さみしいよ


 焼鳥屋まるで順君から思いもよらぬ結婚願望(らしきもの)を聞かされ茫然として帰宅した翌日は水曜で、MAグレイストラベル堂島西梅田店は定休日だった。先代社長は水曜日を「契約が『水』に流れる」と忌嫌い、全ての営業所を休みにした。近年では年中無休の他社との競合からわが社もほとんどの店舗が無休営業になったが、挙式専門のカウンターを置く営業所は現在も第二と第四水曜が定休日となっている。


 私は昼前に目覚めてからもベッドから出ずに、目をつぶったままあっちへごろん、こっちへごろんと思う存分だらだらしていた。智に、臼井先生の話がしたくて仕方なかった。

 智は今、原坊が定年まで美術教師として勤めていた府内の私立高校で、書道科の非常勤講師をしながら大学の博士課程に進んでいた。仕事が決まってからは智の髪型は至極まともなミディアムボブに保たれ、原坊は喜んでいたのだった。漏れ伝わってきた話によると、むちゃくちゃきれいな先生が来たと言って当の高校生はもちろんのこと、併設の中等部の生徒も皆が大騒ぎになり、初年度にあった公開授業の際には受け持ちクラス以外の生徒の親までが教室に押しかけてきたので、智は大筆で「満員御礼」「大入り」「千客万来」と書いたらしい。


 宗田先生は実はリスボン生まれの外国籍で三歳からベルリンでバレエを習い、その後パリコレでモデルデビューを果たしたのだが二十歳の誕生日に恋人の運転する車で事故に遭い、その際負った大腿部の大やけどが原因で二度とランウェイに立てなくなったため、日本に来て教師になったなどという怪情報まで流布しているそうだ。誰が考えたんや。


 でも、こういうことも全部、共通の友達からの伝聞なのだった。もうながいこと、智には会っていなかった。私たちはずっとずっと、一緒だったのに。智に会って、172センチでパリコレは無理やろ、と茶化したかった。ケイト・モスは167センチやで、と智なら言い返すだろうことも想像できた。


 臼井先生の話を智にしたら、智は何て言うだろう。多分まだ結婚なんて、全然決まってないのにウチの店に来た先生。妄想だけの孟宗竹。三年働いて、これ変やな、っていうのは読めるようになってきたと自分では思う。他社のスパイ客カップルとかも見破れるようになったし、厭でも三年は頑張れ、と大人が言うのはそのへんのことなのかもしれない。大人って、私も一応、もう大人だけども。


 臼井先生が最初の授業の時にした自己紹介を、私はよく覚えている。

 僕の家には『臼井家の呪い』といって、臼井の名を頂く男はみんな髪の毛が薄くなるという恐ろしい伝説がありまして、事実僕の父親も、じいさんも、ひいじいさんも、四十を過ぎる頃に皆頭がさびしくなっていました。特にじいさんなんかは婿養子で、重本という家から三十歳で臼井家に来るまではふさふさだったのに、臼井姓に変わってからあれよあれよという間につるっつるになってしまったという非常に気の毒な人です。重本の血筋には髪の毛の薄い男は一人もいないというのにですよ。僕も今年三十四になりますが、もう既に冬はかなり頭が寒いです。夏は照りつけて相当暑いです。こんなでは彼女も出来ません。誰か、親戚のお姉さんとかで、髪の毛のことなんか気にしないワ、という素晴らしい方がおられたら是非紹介してください。僕が得意なことは数学で、お酒も博打もタバコも無縁です。唯一最大の趣味は将棋ですから、実に人畜無害ですよ!


 高校生だった私と智は、じいさんが禿げたのは完全に婿入り・養子生活のストレスが原因やろそれしかないやろと囁き合ったが、確かに臼井先生は見た限り、不幸をネタに(ハゲが不幸か否かは異論があると思うけれども)自ら笑いを取りに行く陽性な人物だった。前向きだった。だから、すてきな伴侶候補に、ちゃんとめぐり合えたのかもしれない。私の方が、偏見と妄想に満ち満ちていて、臼井先生が結婚するなんてありえない、と決めつけているのかもしれない。でもあの白紙の個人情報シート。曖昧な回答。

 臼井先生は、ウチの話を持って行って押すつもりなんじゃないだろうか、と私は思った。教え子とかなのだろうか、わっかい彼女。今日僕ウェディングカウンターでハワイの話聞いてきてんけど結婚せえへん? みたいな。僕はこんなに真剣なんだけど、みたいな。危険ではある。もし彼女の方が別にそこまで考えてない場合は怖いよ、そんなこと言われたら。引くよ、普通。


 でも、何が普通かはわからんよなー。人の数だけ普通はあるから。彼女が喜んで、まとまるってこともあるかもしれない。いや、でも。


 なんて、私の思考は無限にループし始めた。まあ全部、勝手な推測だ。でも一人で考えているだけに余計、循環が止まらなくなるのだった。

 智がいて、二人で話をしていたのだったらもっと違う方向に想像は動いたかもしれないし、逆に早々に「ま、どーでもえーよね」と打ち切りになったかもしれない。でも、智のところには、今では行きづらくなっていたのだ。


 まだあの赤いアコードワゴンに乗ってんのかな。智に言われて私も一緒に、わざわざ智のお兄ちゃんの知り合いがやってる物集女の中古屋まで行って買ったやつ。智が最後までいすゞの2トン車が欲しいとかわけの分らんことを言うので、私が前まで引っ張っていって、わたしのこと乗せてくれるんやろ? それやったらこっちにして、って決めさせたのだ。


 あの車で、智がまたぶらっと来てくれたらいいのに。ていうかこんなことになるなら、トラック買うのも止めへんかったらよかった。


 とりあえずサイドボードに手を伸ばして、テレビを点けてみた。ケーブル放送の、カートゥーンチャンネルが映る。


 三年前の三月、お互いの新しい進路を前にして、いつものようにこの部屋でうだうだとビールを飲んでしゃべったりくだを巻いたりしていた時、智が突然言った。

「びっくりさせるのが嫌でさー、ずーっとずーっと黙ってたけど」

 と前置きして、ひゅっと息を吐き出すように笑うと、

「私、マリのこと好きなんよね」

 なんの前触れもなく、ただ、さっきと同じようにビールを飲んだりカシューナッツをぽりぽりしていたさ中だった。だから私は、最初、わからなかったのだ。何の話が始まったのか。

「私も好きやで?」

「ちゃうやん。ちゃうねん」智は腕を組んで、わずかに首を傾げた。「私な、マリが好き、ひとのこと好きになる、好き。わかる?」

 頭のハチがぼわっと膨らむ感じがして、次に、それがぱちんとはじけたように、かすかに痛んだ。びっくりした。それ以外に言いようがない。びっくりした。びっくりした。だからわたしは、

「びっくりした」

 と言った。他には何もなかった。びっくりして、びっくりして、びっくりした。

「うん、そうやんな」智は、小刻みに頷いて組んだままの腕を、指で撫でた。細い細い智の指。「びっくりさせたくはなかってんけど、なんかもう、長いこと苦しかって」

 智は、ぱっと眼を上げると、あ、ちゃうで、なんやっけ、マリが悪いわけじゃないで当たり前やけど、と早口に言った。

 どうしていいかわからへんし、男の子と付き合ってた時もあったやん? 私。でも毎回、あ、やっぱりこれ違うんや、って。なんやろ、今日やって、べつにこんなん言うつもりやったんちゃうねんで。これからも黙っとくつもりやってんけど。無くなるまで。そんなん言われたら、マリだって困るやん。てゆーかマリが一番困るやん。そやし、ずっと言わへんつもりやってんけど。

「どう? 気持ち悪い?」

 半笑いの智が、自分でも困惑しているのがよくわかった。私は、智が苦しいっていうのが嫌だった。大事な友達に、しんどい思いをして欲しくなかった。けれども、その原因にはなんと自分が関わっているらしい。

「気持ち悪いとか、そんなふうには思わへん。思うわけないやん、びっくりしただけ。知らんかったから」

 私は、頭の底を浚うように言葉を探し始めた。なるべく「びっくりした」以外の言葉を探して、ぼちぼち拾い、上手に並べようと思った。

「私は、智のこと好きやけど、知ってると思うけど、私は男がいいやん。ここ何年かは順君のことがずっと好きやん。な?」

 全然、上手にはいかなかった。けど嘘はついてない、と心の中では誰かに釈明していた。だから、これでいい。いいっていうか、こうしか出来ない。

 智は頷いた。そしたら、智の大きな眼の底の方から、ぷわーっと透明のものがふくれて上がって来て、ほっぺたに流れた。智は昔からずっと、全然泣かない子だった。意地悪を言われても反対に相手のことを小馬鹿にしてへらへらしていられるすごい子だった。智が泣くのを見たのは、これが二回目だった。前に見たのは十年以上前、和歌山の叔母ちゃんが急に亡くなったという報せが来たときだ。私と一緒にジェンガをやっていたときに。

「泣かんといて」

 私は、自分が泣きそうになってそう頼んだ。

 智はまた頷いた。頷いて、ティッシュに手を伸ばして、目を押さえると「ごめん、垂れた」と口だけが笑った。そうか、泣いたんじゃなくて、垂れたんや、と私は妙に納得した。そう、宗田智は泣いたりしない。それでこそ宗田智だ。

 ティッシュで目を隠したまま、なんで言うてしもたんやろ、と智は大きく首を横に倒した。


 何か、何でもいいから言った方がいいのか、それとも何も言わない方がいいのか、私には分らなかった。私は黙っていた。ただ、

 割れた

と思った。自分が上に乗って、これが全き世界だと思っていた大きなお皿が突然割れてしまったような気がしていた。


「ごめんな、とりあえず帰るわ、私」

 智は、ぱっと薄いコートを掴んで立ち上がった。私は玄関まで見送った。

 階段を先に降りる智のきれいな髪の毛を見ながら、私は考えていた。智、私のことが好きやって。私が順君のことを好きなように。もし私と智が反対の立場やったらどうやったやろう。どうしてたやろう。私は今まで、智の気持を何も知らなかった。順君が今、何も知らないのと同じように。

 いつもなら、一階のリビングのところで智は必ずうちの親にも挨拶をする。でも、この日うちの両親は、二人で淡路島に行っていた。たまたま、旅行で。

 いつも通りだったら、もっと違っていたかもしれない。割れたところが、くっついたかもしれない。「いつも通り」が、直してくれたかもしれない。けれどリビングは静まり返っていて、智は無言だったし、私もそうだった。


 明日からどうなるん? 私やったらどうする? 

 なあ。

 またふつうに会える?


 靴を履いた智が、

「なんか、ごめん、今日は」

 と振り返ったとき、私はそれを尋ねる代わりに首を振るだけ振って、あとは泣いてしまった。智は、ぎゅっと眉根を寄せて、そのままドアを開けると出て行った。

 三年前の、三月。


 その時、かかっていたアメリカのアニメの、真ん丸な目をしたキャラクターが、私の部屋の小さな画面の中で、

「あーあ、そんなこと知らなかった頃の自分に戻りたいよ」

 と大きく肩をすくめて嘆いた。何があったんや、きみは。見てなかったからわからない。ただ、私もホンマそう思うわー、と激しく同意して、私はやっと起き上がった。


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