気持ちが下がっていくときは

 週が明けて雨降りの月曜日、私は初めて一人でまるへ行った。


 土日はやはり閉店まで式その他の打ち合わせをするお客が引きもきらず、カウンターは多忙も多忙、連日お昼にウィダーを飲んで七時まで頑張った。


 臼井先生に会ってからというもの、気が滅入って仕方がなかった。先生は私に心のわだかまりを吐き出して、なおかつ今まで少なくとも女性に対してはしたことのないであろう大演説をし(私は先生に女友達がいないことを確信した)、鬱屈していた感情が発散されて実にスッキリした様子だったけれども、最後の最後で私は半分引き受けてあげていたその荷物をさらに倍にして返すような蛮行をはたらいてしまった。自分の底意地の悪さを痛感して、私の心は暗澹としていた。

 いろんなことを聞いて他人の人生を背負い込んでしまうのだけでも十分しんどいことがあるけれど、私はあれひょっとして引導を渡してしまったんではないかと本気で恐ろしく、さらに先生のお母さんのことまで考えたりするともっとやるせなかった。息子のことを心配しているお母さん。自分はなんて口をしてるんだろう。今なら舌を抜かれて残りの一生しゃべれなくなったとしても私、絶対に文句言わへん、と思った。


 毎日があまりにも陰鬱だったので、無理にでもテンションを上げようとクロゼットを開けた。あかん。毎日すぐにでも葬式に行けそうな黒づくめで生活してたらあかん。悪い運気を呼び込んでるかもしれへん。

 普段おまじないの類はあまり信じないのだけれども、やはり人間は不安になるとそういうところに隙間ができるらしい。だからこの日はいつもの黒系統の無難な通勤服をやめて、昔、智が私に似合うだろうといってバルセロナで買ってきてくれた濃い紫の地に色とりどりの花もようの入ったワンピースを初めておろして、サンドベージュのカーディガンを羽織り、コールハーンで手に入れた八センチヒールのパンプスを履いて出社した。そして案の定御局に目をつけられて、小田さん今日は大事な大事な合コンのお約束でもあるの? と朝イチからパーテーションの陰で尋問された。

 会社へ行けばカウンターの私たちには制服がある。なら通勤は何を着て行ってもいいかというと、そうではないのだった。


 ウチの支店には世間の常識以外にもう一つ、御局様の諸法度という不文律があって、高い時計やジュエリーは厳禁、ノースリーブのトップスも禁止、サンダルは論外、五センチ以上のヒールはだめ、でかいバングルやじゃらじゃら系のネックレスもだめ、デニム素材の製品は全てだめ、服装以外のところでもトワレ類、デオドラント製品などの「匂いもの」は御局のアレルギー鼻炎を悪化させるとかいう理由で一蓮托生堂島西梅田店の女子社員全員使用禁止、その日の御局の気に触るものはとにかくだめ、ひとつでも引っかかった日には一両日、ついてないと五日間、最悪の場合は一年半もの間嫌味を言われ続けるというハードな私刑が執行される。実際私の入社当初何くれとなく親切に指導してくれた先輩が、この私刑を苦にして転職してしまったほどである。逆のパターンで、自分の持ち物が御局のお眼鏡にかなってしまったという場合も悲惨は悲惨で、にこにこしながら近寄ってくる御局に「それどこの?」と訊かれたが最後、正直に答えてしまうと御局は遠慮も会釈もなく同じものをかぶせてくるのだった。先に持っていた方は、あのひとと一緒じゃなあ、と思って捨てる、なんてことになる。私は先輩からそれを聞いて注意はしていたのだけれど、ついうっかりしてストール一枚とトートバック一個とを駄目にしたことがある。


 御局は私の頭のてっぺんから爪先までを点検し、そんなちゃらちゃらした恰好のままもしもお客様に出会ったら信用が半減するとか、どこだって冷房の効いてるこの時期にそんな素足で通勤していたら体が冷えて体調不良の遠因になって仕事に支障をきたすとか、いちいち「私だってこんなことまで言いたくないけどね」と前置きしてからぐちゃぐちゃ言った。言いたくないなら一生黙っとけばいいのに。


 けれどオツボネサマなんていう生き物が実在するとは思わなかった私は、よくもまあこんなに色々な難癖を思いつくものだと、ふだんから「いちゃもんの泉」ともいうべき彼女の才能を半分は面白がっているので、この日もひたすら以後気をつけます、反省しますと謝ってやって、あとは黙々と業務に精を出し、閉店後御局が転属一年生の電話の取り方に必要以上のダメ出しをしているのを、明日慰めてあげようと思いながらも今日のところはひとまず人間の盾にして、そのスキに超高速であらかたの重要な予約手配や連絡を済ませ、その後もこちらに悪い風が吹いてきそうになったら電話をかけるフリをしたり実際かけたり、御局が密かに思いを寄せている支店長の陰に隠れたりして、めでためでたの若松様よ、私は御局の全ての追撃をかわし、午後九時きっかりにグレイスを出たのだった。


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