ったものね」
──そんな優しい安堵はどこにもなかった。これは愚かで浅ましく、罪深く救いようのない安堵。
心の内で嘆く私がいる。これは裏切りだと。約束の反故だと。許しを乞うことも許されないだろう。でも、私は私に反駁する。それでもこれは、捨て去ることなんて出来ない想念だ。彼女が私の心に積み上げた、私の大切な想いだ。
「どうなったって、知らないって」
これを知れば彼女は傷付くかもしれない。でも、いいでしょ。私だって傷付いていくのだから。そしてそうと知っていても、もうとまれないのだから。せめて、知らせないように努めるから。だから、だから。
「 」
私の唇を、彼女の唇に軽く触れ合わせる。気持ちを押し付けるように。でも、彼女を起こさないように。
触れた瞬間から心臓が激しく音を立てた。そこから再び想いが溢れてくる。それは押し付けた分の比ではない。身も心も熱くなって、とても息苦しくなって。でもこの病症が心地よく感じてしまうのだから、どうしようもないなと自らを嘲る。
やがて少しだけ彼女から離れて、眠る相貌を見ながらに私は口にする。
「自己責任よ」
それは、貴方の。そして、私の。
眠る彼女の頭を一度だけ撫でてから私はまた目を瞑る。きっといつかバレる日が来るだろう。それがずっと遠い未来であったらいい。或いは──。
「……おやすみなさい」
その続きは夢で見よう。夢で見るくらいなら、許してくれると信じて。
私は貴方との約束を破る 天意報ヰ @MukuiTenni
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