そして日曜日、分厚い灰色の曇の下、紅葉も微妙で人影まばらな府立植物園の中を、私は東君から再三普通にしてくれと注文されながらナンバ歩きで動き回り、一枚どころか優に十枚は写真を撮られて、こういうのをフットインザドアーと言うんだと思い出して東君に抗議しようとしたそのとき、雨の粒が落ち始めた。

 私はひょっとして降るかもと思って、家からレインブーツを履いて来ていたし、もちろん傘も持っていたので全く慌てなかったが、何の準備もなくてわあわあ言っている東君を、武士の情けで傘に入れてあげた。こんなに接近したらまた何かされるかも、と私は一瞬構えたけど、東君はデジタルとアナログ二台のレンズを拭きながら、あー、助かった、用意いいねマリちゃん、ありがと、などと至って尋常な様子だったため、そんなことを思った自分が嫌になった。

 レンズクロスをポケットに突っ込むと、東君はもうちょっと撮りたかったんだけど、と大袈裟にため息を吐いた。

「つーか、一枚だけって言うてたやん」

「美女は一枚では済まないでしょう」

 しゃらくせー。私は閉口した。やっぱりこの傘のことも謀られたかと思ったけれど、なんぼなんでも十日前から今日の天気はわからんよな、と考え直し、私はまた自分が嫌になった。

 だから東君が、

「ウチすぐそこなんだけど来る? つーか傘がアレだから来てくれたらすごく助かるんだけど」

 とこちらを見た時、私はあっさりええよと答えた。逆に、この傘やるから一人で帰れとか断固拒否してここで別れたりしたら、後々順君にまでアイツ自意識過剰だよと吹聴されて物笑いになるかもと思い、何かされようものなら殺してでも逃げると肚をくくって、私は長身の東君に傘を預けて北門から植物園を出た。


 北の方に歩いた。雨を含んだ家やアパートは黒く、沈んだ感じに見えた。数台の乗用車が続けて脇を通り過ぎた。

「珈琲飲んでってよ」

「ええよ、気ぃ使わんとって」

 私は一旦首を振ったけど、東君が、昨日六曜社の豆を買ったから是非、と言うのをこの傘やるから一人で帰れとか断固拒否してここで別れたりしたら、後々順君にまでアイツ自意識過剰だよと吹聴されて物笑いになるかもと再び思い、何かされようものなら殺してでも逃げると重ね重ね肚をくくり、私はまたもやあっさり、

「あそう、ありがと」

 と答えた。


 東君の下宿は真新しいマンションの二階で、すこぶる綺麗なワンルームだった。順君の部屋のように机上にCDとか湯呑みとかメモ帳とかミンティアとか電気料金の明細書とかが出しっ放しになっていることも、床上に文庫本と単行本が蟻塚のごとく堆積していることもなく、きちんと整頓されていて、フローリングの床に太った勾玉形の黒いローテーブル、その下に紺色のラグ、窓の横の小さな本棚も完全に「見せ仕様」で、さすがにカメラとか写真関係の書籍が多かったけど、谷崎の『細雪』も時計やサボテンの鉢なんかと一緒に並んでいた。『細雪』なんて関西人でも付き合いきれへんあの台詞のとろんとろん具合、ほんまに読んでんのか、と背表紙の赤い文字を睨みながら意地悪く考えていると、東君は本棚の上に二台のカメラを並べ、じゃ淹れてくるわと台所に去った。

 そのとき窓の外に黒いものが見えた。猫だった。隣家の二階の物干台に、でかい黒猫がこちらにお尻を向けて寝そべっている。物干台の上にはちゃんと波状のトタンの屋根があって、黒猫は据えられた物干竿の支柱にもたれ、四本の脚を完全に投げ出して無防備極まりない。この天気では毛皮が湿るやろうのに。東君がマグを持って戻ってきた時、私は猫に向かってこっち向けと念力を送ることに集中していたが、猫は相変わらず身じろぎもせず寝転がっていた。

 ここ開けてもいい? と聞くと、東君はマグをテーブルに置いて近づいてきて、何? 猫? と言いながら私の肩越しに窓の鍵を開けた。雨は変わりなく、ぱしゃぱしゃと屋根や地面を叩くのが聞こえてくる。黒猫は窓の開く音に驚いて振り返った。とんでもない不細工だった。黄色の目は真ん中に寄り過ぎているし、鼻は大きすぎる。でも家猫らしい、すさんだところのない穏やかな顔つきで、ブス猫評論家の私はうおおと唸った。これは素晴らしい。関西ブス猫選手権があったら京都府代表はきっと狙える逸材だ。不細工でも素晴らしいと愛でられるなんて、猫ってどんだけ得な生き物なのかしら。

 と思った瞬間、後ろから長い腕でがしっと抱きしめられてしまった。倒されなかったボーリングのピンはこういう気分なんだろうか、長いこと行ってへんなあ、ラウンドワン。なんて思っている場合では全くなく、耳たぶまで噛まれて、きたきたきたきたやっぱりきたやん! なにしよんねん!


 次の瞬間私は猿臂をのばして本棚の上にあったニコンを掴み取り、

「これ、こっから捨てるよ」

 とわりと冷静に脅迫した。窮鼠猫を噛む。これか。これのことか。諺を実体験。冗談抜きでダルシムばりに腕のびた。

 ほんまに放るよ、と重ねて言うと、東君は待って待って待ってと腕を解いた。私は安全担保のカメラを離さずに、ドアの方へ身体を向けた。「実家に帰らせていただきまーす」

「え、今来たとこじゃん」東君は、たは、と笑った。

 笑うな阿呆。「だから何」

 東君はようやくごめんって、と謝った。もっと謝れ。「でも俺はマリちゃんが好きだからしたんだけど」

 オマエが好きなんは女やろ。私やからどうとかじゃなくて。でもこういう風に言われたら一気に抗えなくなる女の子もいるであろうことは想像できた。なんせ男前は男前である。すげーな若旦那。なんて得な生き物なのかしら。でも私にはちゃんちゃらおかしくて、よく分からないけど六甲おろしを大声で歌い出したくなってしまった。どういう神経構造なんだろう、私。

「ほか当たりい。とにかく帰るし」私はカメラを片手に玄関へ行こうとした。すると、

「カメラ持ってっちゃうの?」と東君が手を出した。

「私がそこ出たら返したげる。それまでは返さへんよ」

「マリちゃんコワいね。かわいいのに」

「だまれ」

 ああこんなにキツいことが言えるなら最初からキツく断ればよかったのに。バカじゃない? あほんだらやん。私はカメラを持って、長靴に脚を差し入れ、自分で鍵を開けて表に出た。そしてドアの外から手を伸ばして東君にカメラを渡すと、身を翻してとっとと階段で下に降りた。あ、傘忘れた、と思ったけれど、戻るわけにいかないし、全力で走るかタクシーを拾うと決めて構わずエントランスホールを飛び出した。


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