ラブ・イン・ヴェイン

 七月になった。MAグレイストラベル堂島西梅田店のカウンターは、ピークも越して随分楽になってはいた。


 早朝から昼にかけてしとしと降っていた雨が上がり、死ぬほど蒸し暑くなった土曜の夕方。南港で東君の結婚式があって今から心斎橋で二次会なのだけど、それが済んだらまるで呑もうや、という順君からのメールは、デキ婚の大迫さん古賀さんカップルと打ち合わせをしていた時間帯に届いていた。

 新郎の大迫さんはおとなしいというより全く覇気のない、私と同い年のサラリーマンで、この人ってソーラーで動いてんねやろな、と勝手に想像していた。建物の中は苦手なんやろなー、と。少しお腹が目立ってきつつある新婦の古賀さんは毎度もれなく機嫌が悪く、ちょっとしたことで大迫さんをぼろかすに罵るのが常で、そのフォローをするのが大変だった。

 この日大迫さんは古賀さんに命令されて有給まで取ってウチに来ていた。ウチに来る前は古賀さんの産婦人科検診に付き合ったそうだ。開口一番その話で、

「小田さん聞いて、この人お医者さんでエレベーターの開ボタンも押してくれへんのよ!」

 古賀さんは新郎より年二つ上の姉さん女房だ。小柄で童顔なので、古賀さんのほうがうんと年下に見えるのだけど、それだけに罵詈雑言を浴びせられる大迫さんは何とも言えず気の毒だった。

「靴履き直してから、さあ乗ろう、と思たらあとちょっとで挟まれそうになってん! ホンマなんでそれくらい気ぃ付かへんのか聞きたいわ! どこに目ぇついてんの? ひょっとして寝てる? 布団敷いたろか? 言うて」

 ひい。怖いよう。しかし新郎は本当に生きているやら死んでいるやら、全くの無反応。観葉植物みたいだ。

 打ち合わせは開始直後から大荒れとなった。というのも、新婦が「サコ君はこれ着てな」と指差したパンフに掲載された芸人のような白いタキシードに、新郎が「……これ?」とかすかな難色を示すや新婦が爆発し、

「私の結婚式を何やと思ってんの!」

 と怒号したのだ。

 女性向けの結婚情報誌やなんかが必要以上に「結婚式の主役は花嫁!」などと書いて煽るからなのだと思うけど、このように女性が一方的に「この結婚式は私の私による私のためだけの結婚式」と思っていたり実際そう口に出したりするケースは結構多く、これまで何度もまあまあまあまあと収めたことのあるパターンではあったので驚きはしなかった。いつも怒ってる古賀さんだったし。本当に大変だったのはそのあとだ。

 新婦古賀さんがその勢いで、

「こんなことやったらキノシタ君と結婚すればよかった!」

 と言い放った。

 誰それ?! 

 私がツっこむ前に、今まで窓辺のポトスライムのように黙りこくっていた大迫さんが、弱々しい声ながらも、

「僕だって君がこんな人やと知ってたらもっと考えたよ」

 と言い返したのだった。聞こえた? 今のん聞こえてしまった? あっ、古賀さんわなないてる。そうかー。お耳に入りましたか。残念。私また御局に怒られるやん。先月のたっくんまゆたんの戦いに引き続き。でもさー、衣裳のことでモメるて何ですか? 衣裳のことだけは、衣装のことだけは、ウチでやなくて衣裳専門店に行って話してもらうことになってるはずなんですけど。今日は料理とテーブルの飾りつけとお花のことを決めますよて前々から言うてたでしょ。ホンマもう難儀な人らやわー。

 でも虚脱している場合ではない。

「大丈夫ですよ、まだ、お衣裳ね、まだ全然、決まらなくてもお時間ございますし、詳しいことは専門の担当と相談していただけますし、その際にご試着とかも、いっぱいしていただいて。ご予約っていつでしたっけ? あ、まだお決まりでなかったですか。ん、じゃあホント、まだまだお時間かけていただけますから、お二人でゆっくり納得いくまで話し合われて、ね、相談し合うのがケーキカットより何よりお二人の初めての共同作業ですから、ええ」

 デキ婚の二人に「初めての共同作業」なんて、かなり苦しい、かつ陳腐な説得。でもしないよりはまし! 頑張れ自分!

「古賀さんはやっぱりあれですか、今日なんか病院混んでて待たはったんと違いますか? あ、やっぱり。私今従妹が五ヶ月なんですけど、病院混むし大変、って、従妹は滋賀なんですけど、大阪もどこも一緒ですよねー。でも今日雨降らなくてよかったですよね、傘持ってあちこち行くの大変ですもんね、荷物増えるし。階段とか危ないから、ホンマ気をつけて下さいね。雨の日は」

 こういう無意味なしゃべりをえんえん十分近く展開し、とりあえずわなわなしていた新婦をクールダウンさせることには辛うじて成功したけれど、結局この日はほとんど何も決められず、気まずい空気のまま二人は帰っていった。ひとまず次回の予約を受けられただけでもじゅうぶん快挙だったと思う。

 閉店後支店長は、小田さんキミ先月といい今日といい災難やったなあ、と労ってくれた。来店したカップルが軽い言い争いになることはわりとよくあるのだが、こういう派手な喧嘩、しかも同じ担当者の顧客が毎月、なんてのはそうないことで、同情されたのだった。でもそのあと支店長が早上がりでいなくなってしまうと、黒い影が待ってましたとばかりに近寄って来た。


 御局に解放されたあと、私は八時ぴったりに髪と化粧を入念に直してから会社を出てまるへ向かった。眉間に皺が刻みこまれているような気がしたので、道々そこらを指で揉んで撫でた。

 東君の結婚式か。

 梅田の雑踏を歩きながら、私は燃え上がる写真の様子を思い出していた。東君は芸大を卒業した後も京都に残って、写真関係の仕事をしているとは聞いていたけれど、大阪で結婚式をするということなら花嫁が大阪の人なのかもしれない、などと私は考えた。

 まるに着くと順君はまだ来ていなかった。いつぞやとは違ってほとんど満席だったが、ちょうど一番奥の二人掛けテーブルが空いたところで、そこに座っていたと思しきおっちゃん達が「いやあ、天理は遠いさかいな」とユコちゃんに勘定してもらっていた。ユコちゃんが「それでも近鉄は便利になったんちゃうんですか」とお釣りを渡している間に、ミオちゃんがテーブルを片付けて私を案内してくれたので、先にビールと冷奴とだけを頼んで割り箸を取った。

「今日は江藤さんは?」

 かわいい招き猫柄のエプロンをつけたユコちゃんが、泡がじゃあじゃあ溢れているジョッキをすぐに持ってきた。さあ、もう来るんちゃうと答えたそのとき戸が開いて、本当に順君が入ってきた。

「さすがマリさん」

 ユコちゃんはにっと笑って冷気の靄が立っているジョッキを置くと、順君のために椅子を引いた。

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