なんでなくんよ?


 さあもうこれが本当に最後のチャンスや、チャンスていうか、コールド制のない試合で既に百点入れられての九回裏、こちらはまだ零点、でも今三塁にランナーがいるから一点は返せるかも、くらいの状態やわ。一点返してどうなるん? けど、言うのであれば今しかない。多分。おそらく。思えらく。

 と、そんなことが脳裏をよぎったのはほんの一瞬で、それも頭で考えて「思った」というより、むしろ針に触って手を引っ込めるような「反射」と言った方がぴったりくる感じ。

 最後や。多分。それが痛い感じで。

 しかし私の口をついて出たのは、

「そんなん言われへんわ、いまさら」

 という言葉だった。鼻の奥がツーン。そして今度こそ、今度こそ鉄砲水のように涙が満水になり、決壊しそうになった。そのとき。

 がらっと表の戸が開いて、常連のヤゴさんが「ハッピー」を大声で歌いながら勢いよく入ってきた。

「大将、ワシなあ、ようやっと孫がでけるんやで!」

 店内がおお、と沸き、ヤゴさんはカウンター席の一番奥、つまり我々のテーブルの一番近くに歩を進めた。私はヤゴさんの登場によって辛くも堰き止められた涙をもう一度、今度は痛くなるほど目頭を押さえつけておしぼりに吸わせ、四月からずっとポーチに入れっぱなしになっていたよれよれのマスクを取り出し素早く掛けた。時期遅れのインフルエンザが流行った頃、通勤で着けていたものだった。

 ヤゴさんはアホのサヨちゃんを一目見てぶうううと噴き出し、

「なんや、江藤君やないか、こらまたえらいご陽気やな! どないしたんや!」

 と、順君の背中をばんばん叩いた。

「友達の結婚式やったんですよ」

「ほお、さよか、そらめでたいやないか。世の中めでたいことばっかりや! 酒は? 飲んどんか? ちょっとミオちゃん、江藤君におかわりよんだってえな。ほんで、マリちゃんは何やそのマスク。風邪かいな」

「アレルギー」私は真の必要の下に、ずずうと洟をすすった。

「なんや、あれか、あのハ、ハウス……ハウスダストっちゅうやつか? ははあ、ほんでもホコリで人は死なへんがな、飲んだらええがな、アルコール消毒や。大将も飲みいな。皆さんにも一杯ずつ、今日はワシ、祝いやさかいな」

 再び店内が沸き、ユコちゃんが急ぎ足で砂肝やなんかを運んでくるのに続いてミオちゃんが白鹿の一升瓶を持ってきて、順君のグラスに注ぎつつ、

「マリさんはどうします? あれ、マリさん、マスクなんかしてました?」

 と聞いた。

 あとの質問の方には頷きだけで答え、わたしはしばらく品書きを睨んだ。その間に、ミオちゃんは順君の顔にも気が付いて、くねくね笑った。

「江藤さん、なんかめっちゃ変になってません?!」

「そんなことない」

 順君のその声を聞いて、わたしはマスクをめくって顎まで下ろし、一番高い東北の蔵の酒を頼んだ。今晩私が寝てる間になくなれ地球。



 そのあと順君と私との間に会話は成り立たなかった。でも店中がヤゴさんの孫の名前を考えるのに大盛りあがりになったことで何となく場が持ってしまって、意見を求められてわたしを含むみんなが好き勝手いろいろな案を出しているうちに、やっぱり最近の子供の名前はヘンすぎるわな、という話題になっていった。その頃には順君とヤゴさんは完全に出来上がっていて、結局順君の方は色とりどりのベロステッカーが貼ってある柱にもたれて眠ってしまった。そんなことは初めてだった。

 私には翌日も仕事がある。だから終電前に、大将とべろべろのヤゴさんに眠れる順君を託して、わざとのような「ラブ・イン・ヴェイン」の鳴り響く店を出た。めっぽう明るい地下街を歩きながら、臼井先生はどうしてるのかなあと、つとめて思い出さないようにしている、先生とここを歩いたときのことを考えた。私が先生のことを崖から突き落としたあの日。彼女のことまだ好きなんやろか。

 金曜とはまた違う、土曜の夜特有の空気、酔漢、騒がしい学生の群れ。頭がぼんやりして、通い慣れた界隈の風景が全て下手くそなCGみたいに見えた。てゆーかほんとに全部絵とかだったらいいのに。全部芝居とかだったらいいのに。なんとかオチをつけて、舞台袖に引っ込みたい。そんで、おしまいです、ってことにしたい。そう思って歩いていると、ふわふわと雲を踏んでいるようで、自分の靴音も、ものすごく遠い場所から聞こえてくるように感じた。

 ああ早く家に帰って爆音で音楽が聴きたい。なるべく馬鹿っぽいヤツが。ドアに近い四人掛けのボックスシートに身を沈め、電車が動き出して少しすると、私の頭はじゃんじゃーんじゃんじゃんじゃかじゃんじゃかとガス・ハッファーの「ホットケイクス」を再生し始めた。古いな。けど、いい選曲だ。

 でも、鉄橋にさしかかって列車の走行音が変わった瞬間、急にまたぎゅうっと胸が絞まり、脳内のプレイヤーはぶつんと切れてしまって、私は窓の外を見た。この鉄橋に平行して、向こうには自動車の渡る橋が架かっている。等間隔に並んだ道路灯の橙色の光が、暗い川面に落ちて長く伸び、それは別珍の布に金の首飾りが幾筋も陳べられているようだった。

 

 鳴らせよ、さっきのつづき。


 泣きそうになりながら脳味噌に命令したそのとき、前の席のおじさんが読んでいた新聞をばさっと音を立てて折り返した。夕刊。社会面。豊中で火事、宇治で今流行のレンタサイクル、詐欺、おじさんの指、府立高校教諭逮捕。


未成年にみだらな行為をしたとして、京都府警少年課と九条署――六日、兵庫県尼崎市、大阪府立烏帽子――臼井幸雄容疑者(四十四)を府青少年健全育成条例違――べによると、同容疑者はインターネットで知り合った京――の女子高生(十七)が未成年であることを知りながら、昨――と今年三月に京都市内のホテルでみだらな行為をした疑い。女子高生とその保護者が先月、同署に相談し発覚した。同容疑者は調べに対し「ずっと恋人がほしかった。自分は結婚するつもりだった」と供述、容疑を認めているという。大阪府教委は「数学の指導に大変熱心な教諭だったと聞いており、非常に驚いている。このような不祥事で生徒や保護者の信頼を裏切り申し訳ない」としている。


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