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冷麦が残り数条となった十時半過ぎ、暖簾を分けて順君が会社の人と思しき中年男性と、でかい黒縁眼鏡をかけた若いディスイズオシャレ氏を連れて店に入ってきたので驚いた。別に驚かなくてもよかったんだけども、私が順君か智以外の人とまるに来たのは実は今日が初めてで、順君も私を見つけて「あれっ」と声を上げた。
「お知り合い?」サチオは我々を交互に見比べた。私はとっさに頭周りに手をやって、髪が崩れていないか確かめ、シャツの襟がよれていないか、さりげなく指を滑らせた。
「はい、学生の頃からの友達で」
順君が連れの二人を奥のカウンター席に座らせてからこちらにやって来た。
「江藤君です」私は先生に順君を紹介した。「順君、臼井先生」
「江藤です」
頭皮を見ない、頭皮を! 順君は私が話した臼井先生のことをちゃんと覚えていたらしい。先生は椅子からちょっと腰を浮かして、臼井ですと答礼した。
「会社の人?」私はカウンター席をちょっと振り向いて聞いた。
「うん、奥の人は取引先の人。ストーンズ好きやて言わはったから誘って、もう三軒目」順君は私の手元を見た。「もう終盤やん」
「あっ、そうだ、小田さん明日も仕事だね」
それを受けて臼井先生はようやく演説を停止した。うおお、やっと停まった! 順君、ナイスプレー!
「僕も、じゃあ、今日はゆっくり休めそうだよ」
何も解決していないにもかかわらず、臼井先生は極めて上機嫌で勘定書に手を伸ばした。私は、先生、ちょっと、私も一応社会人になったんで割勘にして下さいと恰好だけは財布も出して遠慮して見せたが、先生はいやいや今日は色々聞いてもらえてよかったよ本当に、などと言いながら立ち上がり、ユコちゃんにそれを渡して支払いをしてくれた。その間に順君が、オダマリ明日も仕事やろけど一杯だけあっちでもどう、と誘ってくれたけれど、いい加減疲れたし、今日は順君も一人ではないしで鄭重に断った。最後、
「私また月曜に来るから、絶対上肝入れといて」
と大将に頼んで店を出た。上肝というのは品書きに載っていない、いわゆる裏メニューで、ふつうの肝とは鶏の種類が違うのか何なのか、脂が多くて、少しだけピリッと辛いたれに漬けてあるのがおいしいのだ。串に刺さずに小さな鉄板で焼いてそのまま出してくれる。初めて教えてもらったときに少々割高、と聞かされたけど、会計の時にはいつも何がいくらという確たる意識がないまま支払いをしているので、実際いくらなのか私は今も知らない。大将は、よっしゃ、俺はベッピンさんの頼みごとは断られへん、と調子よく応じてくれた。
先生と私はそれぞれ阪急電鉄とJRの乗り口を目指して途中まで一緒だったが、まるの暖簾を分けて表へ出てすぐ、私はこんな話をした。私はそのことをとても、とても後悔している。
そー、さっきの江藤君の友達で私も知ってる増子君て人がね、大学生の頃、みんなで集まった時にすごい可愛い女の子を連れてきて。その前に増子君からは、オレ彼女できたから! って聞いてたんで、増子君の彼女てコレ?! めっちゃ可愛いやん! てみんなびっくりしたんですけどね、何日かして増子君に会うたらなんかもう本人はぐずっぐずのスッカスカで蒸しすぎのプリンみたいな状態になってて。どおしたん? て。したら、あの子はオレの彼女じゃなかったらしい、って、泣くんですよ大の男が。そんな約束してないよーって言われたって、しくしくしててね。で江藤君と二人して酒でも飲ますかって連れて行ったんですけど、もう既に家で泣いてた時点でどうも大分飲んでたらしくて、店でからまれましたよ私。女の子っていい加減だよね! とかって。知らんがな。初めは私も面白がって聞いてたんですけど。急にバイト先のぞきに来たり、泊めてーって転がり込んできたりとかしたのに、でちょっと先生相手に言いにくいですけど、ちゃんと男女の関係になってたのに、と本人は言うんですね。それで付き合ってないって何なの? とかねー、もうたいがいうるさいんで、自分で聞いてこいやー、言うて、私帰りましたけど。今どうしてんのかなあ増子君。なつかし。
この話は事実とちょっと違っていて、増子君はその子のことを彼女だと思っていたわけではなく、この分なら彼女になってくれると思い込んでいて、周囲にも、オレもうすぐ彼女出来るからと喧伝していたのに、いざちゃんと付き合うってことにしようよ、と言ったらあっさり断られた、というのが本当のところだったのだけれども、私はサチオの反応を見るためにわざと事実を歪曲したのである。
二十三時を前にしてまだ多くの人が行き交う地下街で、サチオは、歩調を落とすでもなく、よろけるでもなく、至極普通な調子で、
「あー、大変だねー、それねー」
と応えたが、私が下の角度からちらりと見上げたその目はまさにがらんどうだった。光のない目。からっぽの目。
何とかしてやる気も何もないのなら、興味本位であんなに酷いことを言うべきではなかったのに。外道の所業だ。言ったそばから私は悔やんだ。しかも電車に乗る前に。
私は車中もう本当に不安になって、何度も阪急電鉄のホームページを開けて、全線無事に運行しているかどうかを確かめた。
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