第十五話
旅館は、以前訪れた時とさほど変わりはなかった。何か新しい飾りが少し増えていたり、ちょっとした庭園のようなものがあって、そこの池に住む金魚や鯉が増えていたり、そんな些細な変化しかなくて、あれから、それほど長い時間が流れていないことを知った。
有沙は池の縁にしゃがみこみ、鯉が口をパクパクさせて餌を強請る様子を見て可笑しそうに笑っている。
私はそれを見てふと思い付いて、携帯を鞄から取り出す。カシャ、と音がして、楽しげな彼女の姿が画面いっぱいに表示された。思わずこちらも微笑みたくなるような笑顔だった。
「もう、今撮ったでしょ!」
「なんとなく、撮りたくなって……」
ごめんなさいね、と言いつつ悪びれる素振りもない私に彼女は呆れつつ、でも笑って、写真を残しておくことを許してくれた。今日寝る前に、待ち受けにしてみようと思う。やり方が分からないから、彼女に教えてもらうことにはなるのだけれど。
そういえば、私は彼と写真を撮ったことがあっただろうか。彼の姿を、この機械の中に収めておきたいと、思ったことはあっただろうか。
「そろそろご飯の時間だから、行こっか」
すっと立ち上がった彼女はそう言って、バイバイと鯉たちに別れを告げた。部屋へ戻るその途中にも、私は彼の姿を思い出そうとしていた。情熱的なキスを落とした厚い唇、その時チクリと肌を刺す整えられた顎髭、太い首筋、平行を描く眉、形の良い耳の形、大きくて高い鼻、お揃いだねと言って笑いあった右目の下のほくろ。ハッキリと思い出せる。それなのに、何故だか目だけが、ブラウンの色をしていたのは覚えているのに、あの眼差しが思い出せない。思い出そうとする度、ちらりと顔を覗かせる、黒曜石のような真黒の瞳はいったい誰の。
「涼子」
いつの間にやら部屋の扉の前に立ち尽くし、考え込んでいた私の顔を覗き込むその瞳はたった今想像していたものに酷似している。それに、酷く、動揺する。
「考えなくていいんだよ、今日ぐらい」
ね? と微笑み、共感を求める彼女へ、私は反射的に頷く。
けれど、そうだ、今日は本当に楽しかった。楽しい、という感覚が、また私の中で息吹いたのだ。
真っ当に生きる気力も無く、妬み、僻み、あの女を恨み、哀しみ以外の感情を無くし、そして彼のことを
それに気付いた時には、どうしようもない激情が私の身体を巡っていて、私は彼女の手を引いて、先ほどとは打って変わり素早く部屋へと滑り込む。バタン、と閉まった扉に彼女の背を、少々雑に押し付ける。少し高い彼女の後頭部を私の方へ引き寄せ、口付けた。バードキスなんて子供じみたものじゃ物足りない。私は呼吸すらも出来ないほど彼女を求める。自分の中で渦巻く感情を抑えきれなかった。果たしてこの感情は、一体なんという名前だったか。
しばらくそうしていると、彼女が控えめに私の背を叩いた。名残惜しくも口を離せば、蕩けた表情の彼女がいる。
「ずいぶん情熱的だね」
ふふ、と、珍しく恥ずかしそうにはにかんで彼女は言った。
「わからないのよ、なんでこんなに高ぶっているのか。自分でも。それでも、今、貴女のこと抱き潰してしまいたいぐらいに愛おしいと感じているのは、きっと間違いじゃないわ」
だから、と口早に続けるより先に、彼女は私に幼稚園児が戯れでするようなキスをした。
「抱いて」
その先に何があるのか、分かった顔をしてそう言った彼女の体を畳の上へ押し倒して、あとはもう、そのまま流れていくだけだった。彼女とのセックスはいつも、まるで自分が液体になってしまったかのような錯覚を起こす。そしてそれが、とてつもなく心地よくて、気持ちがよくて、死んでしまうかもしれないと思うほどの多幸感に支配される。一種の麻薬みたいだとか、セックス依存症とかいう病気があった気がするだとか、そんなことを頭に思い浮かべていないと理性を保っているのも難しいほどの興奮が私を苛んだ。
夕食の時間は、間に合いそうにない。
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