焼鳥はまずかったなあ。なんかもう、持っていて箸より間抜けな感じがするこの串っていうものを一体どうしていいのやら、ためしにぐるぐる回してみよか? いや、焼鳥がどうこうとかじゃなくて、これは全面的にモノを食べながら出来る等級の話じゃないだろう。重い。荷が。私には荷が重すぎるわサチオ。これを乗り越えて顎を動かせる人間がいたら会わせてほしい。つくねに絡みついたたれが急に苦いものになった。「決心してくれない」なんてレベルちゃうやん。どおすんの。それ。どうにもならんでしょう。

「それはちょっと、もっと言い方が」

 私が言葉を絞り出すと、

「まあ若い子はね、思ったまんまをポンと言ってしまうのかもね」

 と先生はかばうような口ぶりだった。

「あの、先生の教え子さんか何かなんですか?」

「それはね、あのお、聞いたら小田さんビックリするかと思うんだけれども、でもこの際だからまあ言うんだけれども、彼女は高校生でね」

「今教えてはる」

「いやいや、僕の生徒ではないんだけれども、三年生で」先生は二度ばかり頷いた。

「ほんなら、卒業したら結婚しましょう、みたいに言わはったんですか」私は早くも心の中で合掌して焼鳥を諦め、冷めてゆく串を見つめながらビールを少しだけ飲んだ。さよならハツ、ズリ、皮。

「まあ、そうだね。大体その通りだね」先生は目を伏せたまま無表情でまた頷いた。「でもね、僕の言うのも急だったかな、びっくりしたのかもと思ってね、初めは。その、一応そうしてこちらの気持を伝えておけば、初めは驚かれるかもしれないけれども、心を動かせるんじゃないかと思ってね。徐々にね」

「そのうち」

 なー。私も思ってた。そのうち。そのうち。一体いつ来る。そのうちって。

「でもね、その話をしたのが、実はね、あー、その、小田さんの所でお世話になった次の日なんだけれどもね、そのあと連絡がつかなくなってしまって」


 先生は本当にこんな重大な、本人には生涯でも十指に入るであろう重大な話を私みたいな半分通りすがりの人間にしてもいいのだろうか。ホンマに友達、いてはらへんのですか?! 私は腹の底から、軽々しく相談になんか乗るんじゃなかった、と後悔した。

 親しい人にだとかえってしにくいと言う話はある。近しい人を傷つけてしまうかもしれないことが含まれているとか、自分が軽蔑される恐れのあることだとか。そのために、カウンセラーとかいう商売があるくらいなのだから。カウンセラーって、話を聞くプロなわけでしょ。守秘義務を負って。さらには専門の知識および的確な指導力もあって。そういう責任と能力がありまっせという「カウンセラー」の看板に対して、悩みを抱える人はやっとヘビーな話が出来るんとちゃうの?

 でも私は先生にとっては、過去によく追試を施した一生徒であり、その後たまたま旅行社のウェディングカウンターに座っていたネエちゃんにすぎない。結婚と結婚式は当然ながら別物だ。先生は私を「小田さんはプロだから」と言ったが、結婚式の手配の仕事に関してはそれでメシを食ってるのだからまあプロと言えばプロなんだろうけれど、それでもまだ三年目のぺーぺーだし、男と女の仲をどうこうして結婚まで導いたなんてことはいっぺんもない。それとこれとは別別別。ウェディングカウンターなんていうのは基本的に、既に約束をした二人があちらから勝手に、手に手を取り合ってやって来るところなのだから。

 しっかりしろ、サチオ。


 と、そんなことをいくら思っても、始まってしまった以上今さら降りるわけにもいかなかった。

 私は厭々、もう少し聞いた。

「顔をあわせることもなく、ってことですよね。学校では」

「全く、僕の生徒ではなくて、よその高校の子だからね」

「じゃあ今までは電話とかメールとかで連絡したりですか」

「そうだね、どっちかだね」

「で、今、つながらないと」

 サチオは小さく頷いた。

 話を進めようとするなら、いろいろ聞くべきことはある。けど聞きたくない。聞いてよさそうなことがありそうにない。


 こちらが自分の歯の裏側を舌でなぞるばかりで黙っていると、サチオは急に眼を上げて、

「僕はね、結婚を断られたことよりもそれがショックでね。結婚のことは、まあ、相手がびっくりしてしまってすぐにはいい返事を貰えないことだってあると思うんだ。誰でもね。一旦断られたって、まだ先々付き合っているうちに、さらにお互いわかりあう部分がでてきて、あの時は断ったけれども、ということになるかもしれないし、もちろんそれと逆のことも起こりうるよね。だから、結婚のことはね、僕は今こう思ってるよってことを知ってもらえればそれでよかったんだ。僕はね。ところが、別れる、もう会うのはやめる、ということにするなら、僕は話し合いが必要だと思うんだよね。だってそうでしょ? お互いの気持を確かめなくちゃ。付き合いってのは、二人の合意でしょ?」

 いや、気持ちは分かるけど、それはなー。

 私の心のトホホ声は届くはずもなく、サチオは喋り続けた。

「せめて、どうしてそう思うのか、別れたいと思うのか聞かせてほしい。理由を知りたい。何がいけないのか、僕に何か悪いところがあるなら言ってほしいと思う。そして、それを解決すればもっと良い関係になれるんじゃないかと思う。僕自身がそれで成長できると思う」


 それ以上成長してどおすんねん、四十過ぎのおっさんが。私は視線を落として、一列に連なってぷつぷつと上がってゆくビアジョッキの中の泡を見た。この泡の通る道っていうのは、どうやって決まるのだろうか。

 段々サチオは声が大きくなってきていて、私は大将や他のお客の視線を感じた。ちゃうねん。今我々は、我々の別れ話をしているのではありません、この人と私が付き合ってるわけではありません、と私は大声で弁解したかった。店中にあまねく知らしめたかった。


「お、小田さんはそういうのどう思う?」勢い込んでサチオはどもっていた。

「まあ、そうですね、いろいろ難しいですけど、えーっと」

 反射的に、私は完全に営業中興奮しだしたお客をなだめるのと同じ姿勢同じ口調になっていた。「先生どれくらいの間付き合ってはったんですか?」しまった過去形にしてもうた。給料貰ってる仕事だったら今ので即クビ。私はすぐ言い直した。「今でどれくらいですか」

 するとサチオは一拍おいて

「半年くらいかな」

 と答えた。

 みじかっ。

 と咽元まで出掛かった言葉を全力で押さえ込み、「あ、じゃあ知り合われたのはもっと前」と私が振ると、サチオは髭の薄い顎の下をぐるぐるさすりながら、

「いや、知り合ったのも大体半年前くらいだなあ」


 それはさあ。それはさあ。


 私はもう一つ質問してみた。

「ああ、すぐ意気投合みたいな感じですよね、てことは」

「まあそういうことだね」

「じゃあそれからはお互いの友達とかにも紹介したりとか」

 私の問いかけにサチオは言い訳するように答えた。

「いや、僕も学生時代には仲のいい奴も随分いたんだけれどもね、みんな僕をおいて先に結婚してしまったりでね、落ち着いちゃって、それまでみたいな気軽な交流っていうのかな、会って話してどうこう、ってことがあまりなくてね。付き合っている相手を紹介するような機会もなかったなあ。みんな仕事も忙しいしね、それに僕の場合、その、彼女がうんと年下っていうのでね、僕自身ちょっと、なんて言うか、みんな驚くかなとか、うん。彼女の方にも、特になかったんだよね。そういう機会」

 サチオは再び伏し目になり、手元のおしぼりを意味なくまさぐった。何も食べていないのに。

 私はあー、あー、と曖昧に頷いてあげた。「友達ぐるみで知り合いになってたら、彼女自身とは連絡とれなくても、彼女の友達とかに何か聞かれへんかなあと思ったんですけど」

 するとサチオは唇を一文字に結び、目を閉じて眉間に溝を作り、そうだなあそうだなあと呟き、やはり顎を撫でまわした。サチオが自分の瞼の裏を見ているその間に、私はちらりとカウンターの向こうに目を走らせた。すぐに湯呑みを拭いていた大将と目が合った。今日はあんまり歌ってない。大将は眉根を寄せて小首をかしげてみせた。カウンター席に座っていた顔見知りの常連客で、キース・リチャーズと同じ誕生日だというのが自慢のヤゴさんというおじさんもこちらを振り返った。


 と、サチオがふんー、と鼻から息を吐いてまたウーロン茶に手を伸ばしたので私はさっと座り直し、再び営業中の姿勢に戻った。

「この際だから小田さんには話してしまうけれども、確かに」サチオはおもむろに言った。「よくよく思い出すと、お付き合いしましょうということで、その、そういう事務的な契約のようなことはしなかったね」

 事務的な契約、という言葉に力を込めて、サチオはウーロン茶のグラスを握ったまま続けた。

「でもね、彼女とは本当に真剣に……というか、彼女は初めて会った日に僕のことをはっきり好きだと言ってくれたんだよ。僕はそれで、心と心が繋がっているってことは素晴らしいと思った。生きているとこんなことがあるのか、と思った。そのことは、小田さん、どうなんだろう」


 ふつふつと。ふつふつと腹が立ってきた。なんで私が問い詰められてんの? なんだろう、種類のよく分からない苛立ちが。「好き」にもいろいろあるやん。軽い重いあるやん。私見てへんし、その状況知らんやん。大体ほんまに付き合ってたの? 「事務的な契約」って、なんか自分らにはそんなもののシバリを越えた、それ以上の高尚なつながりがあったと思ってんのかもしれへんけど、それがない限りはあなたの思い込みの可能性すらありますけど。百歩譲ってキミらが本当に付き合っていたとしよう。それでも、片方の気持がなくなった時点で話し合いには何の意味も効果もなく、二人は終了です。すでに彼女は逃げている。どこまで追う? 別れる理由が聞きたい? 聞いてどうなる? もし性格がイヤとか言われて直せます?

 この、別れる理由を言うか言わないか、聞きたいか聞きたくないかは個人の趣味の領域に入ることだろう。でも、一方があるいは双方が傷つくことこそあれ事態が有益な方に転がることなんか、まずないんとちゃうの? 私は思う。仮に別れ際、あなたのこうこうこういうところが気に入らなかった物足りなかった虫酸が走ったと告げられた側が、殊勝にそれを直そうとしたとしよう。そして見事直ったとしよう。しかし次に付き合うのが別人であれば、その人は前の相手の厭うた部分をよしとするかもしれない。そらそうやろ。世界は別人で溢れている。つまり、ひとの好みはいろいろだ。


 ここまで考えたところで、「世界は別人で溢れている。つまり、ひとの好みはいろいろだ」という自分の脳裏に浮かんだ言葉の下に、なんか嫌なものが沈んでいることに私は小さく身震いした。私が直視したくないことが。時々気がつきそうになっては、知らんふりで来たことが。


 臼井先生はユコちゃんを呼び寄せ、ウーロン茶のおかわりを注文した。空のグラスをお盆に載せたユコちゃんが、裏に下がりぎわ、柱に貼られたリックス・アンド・タンのシールのめくれているのを、ぺちっと音を立てて手のひらで押さえた。その音とともに自分の空腹をはたと思い出した私は、いろいろ考えるのはやめて調子を合わせることにした。もういい。


「そうですかー。だったら彼女はやっぱり説明すべきですよねーホントに」

「そうなんだ、僕がどうしても納得できないのはそこなんだ」臼井幸雄はぶんと頭を上下させて大きく息を吸うと、あ小田さんごめんね、あの食べて食べてと私のほうに少し皿を押してすすめた。

 私はすっかり冷め切ったねぎまを口に運び、ビールを飲んだ。そしてサチオのぶつ「フェアな男女関係」という理想論にひたすら、そーですよねー、あーはいはい、なるほどねー、と三種類の適当なあいのてをローテーションで入れつつその全てを聞き流し、まるの名物、鶏の冷麦まで注文した。


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