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まるは空いていた。空いているなんてもんじゃない、ガラっガラだった。地下街を歩けばどの線の駅からでも傘なしでたどり着けるこんな店でさえ、雨天というのは影響するのだろうか。私が知るうちで空前のガラガラぶり、常連さんもおらず、知らない中高年の男客ばかりがたった四人、カウンター席に座っていた。キースの五弦ギターが景気好い「スタート・ミー・アップ」が流れるもいささか寂しい店内に私が入ってゆくと、WHO THE FUCK IS MICK JAGGER? とプリントされた黒いTシャツを着た大将と、先月から来ているバイトのミオちゃんがよかったよかったと歓声を上げた。
「肝、用意したんやけどな、今日は見ての通りやから、ひょっとマリちゃん来えへんかったらこれどないしよかと思ててん。まあ明日誰かにすすめたらええんやけど、やっぱりあんまり漬かり過ぎひん方がうまいしな。今日のうちにヤゴさんでも来はったら食べてもらおか思てんけど、今晩は皆さんお忙しいらしいわ。さっぱりワヤや」
無理言うてすんませーん、と私はグラスのビールを頼んだ。
「マリさん今日めっさ可愛いですね。あとで写真撮っていいですか?」と、早速ビールを出してくれたミオちゃんが褒めてくれたが、
「いいけどそんなもん撮ってどうすんの?」
「今度あげますよー」
若い娘はやたら写真を撮りたがる。って、私も多分十分まだ若いんだけど。でも赤の他人の写真を、その人に与えるために撮るっていうのは私には永遠にわからん謎の行為だ。純粋な奉仕活動。神戸の人が春になったらいかなごの釘煮を炊いてやたらめったら贈り合うあの感覚か?
「どこで買わはったんですか、そのワンピース」
「これは貰いもん。海外のお土産」
「へえー、ぴったりですね。江藤さんから?」
「えっ、ちゃうちゃう。なんでやねん」私は手を振って否定した。
「ミオちゃんなぁ、マリちゃんと江藤君はただの友達やねんで。言わんかったらわからんやろけど」
大将が肝をじうじう焼いてくれながらミオちゃんにそう解説した。ただの友達。全くその通り過ぎて聞くだけで萎えるね。塩をまぶされて揉みに揉まれる大根菜の心境になったが、ミオちゃんはそんな私の心象風景にはもちろん気付かず、えええええそうなんですかあああどこからどう見ても付き合ってますよぉ美男美女、と適当なことを大声で言い、
「てゆーか、じゃあ、今からデートとかじゃないんですか」と私に尋ねた。
「月曜の晩九時から一体どこへ行く」
「そらそうですけど、マリさん可愛い服やしどっかお泊りとかかと思って」
「残念ながらこれ食て酒飲んで冷麦すすって帰ります」
まことに、クソ残念です。ビールをあおってそう絶叫したかった。
「ほな今日は江藤さん来やはらへんのですか」
「私は今日は誘てへんし誘われてへんよ」
えーそーなんやーでも信じられへーんとミオちゃんはなおも騒ぎ、「でも江藤さん来はったらいいのにな」と胸の前で手を合わせた。
「なんで?」
「せっかくマリさん可愛い服着てるのに、見てほしくないです? 別に友達でも誰でも、男の人に見てもらうのって違うくないです?」
「うーん」そら見てほしくなくはないけど強いてさあ見ろ、とも思われへんなあ、と思っていたら、ミオちゃんが、
「それにミオ、江藤さん好きなんですよー」とのたもうた。「江藤さんてなんか面白いですよね。しゃべりの間が独特で」
いいねミオちゃん。正直に思ったことをすぐ口にできて。好きなんですよー、か。臼井先生もこういうノリで言われたんかしら。好きなんですよー。じゃあ私も言うてみよか? 好きなんですよー。嗚呼、順君に下駄の裏で頭頂部をはたかれる自分の姿が見える。いや、はたかれたら御の字やな。悪くすると中米産の珍しい爬虫類を見る目で一瞥され、最悪の場合一切が「なかったこと」にされ、その瞬間私たちの付き合いは終わってしまうんじゃないの。
「ほなそれ今度順君に言うたげ」私はビールを干した。「次はお酒ー」
大将が半身振り返って、自分の後ろの棚に並べてある冷酒用の小さいグラスを取ってくれながら私に言った。
「しかしじぶんは黙っとったらええのにホンマ立派なおっさんやなあ。こんな店来て鶏食て酒飲んで。て俺の店やけど」
「いや、なにも私も好きこのんでこうなったわけでは」
ミオちゃんが入り口の脇にある冷蔵庫から一合瓶を出してきてくれた。続いて肝の載った鉄板が。
「でもな、こないだマリちゃんそこでちょっと頭涼しそうなお客さんとすわってたやろ」と言ってしまってから一瞬ハッとした大将が、店内に現在涼しげな人がいないか確認したのを私は見逃さなかった。
「そうそう、私その話しに来たん大将」
「や、そう、マリちゃんが今まで江藤君以外の人と来るてなかったやろ。あと智ちゃんやっけ。あのハーフのベッピンさんな。その二人以外で一緒にて、今までなかったやんか」
「うん、一人で来たんも、今日が初めてやもんね」
「やろ。ほんでいやあ珍しいなあ思てたら、相手の人が別れるんやったら理由を聞きたい、とか大きい声で言うたやん。俺、えええー、ここで別れ話け?! あれマリちゃんの彼氏? 俺より年上やん! 思て」
「ちゃうんですよ、私あの時、絶対今大将とかヤゴさんとかは誤解してるて思ってた」
「そや、ヤゴさんも俺の顔見てオロオロしてはったで」
やっぱり。「あれ私の高校ん時の先生なんですよ」
「らしいなあ。あとで江藤君から聞いたわ。俺マリちゃんの彼氏か思たで言うたら、江藤君も、なんぼええ人でもそんなおっちゃんと付き合うんやったらオレと付き合え言いますわて笑てたわ」
ずぉぇいい、とか、にゅおぅえい、とか、のぅええい、とかいうような、感嘆詞と言うよりももはや鳴声あるいは心のハム音と言うべき音が自分の口から漏れ、古典的かつ月並みな表現でまことに遺憾の極みであるが、私はびっくりして椅子から落ちそうになった。脳味噌を貫いて眉間と頭のつむじをつなぐ一直線がびりびりと痛いくらい痺れ、順君がたとえその場限りの軽い冗談にしろ、そんなことを言ったとは。そんなことを言ったとは。そんなことを言ったとは。という思念が頭蓋骨の内で反響した。落ち着けオダマリ。おとなしくしろ、大人やろ。
「でもな、俺も不思議やってんで。江藤君て最初は会社の先輩とここへ来とったけど、そのうち一人でも来るようになって、それからちょいちょいマリちゃん連れてくるようになったやんか」
そう、私が四回生の夏にようやくグレイスに内定して、そのとき初めて順君とここに来たのだ。その後智とも一緒に二回来た。そのうちだんだん卒論が大詰めになって、大学の研究室と家との往復だけの毎日になり、順君とも会わない時期があった。そして口頭諮問が終わって卒業して、私の勤務地が西梅田に決まってからはしょっちゅう二人で来るようになった。
「そやから俺もマリちゃんが江藤君の彼女や思ててん。初めに江藤君からもう結構長いこと付き合ってる彼女がおるて聞いてたからな、その子や思て」
「え、そうなんですか? そんなに長もちしてる彼女さんがいるんですか?」
ミオちゃんが目を見開いた。そう、それがカオルよ。これまた聞くだけで萎える。
「いつやったか本人さんに、江藤君の彼女はエキゾチックでベッピンさんやなあ、言うたんや。ほしたらなんや一瞬きょとんとしてな、マリは彼女ちゃうでーちゅうから、えっ、そうなん、彼女とちゃうの、言うて」
「ねー、マリさんが彼女ちゃうなんてねー」
お前ら、彼女ちゃう彼女ちゃうて連呼すな。このカウンターの上でキャンプファイヤーみたいに串組み上げて火ィ点けるぞ。フラッシュポイント。客商売のくせに客を打ちのめしてどおするんや。
半ば憤り半ば滅入ってゆく私をよそに、大将は暇に飽かして話を続けた。先に入っていた四人の男客はもう食べる方はいっぱいらしくて、奥のほうででわいわい喋ってばかりいる。
「ほんで土曜な、江藤君の連れてきたメガネのお客さんいたやろ。辻君。マリちゃんが帰ってからそんな話してたら辻君が、今の子彼氏おらへんのやったら紹介してくれ言うてな」
「私のこと? 誰に? 順君に?」
「はじめ江藤君に言うてたんやけど、江藤君は、僕はこじれた時に困るから紹介とかはせえへん主義なんでダメです、て。大体自分は今マリちゃんに彼氏がおるかどうか実ははっきり知らん言うてな、断ったから辻君、今度は俺に大将頼みますわて。別に彼氏おってもおらんでもなんでもええから口だけ利いてくれて」
「うええ。大将なんて言うたん?」
「そら俺も君初対面やし、マリちゃんも嫌がるかもしれへんし言うて」
「断った」
「すまんけどボトル十本で引き受けた」
私は眉根を左手で揉みながら、声は出さずに唇だけコトワレヨナーと動かして、肝をつつきまわした。
「ほら、もう土曜日にあれ、辻君ともう一人の江藤君の上司の人とな、二人で一本空けて二本目入れて帰ったんやで。すごいな」大将は棚の中ほどの「辻様」とマジックで書かれた神の河を指してわははと笑った。笑うな守銭奴。「ええやん、神の河十本いうたら三万二千円やで。指名料だけで!」
「でもそれ全額私に入ってくるんとちゃうもん」神の河十本分の女。それが私。いや決して悪くないんやけど、神の河かー。「私=神の河→順君は焼酎嫌い→私も嫌われるやん!」縁起でもない。て何か論点がズレてる。
「でもマリさん、ホンマ彼氏いてはらへんのですか?」とミオちゃんが聞いた。
「もうかれこれ五年余りおりません」客商売客商売! 私に何か恨みでもあるのか。くそー「お酒おかわりー」ダメだ私。分かりやす過ぎる我ながら。
「ほな辻君とほんまに話してみたらええやんか」
やかましいわこの近江商人、と思ったがもちろん言わない。「私ああいうザ・オシャレみたいな人はちょっと」セックスも下手そうやし!
「マリちゃんはそもそもあれなん? 彼氏は作らへん主義とかか? 江藤君も言うてたけど」
「え、順君が? 何て?」
と言ったそのとき、ガラス格子の引き戸の外にかけてある赤と紺色の暖簾を分けて見知った顔が一瞬覗いたかと思うと、がらりとその人が入ってきた。順君だった。
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