勤労者諸君に乾杯


 あくる日曜はなめてかかっていたらアブやなんかでピーク時並みの忙しさになり、久々にウィダーのお世話になった。順君からは何も言ってこなかったし、私も言うべきことはもうなかった。

 続く月曜も火曜も、私は歯を喰いしばって他人の結婚式の世話をし、連日九時まで働いた。そして火曜の仕事が全部終わって家に帰った十時過ぎ、順君からメールが来た。

 私は読まなかった。代わりに電話帳の画面を開いて、三年ぶりに発信した。

「マリ!」

 呼び出し音は二度鳴っただけで、懐かしい声が応えた。


 智はすぐに来てくれた。うちの親は、長い間智が来なかったことの本当の理由を知らずにいた。「ちょっと、仲違いってゆーか」と私が説明していたからだ。

 でも智は、昔のように三度呼び鈴を連打すると勝手に入って来て、昔のように私の部屋に来る前に一階のリビングで二人と大きな声でひとしきりおしゃべりをして、昔のように階段を上がってきて、ドアを開けた。久しぶりー!

 前会った時と変わらない、ボブの栗毛。私はベッドに膝を抱えて寝ころんでいた。体育座りの横倒しで。

「会いたかったー」私は耳に向かって流れていく涙も放っておいた。うわーん。

 智は、マリ、ブッ細工やわ、しかもそのカッコ何、とこちらに顎をしゃくって大笑いした。つられて私は泣きながら一緒に笑い、しばらく止まらなくなった。

「私も会いたかった」智は私の正面の床に正座した。横向けの私と向かい合った。「呼んでくれてほんまにめっちゃ嬉しかった。私からは言えへんと思ってたから」

 私は唇を噛んで首を振った。髪の毛が、シーツにじゃりじゃりと擦れた。「ごめんな」

「なんで謝るんよ、そんなんいらんわ。私の方が困らして悪かったなって、ずっと思ってた」智は小さく笑った。「私な、あのあとなんか吹っ切れたっていうか、すごい、楽になって、マリに会えへんくなったんは悲しかったけど、自分でいろいろ受け入れて、ママにも話してん。家族みんなにも。そしたら、みんなもわかってくれて、今は付き合ってる人がいる」

 私はひたすら頷いた。

「そのうち紹介するしな」

 だから、マリのことは好きやけどもうそういう好きじゃないから安心しい、と智は続け、にっこりした。私は頷き続けた。どんどんボサ毛になっていくのがわかった。智は悪かったわ、ホンマ、とばかり何度も言った。

「マリのこといっぱい話してるから、知ってるよ。オダマリちゃん、って」

 今や私は盛大に鼻水も出していた。智は、すぐ後ろの棚からティッシュの箱を取ってくれた。勝手知ったる動きで。

「オダマリちゃんは順君とは終わったよ。こないだの土曜日」

 終わるも何も、始まってもなかったけどな、と思ったけど、とっさにはそれは続けられなかった。智はゆっくり頷いた。

「今あかん内容のメールが来てるけど、読んでへん」

「読んでへんのにあかんてわかるん?」

「わかる」

「なんで?」

「明日私休みやん。嫌なこと言うんやったら今日しかないやん。私が次の日仕事トチらへんようにって」私はしばらくしゃくりあげて、しゃべれなくなった。智はじっと待ってくれていた。「思ってるに決まってる。変なとこだけ色々気ィつくねん。そういうひとやねん。順君は」

 智は軽く首を傾げて低く唸った。

「でもさあ、読まなわからんくない?」

「まだ読む勇気ない」

 そうか、と智は足を崩した。久々に見る智の長い脚だった。ややあって、

「順君て、今も坊主なん?」

 アタマ、と自分の頭を軽く叩いて、智が尋ねた。

「ううん。今はそれくらい伸びてる。そんで、たいがいぼさぼさ」

 私が智の頭を指すと、智は顎までの長さの髪を両手でわしゃわしゃやってから、いつぞやのように両腕を広げ、

「ほれマリ、順君やと思って、抱きしめたるから近う寄れ」

 と言った。

 私は大きくはずみをつけて起き上がって、智に抱きついた。私たちは久方振りにぎうぎうと抱き合った。中高生の頃には友達とやたらに相抱擁しあったものだけど、思えば大人になってからバッテラ王子の千早さん以外のひとと抱き合うのは初めてだった。智は相変わらず細いくせいに私より胸があって、大変妬ましかった。

「最後に会った時、順君はここでこう、くくってた」

 私は自分の前髪を頭の上で掴んでみせた。すると智はその辺にあった輪ゴムで、栗色の髪をそのようにしばった。

「あと、ほっぺたに渦巻き描いてた。赤のマッキーで」

「なにそれ。どこで?」

 私が、まる、と答えると、智は鼻で笑い、

「梅田の真ん中で何しとんねん」

 と自分のバッグのポーチからディオールの口紅を取り出し、なに? こういうこと? と言いながら両頬に渦を描いた。わたしが頷くと、おっけー、サービスで鼻毛も描いといたるわと眉墨を握って、さらに両方の鼻孔の下に三本ずつ縦線を引いた。

「どや」

 宗田智が美人なだけに病気のレベルで阿呆と断言できるとんでもない仕上がり具合になって、私はげらげら笑った。

「ちょっと、マリもやりーや!」

 智がぐっと近寄ってきて、ぎゃーと叫ぶ私の顎を捕まえると、同じように口紅でぐるぐる渦を描き、おそろいの鼻毛も生やされた上に額に「肉」の字を入れられ、散々笑われた。

 二人でずいぶん長い間腹を抱えてひいひい言ったけれども、とりあえず何か飲もかと言って冷蔵庫からビールを取って来て、ビオレのクレンジングシートで顔を拭きながら、よく冷えたスーパードライの缶を開けた。

「いやあ、笑った」

「笑ったなー」

「もう大人やのに」

「なー」

 智と私は同時に缶を取り上げて、ぐびぐび音を立ててビールを飲んだ。しばらく静かになった。

「あ、そや、これ」私は触るのも怖くて通勤鞄に入れっぱなしにしていた写真のことを思い出して、智に渡した。「ありがとう。この日初めて着た」

 まるのバイトの子が撮ってくれて、と説明すると、ああ、なー、ほらやっぱり似合うやん、と智は満足げに頷いた。

「順君もこの写真貰ってはったけどどうすんのかな。家帰ってすぐほったかな。てゆーかちゃんと持って帰ったんかな」

「他人の写った写真てほかすん怖いよな。怨念とかありそうで」

「怨念がおんねん、て言うなよ。絶対」

「いやん、言おうと思ったのに」

 私は噴いた。智の、くだらない駄洒落を好む奇癖は依然治っていなかった。

「そういえば最後、まるから出る時に、わたしの愛は無駄になってしまった、って曲がかかっててさあ」

 智がこちらに返してきた写真は、結局また元の封筒に入れて、鞄の底に戻した。

「最悪やな。私やったら店燃やすわ」

「最悪やろ」

 手近なクッションの上に不安定に置いた鞄が、ごろんと倒れた。

「でもほんま、もう会えへんと思う」

 自分でそう言ったら途端に身も世もなく悲しくなって、涙がごっそり帰ってきた。「たぶん」

 すると智は、小さく、でも何度も首を横に振った。

 そんなこと、わからんてば。 


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