誰しも夢を見られる相手が必要で

「高校の時、ウスイサチオって先生がいてさあ」


 火曜日の夜、仕事が終わってから、梅田のとある雑居ビルの地下一階、焼鳥屋「まる」のテーブル席で、こんがり焼けた葱をかじり、私は順君とビールを飲んでいた。

 外から見れば何の変哲もない、壁も床も脂ギッシュなふつうの焼鳥屋だけど、ここの大将はストーンズのファンで、店内は全面ストーンズのポスターやステッカーなどで飾られ、いつもストーンズ専門の有線が流れ、見た感じ四十そこそこくらいの大将は病めるときも健やかなるときも、お客と喋っていなければ、小声で、あるいは大声で、鶏を焼きながらBGMにあわせて歌ったり、身体をゆすったりしている。この時は「レット・イット・ブリード」がかかっていた。うぇうぃおーにー、さーまーん、うぃきゃんりーのん、と大将は今日はかなりええ調子で串を返している。多分カウンターのお客さんが全員常連で安心しきっているのだと思う。


「土曜日、うちのカウンターに来はってん。びっくりした」

「そらまた、えらい名前やな」

 順君はぱりっとしたジャケットを着て珍しくネクタイまで締めていたけれども、無造作とみせかけたオシャレと見えるかもしれないが実際のところはまぎれもない無精で伸びた長髪が、まっとうな月給取り感を多分に薄めていた。ほんとに本当はすごくちゃんとした月給取りなんだけれど。順君は中津にあるアパレル関係の会社に勤めていて、特に髪型服装にやかましくない商品企画の部門にいたのだった。

「最初、字面だけ見てウスイユキオや思てん。それがウスイサチオやで。親ももうちょっと考えたれよ、て」

 私は箸袋の端に「臼井幸雄」と書いて見せた。

「でも、これからめでたく結婚するんやな。良かったな」

「まあ、まあ、ねー」

 私が煮え切らない返事をしたのは、確かに臼井先生は嬉しそうな顔で私の話を聞きパンフレットを持って帰っていったものの、何か変な予感がしたからだ。


 その話をしようとした瞬間順君が、

「俺もいつ結婚しよかな」

 と言ったものだから、私は臼井先生のことなどいっぺんにどうでもよくなってしまった。心境描写をするなれば、爆発する機雷、立ち上る水飛沫。向こうの壁にかかっている、裸で、股のところに『スティッキー・フィンガーズ』のレコードのジャケットを持って立っているポスターの中のミック・ジャガーとにらめっこしながら十数え、顫える右手で一口だけビールを飲んで、

「増子君の結婚前に、オレは結婚とかはええわって、そこで大将に言うてたよね」

 と左手のカウンター席を指した。昨日念入りに塗ったピンクのエナメルが、とほうもなく空しく見えた。女性ホルモンの分泌を促進するというピンク。風水的にはよき恋愛運を呼び込んでくるというピンク。いや、私もそこまで切羽詰ってるわけじゃないけど。でも。

「そら、今日明日にはせえへんけどな。増子も結婚したし、東も再来月するし、なんだかなーと思って」

「彼女何か言うてんの?」

 そう尋ねた時は、ほとんど死にそうだった。私が順君の彼女に関することを自分からすすんで尋ねたのは、この時が二度目だった。どう頑張っても顔がおかくしなるに違いないと思ったので、私は目に異物が入ったふりをして、左の薬指で右目の目頭を押さえ、次に目尻をひとなでして、自分の指先を見つめた。

「いや、別に。つうか、俺はいっぺんお見合いがしたい! どんなんなんやろな」

 順君のこの回答を得て、私はひとまず気を取り直した。

「あれって誰がメシ代持つん? やっぱワリカン?」

「女子がメシとか言うな。俺の会社の同期で、ちょっと前にええとこのお嬢とお見合いしたヤツがおってな」

「へぇ。私の周りでは聞いたことない」

「メシ食うたら、あとは若いお二人でとかホンマに言われて、二人にされたらやっぱりご趣味は何ですか、とかホンマに聞くらしいで。したら、そのお嬢はしばらく考えて、音楽聴いたり、映画見たり、とか言わはるんやけど、じゃあどういうのが好きですか? って聞くと、全然答えられへんかったんやって。そいつは、あれじゃあ趣味が無いのと同じだよとかなんとか、えらい憤慨しててな。そいつ映画が好きやから、軽々しく映画好き言うな、てことやと思うねんけど」

 でも、好きなのんがありすぎて答えられへんかったんかもよ、と私が見ず知らずのお嬢のために生暖かいフォローを入れてみると、順君も、

「せやなー。俺もそんなん聞かれたらきっと音楽鑑賞です、とか言うとは思うけど、何が好きかて聞かれたら、色々、としか答えへんかもしれん。絞られへんし」

 と同意した。

「休みの日何してますか、とかも困るな私」

「俺も、だらだらしてます、以外に説明のしようがないね」

「昼まで寝てます、とか」

「デーゲーム見てビール飲んでます、とか」

「あんまりホンマのことは言いにくいな」

「高尚な嘘、どうぞ」

「茶杓削ってまーす!」

「錠前作ってまーす!」

「ルイ十六世やん!」

「あの人も気の毒な人よな。結構ええ趣味やと俺は思うけど」

「知り合いか」


 順君は私より二つ年上で、私が順君と知り合ったのは京都の南の端っこにある女子大に通っていた二回生の六月、一浪した順君は(当然だが)他大学の三回生だった。そのときすでに順君にはカオルという彼女がいたのだけど、それを知ったのは親しくなってからひと月あまり経った頃だった。順君は私が時々のぞきに行っていた寺町二条界隈にある「ジャンゴ」という中古レコード屋でバイトをしていて、ある日私が探していたLPを、たまたま持っていた彼が個人的に貸してくれたことがきっかけで言葉を交わすようになったのだ。

「これって、入って来る見込みありますか?」

 と私の差し出したメモを見て、順君が、あの柔らかい低い声で、

「ないとは言えないですけど、近々に確実に聴きたいって思てはるんやったら、あのー、僕持ってるんで、貸しましょか? ときどき来てはりますよね?」

 と答えるまでのジャンゴに関する記憶というのが、私にはほとんど無い。映画『オズの魔法使い』で、オズの国に着いたジュディ・ガーランドが家の扉を開けた瞬間から、それまでモノクロだった映像がカラーになるように、私の記憶もここから突然色彩を帯び、明るく確かになるのだった。西からの陽が入口に差して、ガラス扉の枠と、貼られたポスターとが拵える矩形の光が店の床に投げ込まれていた。思い出す。お天気の日のジャンゴで、私がその後幾度となく見た光の形を。扉には、スティーリー・ダンが外向けに貼られ、それと背中合わせ、つまり店の内側では、ライトを浴びたリーゼントのジェームス・ブラウンが身体を反らしてシャウトしていた。そのドアのすぐ左側にレジの置かれたL字のカウンターがあり、足元にも後ろのスチール製の棚にもまだ値札のついていないレコードやCDがたくさんあった。あとの壁三面は全てCD棚で、それらにコの字囲まれる恰好でレコードの詰まったワゴンが三列に並んでいた。


 順君は自分のシフトをメモに書いてくれて、用意しとくんで、またいつでも来て下さい、と一旦こちらにそれを渡そうとしたが、

「僕、江藤です」

 と、さらにメモ用紙にエートーオーと発音しながら漢字を二つ書き足した。

「あ、私、小田っていいます。小田茉莉」

 順君はぱっと顔を上げて、私を見た。

「いい名前!」

 いや、うーん、どうかな、どうせならオオダマリの方がトリッキーかつよりヒステリックな感じでよかったかも、とか私は首を傾げたが、順君は「だって、忘れられませんよね」と二三度頷いてくれた。

「すぐ覚えてもらえるでしょう?」

「ああ、まあ、それは」

「僕は順っていうんですけど」順君はまた鉛筆を握り直して視線を落とした。

「ほな江藤淳? 『小林秀雄』?」

 私の言葉に、順君はえっ、と小さく声を上げ、知ってます? 読みますか? と聞き返した。

「いや、大学の講義でちょっとかじっただけで、うわムツカシ、思て。でもレポート書かなあかんかったからしゃあなしで読みました」

 と正直に陳べると、

「僕単純なんで、名前が一緒いうだけで興味湧いてたいがい読みましたけど、途中からはしゃあなしになってましたね。引っ込みつかへんで。なんか、オレの本やし、みたいな気になって。絶対ちゃうのに」

 順君はなんだか嬉しそうで、大体字ぃ違うしね、とさっきのメモに「順」と書いた。江藤順。やや右上がりの端正な楷書だった。あと、いちおうケータイ、と言いながら順君は090で始まる八桁の番号を書き添えてくれた。これはナンパかこれはナンパかこれはナンパにカウントしていいのかカウントしていいとしたらけっこう理想的な形ではある、とこちらの認識の上では初対面だった順君に、私はすごく好い点数を付けた。


 順君はウチのすぐ近くの共学大学に群れている大多数の男子学生のようにちゃらちゃらしてなくて、けっしておしゃべりなわけではないのだけれども、話し始めると話題は豊富だった。音楽に詳しいのは当然に思われたが、他にも、なぜか豚の種類とその性質についてやたらよく知っていたり、突如斎藤茂吉の短歌の話をしたり、胸筋の鍛え方を教えてくれたり、サウスパークのシェフの声マネ(つまりアイザック・ヘイズだ)をしたり、興味の在り処それ自体が、私にとっては大変アタッキーだった。こういう人が彼氏やったらなあ、とジャンゴに行くたび思った。順君が美形というのでないのもよかった。一重まぶたの、ちょっと眠たそうな目で、強いて言うならスマパンのジェームス・イハのごく若い頃に似ているけど、もっともっとぼおっとしたような感じ。そして時々くひひ、と変な笑い方をする。我も人も認める美形というのはいけない。そういうのは百発百中で根性悪だという偏見が、私にはあるのだった。


 カオルのことを知った時は、自分でも驚くほどこたえた。

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