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七月に入ってすぐ、雨上がりの蒸し暑いある金曜日、取り置きしてもらっていたプリンスのブートレグを受け取りに行ったら、順君はいつものようにカウンターの向こうに座っていたのだけど、ちょうど来ていたお客の相手をしてレジを打っているのは欣ちゃんだった。欣ちゃんは順君と同じ大学の農学部に在籍する先輩で、月、水は午後一時の開店から丸々欣ちゃんの受け持ちだった。あと、木曜日は順君と四時で交代する。けれども、聞けば今日の仕事は金欠の欣ちゃんに順君が譲ったのだという。でも今日は私が来る約束をしていた日だから、
「俺がいないと、オダマリがきっとがっかりすると思ってねー」
と、順君はとってつけた関東弁で言った。そして、あと一時間で閉店だから、欣ちゃんを下宿に招いて饂飩をゆがいてやるけどオダマリも来ないか、と誘ってくれた。欣ちゃんも、マリちゃんも来なよ、うまいんだよ順君の饂飩、と大きく頷いた。
午後七時半、外壁に取り付けられたフックから「django OPEN」と緑色の太字で書かれた白い琺瑯引きのプレートを外してカウンターの足元に仕舞い込み、戸締りをした。ジャンゴにはこのプレートのほかには看板というものがなく、閉まっている時に来た人には、従って、店の名前がわからないのだった。駐車場とかマンションとかのあがりで食ってるというオーナーの「趣味経営」なのだと聞いてはいたけど、なんて適当な店なんだろう。
私は順君のママチャリの後輪にハブをつけてもらって立ち、欣ちゃんはやたら本気度の高いマウンテンバイクに乗って、まだかすかに夕方の明るさを残す空の下、ジャンゴから北へ十分少々の順君の下宿がある森ビルに向かった。
洛中は南から北へ、歩いているだけならそうとは気付かない程度の微妙な上り坂になっている。派手な色のタンクトップにショートパンツ、手にはエビアンかなんかの水のペットボトルとジャパニーズな団扇という姿であからさまに暑がりながらぶらぶら歩いている外国人旅行者を何人も追い抜き、軒の低い古い家の並ぶ町々を通る途中、私は気になって「重いやろ?」と二度も尋ねた。二回とも、全然大丈夫、と順君は笑った。順君は背が高くて、どちらかというとひょろっとした体型だったけれど、事実とくに息があがるでもなく、スタンスミスでぐんぐんペダルを踏んでいた。細くてもやっぱり男は違うな、と私は感心した。
森ビルは築四十年、一階は食堂と床屋、二階は貸衣裳屋で、三、四、五階を賃貸住居にした古い建物だった。順君の住まいは最上階、階段から三部屋並んだ一番奥で、入ってすぐの二畳ほどの板の間に流しとガス台があり、その向こうに四畳半。大量のCDとLP、そして本が壁の本棚一杯に詰まっていた。ものすごい圧迫感。思わず、これ倒れてきたら絶対死ぬよね、と私が縁起でもないことを言うと、順君も欣ちゃんもがくがく頷いて、
「中島敦の『文字禍』のラストみたいになる」
と応えた。私は辛うじて『山月記』を知っていただけだったので、家に帰ったらアマゾンで中島敦全集を買うこと、と心に刻んだ。
順君はオーブンの中のような部屋の窓を開け放った上でエアコンを稼働させ、早速お湯を沸かし、饂飩をゆがき始めた。順君は麺類用の取っ手が鍋のふちに掛けられるように曲がったザルを三つも持っていた。去年までジャンゴと掛け持ちで働いていたチェーンの饂飩屋が店をたたむ時にガメてきたのだという。しかも、麺はヒマな時に打つんだと。好きだった実家の近所のお兄ちゃんから小学生の時に教わったらしい。
順君はそれで器用にちゃちゃちゃとお湯を切りながら、俺のバイト先は俺が行って二年保たんと潰れるねんで、となぜか得意げだった。酒屋も定食屋も潰れたなー。
「ほなジャンゴも潰れるん?」
私が聞くと、順君と欣ちゃんが声を揃え、あそこはほっといても潰れる、と笑った。けれど、予想に反してこの日から五年以上経った今もジャンゴはまだある。もう長いこと中には入らないけれど。
順君の玉子とじ饂飩は、きちんと昆布と鰹で出汁がとってあって、とても美味しかった。それに、味覚障害になるんじゃないかとこっちが心配になるくらい七味をばんばんかけて、やっぱり夏でも饂飩は熱い方がいいよね、と言いながら三杯も食べ、滝のように流れる汗と洟水を京都銀行の粗品タオルで拭うと、欣ちゃんは順君に尋ねた。
「ね順君はさ、カオルちゃんと別れたの?」
「いや、別れてへんで」
「あ、そうなんだ。いや近頃ね、木曜交代する時はいつもマリちゃんが居るから、マリちゃんとどうにかなってんのかと思って」
順君は首をひねった。
「あー、俺は彼女をバイト先には連れて来ない」
欣ちゃん。欣ちゃんは金沢から来たんでしょ。なぜ地方出身者は郷里のことばで喋らないのか。欣ちゃん、金沢弁で言ってごらん。君らには郷土愛とか言葉に対する誇りがないのか。なんて、私、何を怒ってんの? 欣ちゃんのしゃべりを聞いたのは初めてじゃないでしょ? ほたら何ですか、今のは。八つ当たりか。欣ちゃんに八つ当たり。八つ当たり言うたらそれは
「えー」
乾いたマヌケ声が堰き止めるひまもなく、勝手に口からたらたらと流れ出て、私は思わず立ち上がった。胡坐をかいていた順君と欣ちゃんがのけぞった。「どないしてん」「どうしたの」
私は「今日智と約束してたんやった。今思い出した」と適当なことを言いこしらえて、お礼もそこそこに丼鉢を流しへ持って行き、駅まで送ってやるという二人の申し出をイヤイヤイヤイヤ大丈夫、分かるから、ホンマに大丈夫やから、あっちやろ? おけー、おけー、じゃ、と断って、逃げるように森ビルを辞去した。そして饂飩を咽元まで上げながら駅まで無意味に走って、電車の中から、宗田智にそっちに行かせて欲しいとメールを送った。
レコードは忘れてきてしまった。
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