第十六話

 そういえば私は夏が好きだったと、アイスコーヒーを淹れながら思い出す。自分の趣味嗜好のことでありながら思い出すというのも変な話だけれど、それ以外に言いようがない。熱くて濃いコーヒーに氷をどんどん入れると、パキパキと氷のひび割れる音がした。今日も暑い。けれど、風と共に秋の入り口が見え始めている気配がして、心に幾ばくかの小さな穴が空いたような、そんな気分になる。

 キッチンから部屋へ戻り、床に置いたクッションの上へ座る。低い机の上には、求人情報誌がいくつか並べてあった。私はそれを手に取り、ぱらぱらと目を通していく。

 夏が始まろうという時ぐらいから、貯金が底を尽きそうになっているのは分かっていたことだ。それでも、働こうという気には到底なれなかった。外へ出ることすら億劫で、買い物から炊事洗濯すべて有沙にまかせっきりの私が、(思わず介護されているのとそう変わりない、と自嘲した)そんな大層なことを出来るはずがない。

 けれど、あの旅行から帰ってから何日か後、気が遠くなるほど久しぶりに料理をした。食材を買い、献立を考え、レシピを調べ、料理を作った。楽しかった。湧き出る楽しいという感情に、調理をしながら私は泣いた。ぼたぼたと涙をこぼし鼻水をすすりながら、その時も、そういえば私は料理が好きだったと、思い出したのだ。

 そして、もうほとんど一緒に住んでいると言っても過言ではない彼女が、その日もうちへやって来た。ただいまー、などと言いながら靴を脱ぐ彼女はもはやこの家の一部と化してしまったようで、なんだかおかしな気持ちだった。

 彼女が買った群青色の生成のテーブルクロスがかけられているダイニングテーブルの上にミッチリと並べられた料理の数々を見て、彼女はあほっぽく口を開けて驚きに声を出せずにいた。あほっぽく、というのは少々、いやだいぶと失礼な表現かもしれないけれども、しかしそれ以外に言いようがない表情だったし、その後に続けられた、

「頭打った?」

という発言もかなりの失礼さ加減だったと思うので、お相子だと思っている。それでもなお美しさを保った彼女の顔の造形美には、あっぱれと言うほかない。私は声を上げて笑った。

 我ながらあの時作った料理の献立は、混沌を極めていた。しっかり奥底まで味の染みた肉じゃが、所々肉のはみ出たロールキャベツ、きゅうりとワカメとじゃこの酢の物、生ハムとモッツァレラチーズとトマトのサラダ、ほうれん草のおひたし、ゴロゴロと具の入ったラタトゥイユに、出汁から取った玉ねぎと卵のお味噌汁。洋だか和だか、とにかくごちゃごちゃしていた。欲を言えば麻婆豆腐と青椒肉絲チンジャオロースも作りたかったけれど、残念なことに、さすがにこの量を作った後に中華鍋を振るう体力は無かった。(気力だけは溢れていた)

 しかしながら、それだけの量を作ったというのにあっという間にペロリと平らげてしまった彼女の胃袋__これは若さゆえなのだろうか__には、こちらが驚かされた。いちいち違うものを食べる度に、おいしいおいしい、と頬を緩める彼女の口端は汚れていて、あるのかないのか分からない母性のようなものが擽られた気がした。

 当たり前にできていたことができなくなった時、感じたのは絶望と自身への失望だった。できない自分を激しく憎んだ。机に頭を打ち付け、顎が割れそうなほど歯を食いしばった。出来損ないの私に罰を与えてくれる人はいないのだから、自分で罰を与えなければならない。そう、本気で考えていた。煙草の火は自らの手で私に牙を向いたし、爪は私の身体を傷つけるためにあった。手は息苦しさに喘ぐために使われた。それももう、どこか昔のことのように思える。数年、数十年と過去の自分を見つめているかのような心持ちに、自分でも違和感があった。

 求人情報誌にあらかた目を通し終わり、気になる求人のページに付箋を貼る。情報誌を購入した時に一緒に購入したそれは、冊子から飛び出た部分が猫の肉球の形と柄になっている。それは十種類ほどあって、黒猫だったり、三毛猫だったり、トラ柄だったりした。あまりにかわいらしくて、およそ三十路の女が買うようなものでは無いかもしれないと思ったけれど、購入したその日に彼女に見せてみるととても好評だったので、三分の二ほど分けてあげた。彼女は子供のような無邪気さで喜び、明日早速使うと宣言して、大事そうに筆箱の中へ仕舞った。

 そうしてまた思い出す。そういえば、猫も好きだったな、と。



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そして冬へ 笑子 @ren1031

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