第十四話

 慣れない道に迷いながらようやく辿り着いた旅館は、安くて部屋もそこまで大きくない、けれど料理が美味しいと評判の旅館だった。有沙はあまり遠出をしたりこういう場所には泊まったことがないようで、俄然気持ちが昂っているようだ。先程から歌を口ずさんでは足でリズムを取っている。何の歌かは知らないけれど。

 一方で私は気が気ではなかった。旅館へ近づくにつれ、私の脳は鮮明に、あの夏の彩度を思い出す。スロープも無い古く黒い石造りの階段を、私は一度、登ったことがある。その階段を登りきったところにある、目的地の旅館にも。

 偶然なのだろうか、これは。もし全て偶然なのだとしたら、これほどタチの悪いものはない。

「見て!」

 先にてっぺんへ着いた有沙が、こちらを振り返って声を上げた。彼女の真黒な瞳に、宝石のような輝きが見える。

 遅れて登りきった私は、有沙に倣って今来た道を振り返る。

 絶景だった。

 夕陽色に染まる広大な海と、大きな太陽がゆっくりと沈む地平線。朱色に染まる町の瓦屋根に、さわさわと揺れる濃い緑の木々。子供のはしゃぐ声が、潮風に乗ってここまで届く。思わず声を失って、立ち尽くした。

 どうしてだか、胸が痛い。死にそうなくらい、きゅうきゅうと締め付ける胸の痛みは、でも不思議と不快ではなかった。ぐっ、と奥歯を噛み締めて、耐える。耐えてでも、私は見届けなければいけないと思った。この夕陽が沈むまで。あと少し。

 有沙は、何も言わなかった。彼女は私のことをよく理解していた。私の顔をちらりと見て、分からない程微かに微笑んで、そして自分も夕陽を眺めた。

 沈んでいく夕陽とともに、胸の痛みは強くなる。呼吸をすることすら忘れるほど、私はその光景に魅入った。浅く繰り返される自分の呼吸音が耳に響く。鮮やかな朱色から、濃いオレンジ色、それと溶け合うようにして、すみれ色が混ざっていった。空は、とっぷりと黒に染まる。

 すっと胸の痛みは引いていった。有沙の顔を見ると、彼女も私を見ていた。まるで聖母のような慈愛に満ち溢れた笑みを浮かべ、小鳥の羽のように柔らかく、シルクのようにすべらかに、私の体を抱き締めた。私のこめかみの辺りに頬擦りをして、けれども何を言うでもなく、ただそうしていた。

 どれほどの時間が経っただろうか。私は離れ難いその腕からやんわりと抜け出し、彼女の顔を見上げる。

「行きましょう」

 そう言った私をまっすぐ見つめて、彼女は微かに頷き、手を差し出す。私はその手をしっかりと握り返して、二人、ゆっくりと歩き出した。

 潮風が、笑っている気がした。

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