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 次の月曜日、欣ちゃんが店番の日にジャンゴへ行って、改めて先日忘れてしまったレコードを受け取った。動揺のあまり、順君に会うのを少し避けたのだった。

 欣ちゃんは、あのあと順君ちの吊戸棚が落ちて大変だったんだよー、マリちゃんは本棚が倒れてきたら死ぬとか言ってたけどさあ、何あれ軽く予言? ホント怖ぇー、つって、と興奮気味に話してくれた。私はカオルのことを聞きたかったのだけれどきっかけがつかめず、さして熱烈に欲しくもなかったエスター・フィリップスのレコードを探してくれるように頼んで家に帰った。順君の下宿にあったのを見たからだ。


 案の定火曜の夕方「エスター・フィリップスやったら俺持ってるで」というメールが順君から届き、早速私は木曜に借りに行く約束をとりつけて、当日は可愛い生成りの袖なしワンピースに、ビーズ刺繍のある革のヒールサンダルを履いて大学へ行き、お昼は学食のカレー饂飩が食べたかったのをぐっとこらえてお弁当屋さんで稲荷寿司を買い、最終コマの講義を放擲してジャンゴに向かった。

 忘れもしない、

「うわあ、オダマリえらい可愛いカッコで来たな。誰かわからんかった」

 と私が入るなり順君は大声で言った。以降これを思い出すだけで、どんなに眠くてすべてが邪魔くさい朝でも、背中にモノサシが入ったような気分になってちゃんと身支度が出来たものだ。


 時々はこんな服も着やへんかったら自分のほんまの性別見失いそうで、と頭を振ると、順君はけらっと笑って読んでいた本を伏せ、私が忘れたLPの入った手提をくれた。まあ座ったら、と順君はいつものようにカウンターの中の丸椅子をこちら側に出してすすめてくれ、私はいつものようにそこに座り、先日はおいしい饂飩をご馳走になりながら十分なお礼も申し上げず大変失礼致しました、と鄭重に詫びた。

「いえいえそんな。約束大丈夫やった?」順君は伏せていた新書を取り上げて栞を挟んで閉じた。

「大丈夫大丈夫。順君ち、棚落ちたんやろ?」

「そやで! いきなり後ろでがっしゃーああん、いうてな、鉢割れまくり」

「頭割れんでよかったやん」

「まあな。しかしびっくりした」

「本棚ちゃうくて、吊戸棚やってんな」私は中島敦の『文字禍』を早速手に入れ読了していた。老学者が書物の下敷きになって死ぬ話だった。

 私は意を決し、自分が切羽詰った顔にならぬように祈りに祈った。

「棚もアレやけど私もびっくりした、あの、順君て今まで彼女の話とか全然せえへんかったし、彼女おるて。ほんま」

「ああ、俺?」順君は反故と思しき伝票を一枚取ると、ちびた鉛筆で何やらさらさら書きながら、

「自分でもなんで付き合うてんのか時々わからん」

 と言った。そして、描き上がったヘルメットのような髪型のおっさんの絵を私に見せて、

「安藤忠雄」

 あんまり似てなかった。

「何か関係あるん?」

「ない」

 私はそれ以上何も聞けなくなり、話はそれで終わってしまった。


 しかし後日、私はこの話題をもって欣ちゃんから順君の彼女カオルに関する情報を聞き出すことに成功する。

 順君が予備校時代からカオルと付き合っていること。順君とカオルは高校の同期生だったのだが、先にカオルが現役で大学に合格したので、カオルは大学では順君の一年先輩になること。カオルと欣ちゃんの友達が同じ経済学部の所属で、その縁で欣ちゃんは順君と知り合い、音楽の面で好みが合致したことから仲良くなって、欣ちゃんがジャンゴのバイトを紹介するに至ったこと。実に、音楽はひとをつなぐのだ。

「でもねー、なんで順君とカオルちゃんが付き合ってんのかホントにわかんないよ」

 欣ちゃんは長い指をおとがいに押し当ててぐりぐり回した。カオルちゃんはガイジンの歌とか歌詞がわかんないし大体ガイジンがやだとか言うし本もあんまり読まないらしいしそれで順君と何の話すんのかなって思うよ、いっつも。

「じゃあ、ものすご美女、とか」

 私はこの時もなにとぞ自分が悲愴に見えませんように、と念じながら尋ねた。

「まあひとの好みはいろいろだけど、そんならマリちゃんの方が断然上だって。マリちゃんはめっちゃ綺麗だよー」欣ちゃんはにこにこした。

「欣ちゃんさあ、今ひょっとして口説いてくれてる?」

「あわよくばと思ってる」欣ちゃんは笑顔を崩さず頷いた。

 そおかー、欣ちゃんのこういう軽い感じの押しが効くんやろねー、と私はカウン

ターに上半身を凭せ掛けて、頬杖をついた。肘の辺りにクーラーからの冷たい風が直撃する。

「何、どういうこと?」

「順君が前に、欣ちゃんはモテるて言うてたから」

「ほんと? 光栄だな。でもね、マリちゃんレベルの美人になるとかえってよくひっかかるんだよね」

 それこそどういうこと? と私が問うと、欣ちゃんは、マリちゃんってさあ、綺麗だけどキツそうとかコワそう思われるでしょ、と私の顔をくるくると指さした。思わず欣ちゃんの指先を目で追ってしまって、自分がトンボになった気分がした。

「あー、まあ実際ほわほわ感はないね。昔はすごいおとなしかったんやけど」

「そうなの? でもマリちゃんみたいな子の方がね、みんなが敬遠するから実は競争率が低いんだよ。湯布院二泊三日の旅ペアで一組プレゼントよりも、アタック詰め合わせ百名様に、の方がハガキ多いし当たらないってのと同じ現象が起こる」

「え、そんなもんなん?」

「そうだよ、とにかくあわよくばで誘う、でも基本高望みはしないっていう心構えが重要だよね。俺、集計したら四、三、三、で美女、普通、そうでもない、で釣れてると思う」

「これから欣ちゃんのことガマカツって呼ぶわ」

 欣ちゃんは首を反らせて爆笑した。「呼ばなくていいよ!」

「でも誰でも出来るわけちゃうやろ? 欣ちゃんは男前やん。昔の、松田優作ってひとに似てる」

「あっ、時々言われる」

「やっぱり」

「でどう? マリちゃんはでも順君のほうがいいよね」と急に欣ちゃんに図星を指されたので私はうろたえた。でも、そうと悟られないように即、

「私四月にかなり痛い別れがあったもんで、なに? 今はちょっと、っていうか」と適当なことを言うと、

「あー、別れても好きな人?」

 欣ちゃんは狙い通り大いに早合点してくれたので、いや、まー、もったいなかったかなあというか、うーん、などと言葉を濁しておいて、

「でも順君は、ほな何なんやろね」

 とそこから話をそらすと見せかけて本筋に揺り戻した。

「ねー。わかんないよねー」欣ちゃんは笑った。

 いや、わかんないよねーじゃなくて一番大事なとこやろ、この田吾作!

 と私は心の中でこの最大の情報提供者にまたぞろ不当な八つ当たり、まあ不当だからこそ八つ当たりと言うんだけど、極めて恩知らずな罵詈を内心浴びせかけたそのとき、欣ちゃんは言葉を継いだ。

「まあ順君がどうこうっていうより、カオルちゃんが順君のことをすごく好きみたいなんだけどね」

 田吾作なんて思ってごめん欣ちゃん。こんど欣ちゃんが金欠の時は王将でチャーシュー麺セットご馳走するわ、と心に誓い、私はカオルと争うことを決めたのだった。


 けれども「争う」といって、敵はこちらを知っているのかどうかすら定かでなく、こちらも先方を見たことがない。爆撃するわけにもゆかないし、結局私の採った当座の方策は、マメにジャンゴへ遊びに行く、もうちょっと頻繁に可愛い服を仕入れて、というしょうもないことに絞られた。順君のことが好きだと直截に言うのは上策でない気がした。まずはこうして友達として折角仲良くなったのに、順君にカオルと別れる気が全くなかった場合、早まってそんなことを言ってしまうとすべてが御釈迦になるおそれがあったし、欣ちゃんの言葉を信じれば、それをわざわざ言わなくても追々に順君の風向き心向きを変えられるんじゃないかと思ったのだ。私は変に自信があった。自ら恃むところ大、っていうヤツね。順君とは話が合う。その上過去に一夫多妻制の異国からやってきた王子を馬ごと射抜いた実績がある。伝説にまでなったのだ。レジェンドなのよ? だから、果報は寝て待て。待てば海路の日和あり。


 以上の事をまた智の所に行って報告すると、その心意気やよし、とはされたものの、

「でもカオルは手強いかもよ」智が言った。

「確かに、なんでかわからんもんくらい強いもんはないからな」

 我々は一瞬沈黙した。

「まあマリはベッピンさんやし大丈夫」

 智はさらに、マリは日本一素敵なおんなのこー、と妙な節をつけて歌いながら私の肩を叩き、ずっと隣に居た原坊が、

「マリ、女の子は丸坊主にしちゃ駄目よ。あと、毎日ミニスカートを穿きなさい」と、坊主頭の我が子に目をやってため息をついた。


 顧みればもうひとつ、私にはすべき事があった。いやわざわざ顧みたりしなくても、当時から心の片隅ではわかっていた。それはとにかく可愛く振舞うこと。ああ、「ぶりっ子」というのは唾棄すべき古俗ではなく、出来るならばおんなたるものどしどしラブリー&キュートにしなければならないのだ。でも私には、それは実に難しかった。非常に難しかった。

 ひとは相対する人によって自分を演出する生き物である。あの江藤淳が、「本当の自分なんてものはない。他者からそのように見える自分というものがいるだけだ」という意味のことを書いているのを読んだことがある。でも私の場合、「本当の自分」というか、私の中に「ツッコミの自分」というのがいて、ここはひとつ可愛いセリフを吐くべきではないのか、という場面で

「おいオマエ、いっつもそんなんちゃうやろ!」

 とつっこんでくるのだった。しかもめっちゃラウドに。もうベタにハリセン片手に。

 決してかざらない、ありのままの私を好きになって欲しい、なんていう甘い考えを持っていたわけじゃない。でも、ツッコミの自分を黙らせることは出来なかった。私に出来るのは、本当に原坊の言うように「髪を切らない」「スカートを穿く」程度のことだけだった。それが限界だった。当初から充分「私のこの布石、ちょっと間違ってる」という認識はあったけど、いかんせんツッコミの自分は常に声が大きく、無視できなかったのだ。


 とにもかくにも順君の在学中は最低週一でジャンゴに行った。鴨川の河川敷で順君と欣ちゃんと、ご両人の友達の増子君、東君とが花見をしているところに呼んでもらったこともあった。時折舞い降りてくるソメイヨシノの花びらを指で払いながら、私は菊正宗を注いでくれる順君の手をじっと見た。私と順君と智とで貴船に蛍狩りに行ったこともあったし、大文字の送り火はその断片、大の右はらいの末あたりを順君の下宿の廊下から一緒に見、そこで缶ビールを飲んだ。その翌日は森ビルの大家さんに教えてもらって、二人で送り火の消し炭を拾いに早朝山登りもした。近くの小学校から学童保育の子供たちが引率されてきたのと一緒になって、私は久しぶりに一ケタ台の年齢の子とおしゃべりをしながら、順君の黒く汚れた指先を見た。秋には桃山に旨いラーメン屋があるから食べに行こうと乗った京阪電鉄の東福寺駅で、紅葉狩りの観光客が押し合いへし合いしてホームから落っこちそうになっているのをすげー、超絶バイオレンスと口を開けて眺め、十二月には鳴滝の了徳寺の大根炊きに行ってみるかと右京へ出掛けたらじいさんばあさん(ほとんどばあさん。ばあさんは元気)にもみくちゃにされ二人ともへとへとになった。私は龍の絵が描かれたラーメン鉢を持つ順君の手を見ていた。発泡スチロールのお椀に入れられた大根を箸でつつく順君の指を見ていた。


 そうこうするうちに順君が就職して、森ビルから引っ越す時は、私がうちの店の、横っ腹に「小田自転車」と書かれた軽トラを出した。京都から上新庄にある会社の借り上げマンションまで、会社持ちの単身引越しスマートパックとやらに積みきれなかった荷物を運ぶ手伝いをしたその日、順君がカオルから貰ったという陶器のカエルの貯金箱を必要以上にでかいバスタオルで鄭重に包んだのが恨めしいといったらなくて、今こうして思い出すだに嫉妬で胃袋が煮える。


 そして初めてジャンゴで順君にレコードを借りてから五年経ち、もうじき六年になろうとしていた。私は依然として何も言わないまま、一緒にいろんなバンドのライブに行っては、実に嬉しそうにビールを飲む順君を見、二人で甲子園に行っては、広島ファンが立ったり座ったりするのを楽しそうやなーあれだけは、と羨ましがる順君を見、連れ立って淀に馬券を買いに行っては、帰り道、オレなんで2を外したんやー、と繰言を言う順君を見、こうして焼鳥を食べに来ては、手羽元を器用に割く順君を見、それはそれはしょっちゅう遊んでいた。


 そして順君は、依然としてカオルと付き合っていた。


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