風も雨も冷たくて


 たまたま手が当たったとかは別にして、私が順君に触ったことは二度しかない。初めて順君の住む森ビルに行った、あの饂飩の日、チャリの後ろに立ち乗りして順君の肩に掴まった時と、東君という順君の友達で仁左衛門的若旦那系の美形を交えて三人で木屋町の「ノーマ」というバーに呑みに行った時と、六年でたった二回。我ながらどんだけ禁欲的なんだろう。

 初饂飩の日以降も私は度々チャリの後ろに乗せてもらって順君の下宿へ行ったが、初饂飩の翌々日に順君の愛車は盗難に遭い、新しくやって来たのは先輩から貰ったという荷台付きのママチャリだったので、以後私は行儀良く荷台に座ってサドルの首を掴んで、順君には手を触れなかった。緊張してさわれなかったのだ。

 二度目の、ノーマでのことは、丸太町までライブを見に行った晩のことで、私が三回生の時、季節は秋だった。


 東君は神奈川くんだりからわざわざ京都に憧れてやって来た、「京都って独特の時間が流れてるよね」とか雑誌に書かれているようなつまらないことを平気で言ってしまう、典型的な古都幻想を抱いている芸大生だった。多分京都の経済と株価はおおむねそうしたよそさんの勘違いで支えられているのだと思うけど。

 ライブ終了後、そのままそこで酒を飲みつつバカ話をしていたら結局私の終電がなくなってしまい、というか私は森ビルに行きたいのでそれを狙っていたのだけれど、目論見は外れて東君の知り合いがバーテンをしているノーマで始発待ちということになって、とりあえず三条木屋町まで下がった。

 ノーマは豆球くらいの灯りしかない、暗い穴蔵のようなバーで、カウンターにスツールが九脚。先に、鳥打帽を被った猪首の男客と金髪のおねえさんが居た。グラスがずらずら並んだ棚のところどころにバットマンのフィギュアが飾ってあって、天井にもバットマンのポスターが、そしてバーテン氏はロビンにそっくりなムキムキのお兄ちゃんだった。

 私たちは入り口から一番遠い席に入って、左から順君、私、東君の順で座っていた。不意に東君がテーブルの下で私の右手を握ったのは、一杯目を飲み切ろうと思った時だった。なになになになに離さんかい。念じたところで離してくれない。離せおたんこなすと言ってもよかったけど、それよりそのとき、一計浮かんだ。私も順君の手に触ってみたいと思った。しかも上手くすると東君に手を離してもらえる。

 私は反対の手でがッと順君の手を掴んだ。酒が回っていつになく図々しくなれた私だったが、いっぺんに酔いが醒める心地だった。初めて触る順君の手は温かくて、存外厚みがあって、硬かった。いつもこの手で本を読んだり饂飩ゆがいたりしてるんや、と思うとなぜか訳もなく涙が出そうになった。こんなによく一緒にいても、触ったことがないから知らなかった。他人の手。知ってる人の、知らない手だ。

 私に手を握られた瞬間、順君はびくっと半身になり、

「なんやねん!」

 と目を見開いた。ロビンも二人の先客もちらりとこちらを見た。

「東君の真似」

 そう顔を顰めると、東君はええええ、マリちゃんそういうのは反則だよ、と苦笑いしたが、掴んだこちらの手は一向に離してくれずにむしろ堂々として、マリちゃん今度被写体になってよ、卒業制作で美人の写真集作るんだよね、などとしゃべりだした。私が、いや、そういうの苦手、と断っても、すぐ終わる、頼むから五枚くらいパパっと、ぁじゃあもう三枚でもいい、二枚、一枚、たった一枚ですからー、などと段々要求を下げてゆき、何卒宜しくお願いいたしますと食い下がった。ロビンが東君の灰皿を換えに来て、何? モデルの依頼? 俺がなったろか? と言った。いいやん、そっちの方が! 是非脱げ、ロビン! けれども東君は、男は要らないって、と笑うと、ロビンに他の友達の卒業制作の話を始めた。その間もずっと手は握られたままだった。だから私も順君の手を離さずにいたのだけれど、あれはなんでだったのか、順君の手を握った左手だけは極端に冷たくなっていた。人体の不思議。よくわからんけど手汗だけはかきませんように、いや、もう離した方が無難かも、でも引っ込みがつかない。

 そう煩悶していたら、急に順君が私の手を持ち上げ、自分の目の前に引っ張っていくと、私の指をじっと見た。

「なあ、なんでツメ、こんな光ってんの?」

 ツメ? ああ、爪? なんでて、

「みがいてーるからね」

 つとめて普通に発声しようとしたのに、そう意識するとかえって来日五年目のアメリカ人のような変な抑揚がついてしまった。

「磨くてどうやって磨くん?」順君は変わらず、私の指先をためつすがめつして聞いた。

「手近な柱とかダンボールでガシガシする」

 順君はふぁ、と鼻で笑い、私の手をテーブルの上に丁寧に置いた。そのタイミングで東君が、

「マリちゃん、ほんと、一枚だけ」

 と言ったので、気が抜けて、わかった、わかったから離して、と被写体になることを承諾してしまった。いや、正直にいうと、順君の反応が見たかったというのもあった。万に一つでも、ナノ単位のレベルでもいいので、順君が妬いてくれないかなと一瞬お門違いに期待したのだ。

 でも当然の如く何もなく、順君はそのとき店でかかっていたホワイト・ストライプスを、「おっ、懐かしい」なんて言って口ずさんでいた。

 そらそやわな。大体友達が妬くとか立場的におかしい。

 私は自分で自分をそう慰藉し、とにもかくにも東君からようやく解放されたので、始発が走る頃になるまでずっと両手でタンブラーを握って過ごした。


 ノーマで言質を取られてしまった翌日から、東君はばんばん電話をかけてきた。次の日曜十四時に府立植物園にいるから来てね、ほんとに、あの真ん中のデカい並木の所がいいかなと思ってんだけど、服は何でもいいけど色は黒系がいいな。

 適当に返事をしておいてうやむやにしようと思っていたのに、ライブの時、次の日曜がヒマだということをどうやら私が自分で言ってしまっていたらしい。覚えはないのに。

 私のいやらしいところなのだけれども、とりあえずひとからはなるべくよく思われておきたい、という欲望が捨てきれない。第一初手からきっちり断らないということがそれを露呈している。

 向こうの方が一枚上手だったというよりも、そういう自分の脇の甘さが原因で、結局私は再びわかった、わかったから、と言ってしまった。


 約束の三日前、つまり木曜日、私が家の近所のドラッグストアでハンドクリームを選んでいたら、順君から電話がかかってきた。日曜ってまだ空いてんの? と聞かれたが、実は東君がほんまに私の写真撮るらしくて、と他人事のように答えると、順君はあーそー、しゃあないな、と言った。

「なんで?」

 私はそわそわして、陳列棚に置かれた数種類のハンドクリームのテスターを、右から順に意味なく出し入れした。パッケージに書かれた商品名の文字が全然頭に入って来ず、網膜の上を滑ってゆく。

「うちの大学の敷地で三時から音楽祭あるて前言うたっけ」

「ああ、うん、インディーズいっぱい出るやつやんな?」

「マリは野外ライブは焼けるからイヤやて言うてたけど、日曜は曇るらしいし、三時スタートやったらすぐ夕方になるしど――」かぶさってきたがたんごとんという電車の音と、ゴーっという風の音が順君の声を掻き消した。

「順君、いま外なん?」

「うん、駅ビルの上の電光で土日の天気見たから」

 しまった、てゆーかもっと早く誘ってくれ、てゆーか東のあほたれあほたれあほたれ、と一瞬の間にいろいろ思ったけれども、三時からやったら行けるんちゃう?

 何より順君が自分のことをそうして思い出してくれたということが嬉しくて嬉しくて、私は急激にハイになり、手にしていたテスターのチューブを握りしめてしまって白い内容物がにううううと出てきてエラいことになった。

「ほな済んだらそっち行く、すぐ終わるやろし」

 平静を装ってそう返事をすると、順君はよっしゃ、ほなな、と電話を切った。私は出してしまったクリームを肘までのばして塗りたくり、新しいマスカラとヘアオイルも買って家に帰った。


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