KAC9 良いことなんか何もなかった

神崎赤珊瑚

良いことなんか何もなかった

 おめでとうというのは、祝福の言葉だ。

 俺の人生には正しく無縁の言葉でただの一度も言ったことがなければ、言われたこともない。

 生まれてからこっち、俺も俺の周りもろくなことがなかった。

 俺が生まれた産院は、世話になって一年も経たない内に医療過誤がどうしたという話であっさり潰れてしまい、今も取り壊されもせず不吉な廃墟として市内に残っている。

 俺の通った幼稚園は経営していた寺ごと火事で物理的に無くなった。

 小学校は当時から今までずっと学級崩壊が続く県内でも荒廃した要注意校のままだった。

 中高は、共に地元では名の通った馬鹿校であり、評判は最悪であり、少子化の影響で公立校の統廃合が取り沙汰されたときに真っ先に名が挙がり、真っ先に近くの学校と合併して廃校となった。

 就職氷河期に何とか新卒で就職したガソリンスタンドは、給料は悪くなかったが、シフトが回せるだけの人数が集まらず、常に行き詰まった戦場のような職場であり、根が真面目だった俺は、ありえない連勤を続けた挙句に身体を壊して退職する羽目になった。



 不幸だとは思ってない。自分のせいだとも思ってない。ただ、不運なだけだと思っている。



 そんな俺にも、ほんの少し前に転機が訪れた。

 彼女が、出来たのだ。

 俺と同じく、何も世界から与えられず、ただ不運なだけの女だった。暗い目をしており、言動にエキセントリックなところがあり、痩せぎすでいつも背を丸めているせいで不健康そうにみえる。

 が、それ以上に性格は苛烈で、内罰的に自分を責めては追い詰め、常に苦しんでいた。他者には興味はないが、自分は大嫌いだった。

 俺と付き合ったのも、ある意味、助けを求めてのことだったのかもしれない。しかし、他者に救済を求められる女ではないので、口には出せない思いを抱えたまま耐えることは、より辛いことなのではないだろうか、とも考える。

 自立支援を受けながら、就労を模索している人間同士がくっついたのだ。二人で居ても、金はない。

 金がないから一緒に暮らし始めたが、やっぱり金はない。

 遊びに出かけることもできず。

 楽しい会話をするでもない。

 ただテレビを見ながらぼーっとして、

 コメを炊き、半額シールのついた惣菜をおかずにして食事をして、

 ハードオフでジャンク箱から買ってきた古いゲームを延々とやり、

 読み古した数年前の雑誌をまた読み直し、

 たまにセックスをして。

 あのころは、ふたりでいることの意味はわからなかったが、精神的に安定する作用は間違いなくあったのだと思う。出会った頃よりも、彼女が不安にかられて突然泣いたり叫んだりすることもなくなってきた。



 ただ、また何かを失くす予感は抱えたままだった。

 そして、そういう予感は大抵当たるものだ。



 ある晩秋の日、あいつは姿を消した。

 彼女の少ない財産である、唯一のよそゆきのコートを着て、荷物は残したまま存在だけがふらりと立ち消えた。

 一度だけメールを送ったが、返事はなかった。

 この生活の安定も一時のもの、という思いは常にあったので、驚きはしなかったし、悲しくもなかった。

 また、いつもと同じだ。いつもと同じく、俺が関わったものはろくなことにならないだけだ。

 ただ、部屋が少し広いだけだ。

 ただ、部屋が少し静かなだけだ。

 自立支援プログラムの短縮勤務を終え、夕日が赤くなる頃に家に戻るたび、かじかんだ手で部屋の鍵を開ける時、少しだけ寂しく思い出す。そばに誰かがいた生活を。



 日常を繰り返すうちにあいつを忘れられるかと思えば、そんなこともなかった。三ヶ月も経ってもなお、自分の生活から何かが欠落した感覚が抜けない。抜けないどころか、日々より強くなる。

 それは、恋しいとか愛おしいとかそういう感覚ではなく、もっと、自分の生活に根ざした感情のように思う。

 日々、寒さは積み重なってゆく。



 二月に入って、突然あいつは帰ってきた。

 仕事帰り、アパートの部屋の前で、彼女が大荷物の中から鍵を探しているところに出くわした。

「ただいま」

「おかえり」

 反射的に応えてしまう。

 俺はポケットから鍵を取り出し鍵を開け、とりあえず二人で部屋の中に入る。何はともあれ、石油ストーブに火を入れる。

「なんで」

「バイト行ってた」

「は?」

「言ったでしょ。衣食住全部見てくれるから、そのままで行けるスキー場の住み込みバイト。三月までちょっと行ってくるって」

「聞いてない」

「言った」

「メールも通じなかった」

「山奥で電波自体来てない」

 なんなんだろうか。

 イラつきとか、狼狽とか、そういう動く感情はあまりない。

 ただ、静かに安堵していた。

「大体、なんでそんなバイトを」

「ちゃんと生活立て直すのに、まずはまとまったお金がいる」

 そうだな。確かにそうだ。

 俺も、前職で荒廃しきった精神が立て直せたら、きついけれども短期で稼げると聞く期間工をやろうと思っていた。

 そこで気がつく。

 大した話じゃないが一つ説明が付かないことがある。

「スキー場のバイトって、今が一番の稼ぎ時じゃないの」

「そうだよ」

「なんで、このタイミングで帰ってきたん」

「……」

 珍しく、あいつが動揺している。目をそらし、少しうつむく。

 よく見ると、目は泳いでいるし、少しだけ顔が赤くなっている。

「だから。

 できたのよ。アンタの子供。だから早く帰ってきた。

 あ、ほんとうにアンタの子だからね。DNA検査したっていい」

 俺は、そのとき何を思ったのか、どんな顔をしていたのか全く思い出せない。ただ、呆然と間抜けな顔をしていたのだと思う。

 


 おめでとうというのは、祝福の言葉だ。

 俺の人生には正しく無縁の言葉でただの一度も言ったことがなければ、言われたこともなかった。

 しかし、今は会うたびに人に言われる。

 面映い。どんな顔をすればいいのかわからない。

 だが、悪くは聞こえなかった。

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