ゲスマイネーム

 四、五、六月。ウェディング部門はものすごく忙しい。特に土日なんか、お昼を食べる暇もない。お昼どころか御手洗いにもゆけず、勤めはじめの頃は、夕方になるとフラフラの頭でグアムに行くお客にハワイの説明をしてしまいながら尿意を殺していることもあった。長かった不景気のあおりもあって、プラン次第では国内挙式よりもうんと安く上げられる海外挙式は需要が高く、お客はのべつ幕なしやってくる。そらキミら全員出国させたら私のお給金はじゃんじゃん増えるやろけど、もう、お願いやからみんな帰って。そして私を帰らせて。と思うこともしょっちゅうある。


 MAグレイストラベル入社三年目になる私の肩書きは「海外ウェディングコーディネーター」、目の前でいちゃつくカップルを閉店後には同僚達とネタにしつつ彼らの結婚式と旅行を世話するという業務に日々励んでいる。結婚式関係の仕事をしていると言うと、とくに女子からはなんか素敵、と羨ましがられたりするけど、私は別に熱望してこの職に就いたわけじゃなくて、いろんな企業の採用試験を受けては落ち受けては落ち、ようやく引っかかったのがここで、ウェディング部門に配属されたのもたまたまだった。どんな仕事でも明日のゴハンを得られればいい、というスタンスで働き始めたのだけれど、一生に何度もない晴れの舞台に臨む人たちの抱く剥き出しの願望を見るのは結構おもしろいし、平々凡々な言い草ながら、やっぱりお客さんに喜んでもらえるとこちらも嬉しい。


 私の入社する三年前まではカウンターの接客業務と宿泊その他の手配事務とが別になっていたらしいのに、人員削減、経費節減のために「ひとりひとりが全部やる」式に改革されたのだそうで、これで長年つとめてきた社員の結構な人数が陸続してやめてしまい、それでも残った古参の社員さんたちも仕事がきつくなったとぼやいては昔を懐かしんでいる。世知辛。そして、うわあああ、今改めて考えてみたら、そのお陰で私はまだたったの三年目であるにもかかわらず、ウチの営業所に勤務する六人のコーディネーターの中で、三十六歳の御局様、二十九歳の上田さんに続くナンバースリーになってしまってる。きっつい事実!


 ウェディング部門に振り当てられるのは女子社員のみで、まあ男に結婚式の相談なんてお客もしたくないだろうし、それは仕方ないところなのだと思うけれども、仕事内容の専門性が高いということと、それゆえに社員を育てるのに時間がかかるということから、一旦ここに来てしまうと他の部署に異動することはまずないと言われている。つまり、私はおそらくこの先退社するまでずっとずっと、海外挙式の差配をし続けることになるのだろう。


 朝九時ちょっと前に、JR大阪駅の中央改札から人波を掻き分け掻き分け、地下道をゆく。阪神百貨店の角を曲がって堂島方面へ。本屋の辺りで地上に出たらもう目と鼻の先だ。私は建築のことなんか全然わからないのだけれど、ウチの店が入っているのはモダン建築というのか、昭和の初め頃に建った石造りのレトロなビルで、その名もノボリビルヂング。元々は、主に松脂を扱っている商社だったらしい。今では一階にウチ、二階は画廊、三、四階にデザイン事務所が入ったテナントビルになっている。玄関ドアの両脇にはエンタシスやったっけ? 胴の膨れたギリシャの神殿みたいな太い柱があって、ドアの上にかまぼこ型のステンドグラスが嵌っている。エントランスの左手に伸びる階段も、手摺は重厚な黒い木の造りで、今にも修道服のマリアが上から滑り降りて来そうで、画廊に来た人が時々記念写真を撮ったりしている。ウチのお客さんのなかにも、建物の雰囲気が良かったから来た、というカップルが結構いる。

 出社したら制服に着替える。濃紺のジャケットとタイトスカートの上下で、水色のスカーフをする。お客さんからは、CAっぽいですね、とよく言われるけども、我々の方が微妙にダサい。

 そうしてまずはデスクに着き、飛行機の運航状況の確認、各国の事件・事故・政変などニュース速報をチェックして、次に航空会社、ホテル、挙式を取り仕切る専門の会社からの連絡事項に目を通す。それが済んだら店内の清掃。片やタキシード、片やウェディングドレスを着たマネキン夫妻をエントランスに並べて、いい感じにブーケなんかを持たせて寄り添わせてやる。ブーケはたいてい造花なのだが、時々御局様が個人的なシュミで作った生花のものを持ってきたりすることもある。御局様はほかにも、エントランス脇に飾る花を活けたりして、ほんとに小うるさくてうっとうしい人材なのだけれども、そういう特殊技能があるのはやっぱりうらやましいと思う。言わへんけど。口が裂けても。

 

ひとさまの挙式を扱っているということから、店内は高級感というか、品よく、というのを大事にしていて、内装は往時のままの細かい彫刻の入った窓枠や壁龕を活かし、茶系ベージュ系で落ち着いた感じにまとめてある。特にベージュは、色彩心理学的な何かだったか、それとももっと非科学的な、風水やなんかにまつわることだったのか忘れたけど、「ひとによい答えを出させる」という効能があるとかで、毎朝たいがい私が掃除機をかけるフロアマットはその色にしてあるのだった。毛足が長めでふかふかのフロアマットは、掃除機のヘッドが通った痕をくっきり残す。それでこの前、無意識のうちに「バ」という字を描いていたら、いつの間にか背後に立っていた支店長に「次はカて書くんか?」と訊かれて手汗を掻いた。


 そのあと先代の社長が考案したという朝礼代わりの「MAグレイス体操」なるものをもおええってと思いながら、けど普段特に運動することって私はほとんどないので、わりかしきちんとやって、十時に店を開ける。MAというのは先代の社長のイニシャルである。先代は、何かイベントがあったらすぐに道路に餅を撒きたがったとか、旅行業者のくせに自分は他行他出が大嫌いだったとか、突然こういう健康体操を考えつて社員にやらせてみたりとか、なんかちょっと変わった人だったらしく、その人生は小さな逸話で溢れているけれどもそれはまた別の話だ。


 我々のウェディング部門は基本的に担当者固定の予約制で、電話かメールで来店予約を受け、接客という運びになる。十時に開店したら、十九時の閉店まで対面での接客と事務処理がうち続き、日によっては飲まず喰わずの状態を余儀なくされ、排泄の自由すら許されないこともあるという過酷な業務なので、身体を壊す社員もザラ、ザラ。やはりその内訳は膀胱炎が断トツで多い。はじめの頃は私も参ったが三年目にもなると、ちょっと資料持ってきますね、なんて立ちあがったらもうしめたもので、一目散に雪隠へ走ってゆき、ついでに洗面台の前でポケットに常備しているウィダーインゼリーを一気に飲み干して、パンフ片手に大変お待たせしましたオホホホホと何食わぬ顔で戻ってくることも出来るようになった。ウィダーがぬるいが、それがどうした。不可能を可能にする女。オダマリを見よ。


 臼井先生がやって来たのは、そんな忙しい五月の最終土曜の午後一時過ぎだった。

 十二時から十四時の予定で私が時間を取っていた、三十五を過ぎたええ年でお互いを「たっくん」「まゆたん」と堂々呼び合っているバイク便の配達人と幼稚園の先生というアホ二人が、打ち合わせ開始からわずか二十分で料理のこと、カニを取るかロブスターを取るかで揉めはじめ、どうでしょう、お二人だけで話されますかと言っているのに二人ともがいやその必要はない、そこに居てくれと私のことを引き止めるので、カニとかロブスターとかとは全然別な、親の介護とかパチ禁とか固定資産税とか保証人がどうとかいう話を次々取り出しては段々怒りを募らせてゆくまゆたんを前にここの幼稚園は大丈夫かしらんと心配しながら、タイミングを見て何とか妥協案を提示しようとしている私を尻目に、自分は全く無関係の今ちょっとここに配達に来たバイク便ですけどといった風情で荒れる婚約者をなだめもせずに明後日の方を眺めているたっくんに私は心底腹が立ち、お前もちょっとは折れろ、てゆーか参加しろ、と思っているうちに、私のとりなしも空しく怒ったまゆたんは席を立ってしまい、結局打ち合わせは十二時五十七分をもって終了、こちらに非がなくてもこういう派手な喧嘩は他のお客様の手前けっして恰好のよいものではないので、あとで御局様からお客様を落ち着かせるのが下手だとか三年やっても使えないとかネチネチ叱られるのだろうなぁと暗澹とする反面、今日はこれで奇跡的にお昼が食べられるのねメシメシヒルメシと踊り出したいような気分でとりあえずハバカリへ行って帰ってきたら、支店長が「小田さん、悪いけどアブやねん」と私の席のほうを指差した。呪ってやる。


 前述の通り当方は予約制なのだけれど、飛び込みのお客も結構来る。ウチの会社では飛び込みのお客のことを「アブ」と呼んでいる。語源は不明。アブは特に土日に多くて、タダでさえ忙しいこちらとしては迷惑千万なんだけどももちろん邪険に扱うわけにはゆかず、そのとき手の空いている者がいれば応接し、いなければ別の時間に鄭重に誘導することになっている。


 私がミラクル・ランチへの思いを断ち切り、溢れ出す見えない涙を拭いながら自分のカウンターへ戻ると、なんとそこに座っていたのは忘れ得ぬあのシャイニーヘッド、生徒からはピカデリー臼井と渾名されていた数学科の、

「うわあ、臼井先生」

 だったのである。

 先生の方も、追試に次ぐ追試を受けまくり、接触回数をこれでもかと増やしていた私のことを覚えていてくれたらしく、ちょっときまり悪そうに、

「いやぁ、この名札を見てまさかと思ったけど、やっぱり小田さんかぁ」

 と、カウンターに置いてある小田茉莉と書かれたアクリル樹脂製のプレートを自前のパーカーのボールペンで指して笑った。


 話もせんうちにペンを出すなペンを! 


 半ば呆れ、半ば笑け、その様子が「位置ベクトルってーのはぁ」と黒板をチョークで指しながら大声で授業していた昔と全く同じなので、追試の憂鬱や補講のかったるさと共に高校時代の様々な思い出が走馬灯のように脳内を駆け巡り、とりわけ宗田智と一緒に学食でしょっちゅう食べた破格においしい親子丼の幻影が浮かんで消えず、空腹の私に追い討ちをかけた。

「先生ご結婚されるんですね」実はセンセイのセの字を発音した瞬間かなり顕著にお腹が鳴った。でも当然のことそ知らぬ顔ですごーい、おめでとうございますー、と私はひとしきり騒いでみせた。「今日はおひとりなんですか」

「いや、その、まだ考え始めたところなんだけどね、そのー、海外結婚式ってーのは、その、どんなんだろうかと思っただけなんだけれどもね、話だけでもね、聞いてもいいのかなあと思って、ここはいいビルだなーって、前から思ってたんだよね、だから入って見たいのもあってね」


 恥じらう先生はほとんど乙女だった。


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