順君は伸びまくった髪の毛を後ろできっちりまとめていた。礼服、白ネクタイ、手には引出物という全身これ結婚式帰りといった様相で、大将や常連さん方からおう、今日はえらい男前やないか、と囃されながら奥まで練り歩いてきて、私の前に腰を下ろした。待っていたユコちゃんに、江藤さんも生ですかと聞かれたが、順君は、もう今日はビールええわ、とお腹を叩いて白鹿大吟醸を注文した。ユコちゃんは一升瓶と一合枡と小さなグラスを持って戻ってきて、枡の中にグラスを立てるとそこに溢れる酒を注いだ。

「おめでとう」

「俺は別にめでたくない。むしろ祝儀で破産や」

「じゃあ、えーと、おつかれさん?」

「おっけー。おつかれ」

 ジョッキを置いたところに冷奴が来て、順君と一緒にホルモンやなんかの串を頼んだ。見慣れないカチっとした順君を、正面から私はしげしげと眺めた。右の眉毛が、眉尻から三分の一の地点でいったん途切れているのは、八つの頃に柿の木から落ちて怪我をしたからだというのを私は知っている。全体的にお父さん似だということも知っている。乱視混じりのド近眼で、コンタクトを取るとほとんど何も見えてないというのも知っている。私がもう何年も好きな男。智としゃべれなくなった今では、一番仲良しの友達。

「見んなや」

「見てへんし」

「昔団栗橋の近所でスコート履いてるオッサン見たやろ。あん時とおんなじ目ぇや」

「そんなことない」

 まだ学生の頃に京都で順君と一緒に目撃した、上半身は普通のセーターなのに下には白いテニスのスコートを着けて白昼通りを行ったり来たりしていた中年男の毛脛を思い出して私は笑った。そんなこともあったな。

「東がマリちゃん元気かて聞いとったで」

 と順君が言った。

「へえ。私のこと覚えてんねや」

「そらそやろ、昔東に写真撮られてたやん」

「そんなことあったかな」

「マリ、あんとき何かされたやろ」

 息が止まった。

 順君は強いので少々飲んだくらいでは顔色も変わらない。だから全然わからないけど、ひょっとしてめっちゃ飲んで来た? なんやろ? 酔うてんの? 

「何かって、いや別に何も。写真撮られて、東君とこで珈琲飲んで、傘忘れて帰った、だけ」

「ほんまに?」順君はなおも聞いた。私はますます動揺した。

「何かされたら覚えてるって。なんでなんで? なんで急にそんなん聞くん?」

 さっきな、と順君は白鹿を飲んだ。

「二次会ん時に東、俺んとこ来て、二十歳になってからこっち陥とせへんかったんはマリだけやて言うとった」

 私がぽかんと口を開けて黙っていると、

「東、あの次の日やったか、写真と傘持ってジャンゴに来たやん」順君はグラスの入った枡を引き寄せながら続けた。「でホンマ唐突にな、マリちゃんてなんなの、同性愛とかじゃないよね、言うてくるから、何でやねんて聞いたら、オレすごい頑張ったのに全然だった、とかぐだぐだ言うてたわ。その時も。そやし、よっぽど悔しかったんやろ」

 あの腐れ若旦那め。今この瞬間雷に打たれて遠いお空のお星様になってしまえ。でも順君が聞いたのはそれだけだったんだろうか。東のアホはぐだぐだ、何を言ってたんだろう。何を。

 私は胃の中に砂利をばら撒かれたような不快感を抱えたまま、東君のお嫁さんはきれいやった? と話題を変えた。

「まあまあやな。でももうだいぶ出てたな」順君はお腹をさする仕草をした。ああ、古賀大迫のパターンね。

「まあまあて、もっと誉めえや。花嫁さんやで」

「俺はほんまのことしか言えへんから」

 そこにミオちゃんがハツと皮を運んで来た。そして、これ遅くなりましたぁ、と私たちにひとつずつ白い封筒をくれた。

「先月撮った写真、焼いたんですよ」ミオちゃんはくねっとした。

「わあ、ありがとう」順君は早速それを開けた。

「マリさんめっちゃエキゾチック美女に写ってますよ」

「実は元ミス印僑やねん、私」

 私も封を開けた。智から貰ったワンピース姿の私と、くしゃくしゃの髪の毛の順君がちっとも笑顔なく並んで座っている。

「俺ら、写真ってないよな」

「うん、これ初写真やわ」

「えー、そうなんですか? ふつう一緒に撮りません?」

 ふつうって何やろう。私はともかく心の底からありがとうとお礼の言葉を陳べて、写真を大事に鞄に仕舞った。順君はミオちゃんに軟骨軟骨忘れてた、と頼んだ。まいどでーす、とミオちゃんが伝票にチェックを入れて向こうへ行くと、順君は写真と中身半分になったジョッキとを脇にやって、

「あのな、俺、昨日転勤の辞令出て」

 とだしぬけに言った。

 咽喉の奥と心臓とがいっぺんにぎゅーっと絞まって、私は「どこ?」と声にするのが精一杯だった。

「ちょっと遠いで」順君は店のドアの方を指差した。「大連」


 ダイレン


 私はうっすら開いたまんまの口の中で、音を出さずにそれを復唱した。上の歯の裏に二度、舌先が当たった。 

「中国」

 順君は、私がもうわかっていることを付け加えた。

「なんで? いつからいつまで?」無意識のうちに、手元のおしぼりを水が滲み出るほど握りしめていた。一度縮んだ心臓が、今度は反動でぼんと膨らみ、バクバク音を立て始めていた。思うように呼吸が出来ない。

「なんかあっちの事務所で一人辞めてしもて、現地で一人採ったけど上手くいかへんでとかなんとか、いろいろあったらしいけど、とりあえず俺が二十四日から最低二年。うまくいったら、つーかヘタしたらずっと」

「二十四日て今月の?」

「そう」

「そんなん、なんでよ、再来週やん」

「なんでって俺リーマンやもん、行け言われたら行かなしゃあないやん」

「じゃあ私も行く」

「なんでやねん」順君はあははと笑って酒を飲んだ。


 なんでやねんちゃうやろいいかげんわかれオマエのせいやないか、と言いたいところだったけれども、それは全然順君のせいではなくて、結局全部自分の責任だった。自分の差してきた手の間違いが、いちいち詳細な解説付きですべて目の前に並べられているような気分になった。怒涛の如く押し寄せるあれやこれ。失策の記憶。未必の故意。


 なんでって、好きやからに決まってるやん


 と言ってしまえばいいのに、この期に及んでそれだけは、それだけはよう言わへんのだった。好きやというのが真ん中にあるのに、私はずっとその外側ばかりをぐるぐる回っていた。ああ、梅田から心斎橋に行くのに、私はずうっと環状線に乗っていたのだ。

「環状線では行かれへんよなあ」

 もう動転を通り越してしまった自分の口は、脳内の雑な感想を垂れ流した。

「そらそやろ。何を言うかな」

 順君がふたたび笑った瞬間、みぞおちが誰かに鷲掴みにされたみたいに決定的に痛くなり、私は左手をそこにやった。そらそうやわ。ホンマ何言うてんのやろ。テーブルの上のジョッキが膨れて異様に近くに見えたり、また遠ざかったりして、自分の身体に触れているはずの左手も、何故かその感触が夢のように思われた。目の奥からじゅわーと涙がこみ上げてきた。じゅわー、というのが自分の耳に聴こえた。

 あかん、たぶん倒れる。


 順君はお化けでも見たような顔で五秒ほど固まっていたが、突然まとめていた髪をぐしゃぐしゃっとほどくと、前の方の髪の毛だけを頭のてっぺんでもう一度手早く結い直し、ポケットから赤の油性ペンを取り出して両方の頬に渦巻きを描いた。いっぺんに、すこぶる頭の悪い『一休さん』のサヨちゃんみたいになった。順君はその顔で、

「ちょっと待て」

 と片手を広げた。

 大したもので、ほんとうに大したもので、こぼれかけていた涙はたちどころに引っ込んだ。私は右手で掴んでいたおしぼりで、化粧を崩さないように慎重に目頭をそっと押さえ、ひと口ビールを飲んだあと、

「そのペンよう持ってたな」

 と吐き出した。

「二次会ん時、ポラロイドで写真撮られて、それにこれで何かメッセージ書け、て言われてん」

 持って帰ってきてもうた、と順君もそこでぐいぐいと酒を飲み、私たちの間には完全な沈黙が訪れた。そのしじまに、満員の店の中に渦巻いていたすべての音が流れ込んでくる。卓にジョッキを置く音。チャーリーのドラム。皿小鉢の触れ合う音。椅子を引く音。誰かのケータイの着信音。ミオちゃんの返事。他のお客の話し声、大将の笑い声、何よりもミック・ジャガーの歌声。

「あのさあ」そのときアホづらの順君は視線を下げたまま、抑えた声で言った。「なんで泣くんよ」


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