私が通りに出た途端、雨脚がいきなり強まって、走りながら嘘ウソうそと思っているうちに額にしずくが流れるくらいになった。こういうときはタクシーだってもちろんのごとく来ない。心底自分に腹が立った。情けなくなって、涙が出た。すれ違う、傘を差してちゃんとしてる人が死ぬほどうらやましかった。

 歩きだった往きも、東君ちまで多分十分かからなかったと思うのだけど、この最低な帰り道、走って地下鉄の駅に着いたときには結局びしょ濡れになっていた。三時すぎだった。どうしよう。これで順君に会う? 無理やろ。チャコールグレーのワンピースは水を含んで、肩のところから黒になっていた。でも時間やし、無理くり行ってみる? なんで濡れてんの、って順君は聞くだろう。言いたくないなあ。少なくとも今日はまだ。いや、ちょっと傘持ってへんくて、なんて答えたところで私はレインブーツを履いてて完全におかしい。新しい諺になるわ。「傘差さず雨靴(かさ‐ささず‐あまぐつ)【慣用句】非常に不自然なさま。やましいことのある様子」みたいな。それか、服買おっかな。着て帰ります、ってやつにして。でも髪の毛がひどい。せっかく巻いたのに。じゃあ順君に「シャワーとドライヤー貸して」、ってイヤそんな物欲しそうなことがしれっと言えるくらいやったら、もっと言うべきことが別にある。

 いっぺんにいろんなことを考えたけど、思い切って出直すことに決めた。うちまで帰って、着替えて髪乾かして化粧も直して、もっかい電車乗って来る。最短で二時間ちょいかな。じゃあ五時半とかか。まだやってるよな、ライブ。夜までやるって順君言うてた。

 烏丸で乗り換えて、窓につく雨滴を見ながらああ智んちに行きたいと思った。智んちで着替えて髪乾かして化粧も直して、頑張って行ってこい、って言われたい。でも全ては甘かった自分に非があるので、こんな話、するのも恥ずかしい。とにもかくにも甘かった。悪いのは私。湿った前髪をぐいぐい引っ張って叫びたいのを我慢した。


 理由はどうあれせっかく植物園に行ったのに、見ごろのものは何だったかとか、ちっとも覚えていなかった。ただ、遊歩道の片隅に茂っているコマツナギを見かけた。久しぶりで、あ、と声が出た。この雑草が子供の頃すごく好きだった。そして、摘んで帰ろうと思っても、コマツナギの茎はつよくて手では切れなかった。駒繋。馬を繋いでも切れない草。たまさかに摘めても、それは不本意極まりない恰好で、私はすごく厭な気持で空き瓶とかに挿したものだ。そのうち、このコマツナギというものは決して自分の思い通りにはならないと悟って、私は摘むことをしなくなった。ただ、紅紫色というのだろうか、あのこまごました可愛らしい花が、それとお似合いのこれまたちんまりした楕円形の葉っぱをしたがえて列になっている素敵な姿を眺めるだけになった。長らく見なかったのは、コマツナギが生えるような原っぱとか公園とかに自分が行かなくなったからだと気がついた。


 苛立ちのため息とともに臙脂色の車両から降りたそのとき、東君から電話がかかってきた。撮った写真のことか、忘れた傘のことか、それとも別のことか。写真はこの際どうでもよかったけれど、傘は惜しかった。気に入って、ユナイテッド・アローズで先月買ったばかりだった。空色の地に幼稚なタッチの紫、青、山吹色、萌黄色の小花が一面に咲き乱れている柄で、値段もけっこうした。

 私は通話ボタンを押すなり、こちらから言った。乗ってきた電車がホームを滑り出た。

「私の傘さあ、ジャンゴで欣ちゃんに預けといてくれへん?」語学の単位が揃わず卒業を逃した欣ちゃんは、従って五回生になって、まだ大学とジャンゴに居座っていた。

 怒ってるね、という東君の声は小さかったが、確実に笑いが含まれていた。

「じゃウチには来てくれないんだ」

「そらそやろ。てゆうかすごいね、女にだまれ言われてまだ電話してくるて」私は心底呆れ、また感服したので思わずそう言った。すると、

「いや、こんなに粘るのは俺もないよ」と東君は応えた。

 どうしたらそんなに図々しくいろいろ言えるんだろう。後学のために極意を聞いておこうかとも思ったけど、係わり合いになりたくないしやっぱりすぐに、ほなよろしくねと電話を切ろうとしたら、東君が、

「マリちゃんは順のこと好きなの?」と聞いた。

「なんで順君が出てくんの? どういう意味?」私は質問に答えずそう聞き返した。

「順、彼女いるよ」

「知ってるよ」知っとるわい。知らいでか。

「あ知ってんだ。まあそりゃ知ってるか」

 知ってるやろ友達やったら、と、自分では言いたくないけど私は言った。カオルちゃんも私のこと知ってると思うよ、とこっちの方はどうだかわからないことももっともらしく付け加えた。

「でもマリちゃん時々順のところ行ってるでしょ。全然、二人きりとかでも行くじゃん。何すんの? てゆーか何もされないの?」

「あのな、普通友達には何もせえへんと思う。友達は友達の嫌がることはせえへんやろ。つか東君こそいっつもあんなことしてんの? ものすご手際いいよね。どうやってローラクすんの?」そうたたみかけた末に笑ってしまった。やっぱり極意聞いとこかな。

「まさか。好きだからしたんだけどって言ったでしょ」

 嘘を吐け。そうでなくてあんなにてきぱき他人の耳をかじれるはずがない。対ホリフィールド戦のマイク・タイソンですらもっとタメがあった、とスポーツ無駄知識が頭をもたげてくる。

 ほんとに何してんの順と、と東君が再び聞いた。

「オダマリ饂飩食う? 食うー、とか、この漫画読んでいい? いいよー、とか。だらだらしゃべるとか。気付いたら順君寝てるとか」

「ほんっとに何もされないの? 男と女だよ」

 残念ながら何もされません。実に遺憾です。改札口に向かってどんどん歩みを進めながら私は考えた。さっきのがキミではなく順君やったら大歓迎だった。熱烈歓迎。もうね、一張羅着て歌って踊ってファイアーワークス! くらいの。

「男と女が友達やったらあかん? てゆうか私オトコとかカレシとかはいいわ。そういうの。ちょっとめんどくさいし今は興味ないねん」

 東君はなおも何か言いたげだったが、とにかくジャンゴに置いといて、傘、私忙しいんやん、と一気に言い、最後にあ、と思って確認した。

「京都まだ雨きつい?」

 駅の外は、依然としていい音がしていた。ひょっとして京都もあのままなら、野外ライブは中止になってるかもしれない。

 東君の「うん、降ってるよ」という一言を聞いた途端私は一方的に通話を切り、順君の番号を探した。とりあえず今、電話だけしとこう。ええと、私は忘れ物取りに帰ったことにすればいい? すぐ鳴らすけど、出ない出ない出ない出ない出ない出ない。まだ外なんかな。雨やけど、やってんのかな。こっちもたいがい降ってるけど。

 細いナイロン糸のような雨を見ながらそう思った矢先、寝ていたらしい順君の声が、

「おう」

 おうって。おう。「ごめん順君、オダマリ」

「うん」

「ごめん、あれ? 寝てた?」

「うん」

「ライブは?」

「ああー、始まる前にめっちゃ雨降ってきてめっちゃ寒いし、帰ってんすぐ。ステージは屋根ありやし始まるのは始まったけど、これやったらもう途中で止めになったんちゃうかなあ、ってマリにそれメールせなと思ってたのに今寝てたわーぁあー」と順君は欠伸をした。

 順君も帰ったんや。「そっか、そうなんや、ううん、ええねんええねん、ごめんな起こして」

「マリは?」

「ぇや、私も雨すごいし、帰ろっかなどうかなとか、ちゃうねん、昼寝中の人起こすなんて最低最悪よな、ごめんごめん、寝て寝て。おやすみ。ごめんな」

「うん、おやすみー」

 順君に会えなくなったわけだけど、なんか今日はもうそれでよかった。遅刻したことにも、すっぽかしたことにもならへんかったわけやし。私はそのまま、家に帰った。やけっぱちでビニール傘も買わないで、さらに濡れた。


 次の日東君から早速「写真できたよ」というメールが届いた。放っておいたら、火曜になって順君が「東から傘と写真預かった」とメールしてきた。傘、欣ちゃんに渡してほしかったのに。ともかく、ジャンゴに取り行くから置いといて、とだけ返事をした。

 私はおそらくというか間違いなくあの雨のせいで風邪を引いてしまっていた。月曜の夜の時点で咽喉の具合がおかしかったのだけども、病は気からと敢えて薬も服まずに無視して、見事に悪化させた。それでも水曜に風邪をおしてジャンゴに行ったのは、水曜が欣ちゃんの当番だったからだ。

「あ、来た来た」

 レジの横にいた欣ちゃんが立ち上がり、傘とB5の茶封筒をくれたその向こうのパイプ椅子に、いつものスタンスミスの足が見えたとき、体中の血が止まるのを感じた。順君に会えたことがこんなに嬉しくなかったのは初めてだった。「ねマリちゃんそれ写真なんでしょ。見ーせーてー」

 私が同じようにいーやーやー、と節をつけて断ると、

「いいじゃん、見せてよ」

 欣ちゃんはカウンターに肘をついて、ぐんとこちらに身を乗り出してきた。

「あかん絶対見せへん」

 私がそのまま封筒を自分のトートバッグに仕舞い込もうとした時、

「けーち」

 と言ったのは欣ちゃんではなく順君だった。

 ケチ? 聞き捨てならん。私はまともにむっとした。「ほなええよ。ええけどちょっと検閲するし」

 私は中の写真をぱらぱらっと見てから、欣ちゃんに渡した。ヘン顔無し。むしろ悪くない。欣ちゃんだって、

「マリちゃんめっちゃ綺麗じゃん!」

 と褒めてくれた。欣ちゃんはいっつもいっつも褒めてくれるから大好き、と言うと、欣ちゃんはにーっと笑って、だって事実だからねー、と追風を寄越して相変わらずのガマカツぶりを見せた。

 順君は欣ちゃんから回ってきた写真を見ている間、写真自体のことには何も言わなかったけれど、最後に一言、

「おもろかった?」

と尋ねた。

「寒かった」

 答えた途端、私は猛烈な自己嫌悪に襲われ、順君と話をするのもこの場にいることも気重になって、写真を返してくれながら順君が饂飩食いに来る? と誘ってくれたのに、「風邪ひいてるし、今日はやめとく」と一面では十割本当の理由を陳べて、早々に引き上げた。順君の饂飩を断ったのは後にも先にもこの日だけだ。

 私は家に帰って東のばかたれ、早く足柄山の向こうに帰れ、と真剣に呪いながら、ライターで火を点けて写真を燃やした。台所のシンクで。


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