泣かすのか、大の男を
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六月に入って臼井先生から電話があったとき、私は休憩室でお弁当を食べていた。外に出ていたら後々掛け直さなくてはならないところだったけど、御局がすぐに私を呼びに来たので、残っていた鮭の塩焼きとご飯一口ずつを丸呑みにしてお茶を流し込み、自分の席まで走っていって受話器を取った。ここで走っておかなければ、あとで何を言われるか知れたもんじゃない。
「お待たせ致しました、小田です」
「あっ、ごめんね小田さん、臼井ですけど、ごめんね」
「いえいえ、先日はご来店ありがとうございました」
「そう、それ、実はね、ちょっと結婚式のことでね、こう、ざっくり個人的に相談したいことがあるんだけれども、もし小田さんさえよかったらちょっと聞いてもらえないだろうかと思って、ね、ほんとに勝手なお願いなんだけれども」
「とおっしゃると、先生がこちらのカウンターにお越しになるということではなしに」
「うん、本当にね、勝手で申し訳ないんだけれども、ちょっと個人的に」
ほらきた、見てみ、ちゃんと当たった! 私は半分得意になり、半分困った。社内規定、というか規定以前の暗黙の掟のようなもので、ブライダル部門の社員は顧客と私的な付き合いをしない、というのがある。一般の旅行部門の社員の中には、時々、リピーターのお客さんと友達みたいになってしまって、専属添乗員化して一緒に旅行に行ったりするなんて人すらいるのだけれども、ブライダル部門ではお客と必要以上に親密になるのは御法度なのだ。
それをタテに断ることも出来た。事実これは掟破りになるんではと迷った。でも、無下に切り捨てるには先生が気の毒に思えたのと、一方では単純に野次馬的好奇心が湧いてしまったのとで、結局二秒後、私はわかりましたと返事をした。
「ではまた後ほどこちらからご連絡差し上げますので、先生、ご連絡のつきやすい」
「あっ、電話番号ね、お願いします、ホント無理言って悪いね」
こちらが言い終わらないうちに、先生は自分の携帯電話の番号を教えてくれた。
その日私は九時半に会社を出た。これ以上遅くなってはいけないと思い、JR大阪駅から電車に乗る前にホームで電話をかけた。風のない蒸し暑い夜で、青白い蛍光灯の明りが湿った空気の粒まで照らしているようだった。自分の足元から色の薄い陰が三方向にのびているのを見ながら、呼び出し音を一度だけ聞いた。
「あっ、もしもし」
「すみません小田です、先生、遅くなって」
「やっ、いやいや、ごめんね昼間は。ありがとね」
「いいえ、こちらこそすみませんでした、よそよそしくて。会社ではちょっと個人的なお約束、てことになると話が出来ないもんで」
あ、そうだよね、そりゃ色々あるもんね、と電話の向こうの先生はいかにもすまなさそうにもごもご言った。
「そうなんですよ、で、今終わって、出てきて」
向かいのホームに姫路行きの新快速が入ってきた。私の真ん前の車両からはたくさんの人が降り、入れ替わりに同じくらいの人が乗り込む。大方はうつむいて、疲れた感じで。
「ああ毎日遅いんだね。大変だよね」
「でも今日はまだまだ早い方なんですよ。五月六月はお客さん多くて忙しいんで基本毎日残業で」
「へえそうなのかあ。じゃあそんな時にやっぱり悪かったなあ」
「いえいえ、そんな。で、その先生のご相談っていうのは」
「ちょっと、いや、ちょっとね、僕がその結婚したいと思っているひとがね、その、決心してくれなかった、ってことがね、折角小田さんに色々案内してもらったんだけれども」
「あっ、そーれは」やっぱり、と私は思ったが、もちろん言えないし、「でも私のことは、それが仕事なんで、もう全然」私は思わず電話を持っていない方の手を振るアクションをつけた。電話でお辞儀とか、私は相手が見えなくても結構やってしまう。
「いや、でも僕はね、もう少しこう、上手く話が出来たら彼女も決めてくれたんじゃないかと思うんだけれどもね、そのー、僕、身近に相談できる女性がいなくてね、小田さんはああして働いてて、色々見聞きするだろうし、僕ら世代とは違う若い人の感覚なわけだから、ちょっと僕の話を聞いてもらえないだろうかとね、ホントに突然で悪いんだけれども、小田さんはほら、プロだから」
待て待て、サチオ、どうどうどう!
プロと言われても、私は結婚式の設定はやるけど、そういう男女の込み入った話、プランニング以前の問題にははっきり言ってプロどころか戦力外なんですけど。もはやベンチとか鳴尾浜とかいうレベルですらなくてリトルリーグ以下。爺さんの草野球でも混ぜてもらえるかわからんくらいな、自分の世話も出来てへん私に相談するて無茶にもほどがある。先生他に友達おらへんの?
「いっやー、でもそれは私がお力になれるかどうかわからないというか、難しいと思うんですけど」
わたしはかなりきっぱりそう言った。なのに、先生はとにかくまあこの前のお礼だけでもしたいから一度ご飯でも、などと意外に強硬な姿勢を崩さず、結局金曜日にまるに来てもらうことにした。先生が万が一やけ酒でも飲んで大トラになるなんてことになると非常にイヤなので、絶対にアウェイは避け、何かあったら助けてもらえるこちらのなじみの店を選んだのだった。
そして金曜日、私は閉店の七時の時点でこれから片付ける事務処理のあがり時間を計算し、先生には九時から九時半の間に出られるように頑張りますと連絡して、ちゃんと九時十五分にまるに到着した。混み具合は中くらい、先に着いていた臼井先生は入って右側にある二人掛けのテーブル席に、入口を向いて座っていた。私としては安全保障の観点から、大将により近いカウンター席がよかったのだけれど、仕方なかった。
僕実は下戸なんだよね、と先生は開口一番首を振った。
そういや自己紹介で言ってたなと私は思い出した。ああ気の毒な人、さすがウスイサチオ。ビールと焼鳥はベストフレンドだというのに。
やって来たバイトのユコちゃんに先生はウーロン茶、私は生ビール、とりあえず盛り合わせを言って、ではいただきます、と非常にスクエアな呑み始めとなったのだった。
「小田さんは強そうだよね」コッソウからして、と先生は続けた。骨相。ホネから強そうなのか、私。
「いえ、あんまり強くはないんですけど、まあ先生よりは強いみたいですね。でも太りますよ」
「やっぱりビールは太るの」
「ビール自体がどうこうっていうより、私アテがないと呑まへん性質で、反対に言うたらアテがあると呑むんですよ。で、アテが先になくなってお酒がまだ残ってたらね、じゃあこれを呑むのにもうちょっと食べよかなて、外やったら財布と相談ですけどまあ何か頼むし、家やったら必要以上に何か作ってしまったりして。上手いこと両方同時になくせへんかったらもう食べっぱなし呑みっぱなしで」
「ああ、それ僕のカレーライスの時みたいだなあ。ご飯とルーが揃って終わってくれないと結局食べ過ぎるんだよね」
私は遠慮しいしい、ビールを口にした。下戸の人と、それも年長者とサシで呑むのは初めてだ。
「ここはよく来る?」
「ええ、友達と一緒に。先生はやっぱり呑まはらへんかったら来ませんか。焼鳥とかは」
「そうだね、忘年会なんかで誘われて、くらいだね」と、先生はぐるりと店を見回し、卓のすぐ左手にある壁を見上げた。変な恰好をしたチャーリー・ワッツがロバの横でグリコのオッサンのようにジャンプしているポスターが、額に入れられ掛けてある。
「じゃあ毎日大体お家で」
「そう、母親と二人でね」
「ああ、今日はそしたらお母さんはお一人でちょっと淋しいかもですね」
「そうそう、でもね、外に食べに行くとか言うとすぐにね、いい人か、って騒ぐんだよね」
本題へ早くも突入? 突入すべき? 今のは聞いてくれってことなの? ほら、私はこういうこともわからないんですよ。どこがプロなんや。見込み違いもはなはだしい。まあ、引っ張ってもしゃあないし、聞いてみようか。
「その、先生のご婚約者というか、結婚の、その方のことはお母さんには」
「いや、はっきりとは伝えてないんだよね、まだ」臼井先生はものすごくわかりやすく顔を強張らせた。「一応軽くほのめかしたんだけれども、やっぱりちょっとそれ以上なんて言えばいいのかわからなくて」
私はがくがく頷いた。先生本人だけではなく、こうして先生のご家族の姿までがちょっとでも見えてしまうと、野次馬気分は一発で萎んだ。臼井先生は、ドラマやマンガのキャラクターではないのだ。家に帰れば玄関には下駄箱、台所には電子レンジがあって、スリッパを履いた、お年のお母さんが待っている。
「あーのー……相手の方はどういうふうにおっしゃったんですか」
「それがね、そのお」
先生はしばし沈黙した。そこに串満載の大皿が運ばれてきた。「あっ、食べてね小田さん。僕も頂こう」
とりあえずお腹が空いていた私は、じゃ遠慮なく、と本当に遠慮なしにつくねの串を取った。目の前にある食品が、無意味に放熱する様子を眺めるなんていうのは大嫌いだ。すると先生もつられたのか砂肝の串を手にしたが、それを口にする前にぽつりと言った。
「何それ、ありえへん、って言われちゃって」
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