或る辺境伯の戦略〈ストラテジー〉

風城国子智

或る辺境伯の戦略〈ストラテジー〉

〈痛っ……!〉


 左腕に広がる火傷の酷さに、思わず舌打ちが出る。

 まあ、炭化していないだけましなのだろう。考えを明るい方へ持っていくために、ヴァルドは殊更大きく息を吐いた。ヴァルドの魔法では、失ったものを取り戻すことはできない。


 右人差指で左腕の傷にちまちまと治癒魔法を掛けながら、部屋の外を見る。ヴァルドが住まいとしている、丘の上に建つ塔の最上階に開かれた窓からは、柔らかい朝の日差しを浴びた世界をすっきりと見渡すことができた。

 南面する窓から見えるのは、右側にある蕎麦畑と、左側にある不毛の荒野。ヴァルドが居住するこの塔より西側、痩せてはいるが少人数なら養える土地が、ヴァルドが差配している東辺境伯領。一方、東側にあるのは、国境へと続く荒野と、荒れた肌を見せる幾つもの山々。


 この塔からはずっと遠くに霞む、東側の険しい山間に棲み着いてしまったもののことを、左腕の痛みと共に思い返す。前触れも無く、長めの首と太った胴体を持つ有翼火竜がこの東辺境伯領に現れたのは、昨夜のこと。この塔からほど近い村を焼き、そこに居た人と家畜を根こそぎ食らった火竜は、突然の火柱に危難を察知し駆けつけたヴァルドの前でその醜悪な身を翻し、夜空に低く浮かんでいた雲の間に消えた。すぐに魔法で隼に変身し、人を焼いた煙の臭いを辿って火竜を追う。だが、火竜が舞い降りた山間を探り当てたまでは良かったのだが、更に近づいて火竜の弱点を探る前に、火竜の攻撃を受けてしまった。


 とにかく、次の村が焼かれる前に、何とかしてあの火竜を倒さねば。治った左腕を確認し、唇を噛みしめる。山脈は、隣国との国境ともなっているから、火竜が隣国へ向かえば、こちらが手を下さなくとも何とか……ならない。隣国との関係が微妙だからこそ、この国の王は、この場所に辺境伯領を置いた。静かな環境で魔法の研究ができるだろうと思ったから、この場所への赴任を了承したのに。もう一度、灰色の山肌を睨み、ヴァルドは深く息を吐いた。とにかく、今は、火竜を何とかすることを考えなければ。


 火竜の大きさは、普通の人の三倍ほど。首と胴が繋がっている部分が他よりも少し細めだったので、そこを折るなり斬るなりすれば、退治できる。そこまでは、すぐに戦略を立てることができた。問題は、……どうやって近づくか、だ。


 鳥として、空からそっと近づくことができれば、事態は簡単になる。治ったはずの左腕の痛みが、蘇る。慎重に慎重を重ねていたと自分では思っているが、それでも、隼の姿で少し近づいただけで、あの火竜は、ぐったりと倒していたはずの首を上げ、隼に向かって火を放った。微かな羽音や気配にも反応する、鋭敏な耳や神経を持っているのだろう。

 蛇の姿で近づくのはどうだろう? こんなちっぽけな辺境伯領に現れる酔狂な盗賊達をこっそり倒す自分の姿に小さく微笑む。だが、浮かんだ考えを、ヴァルドはすぐに棄却した。あの巨大な竜に必要な毒の量は、ちっぽけな蛇では賄いきれない。蛇なら、足音も気配も消せるが、あの峻険な山々をちっぽけな姿で登るのは、困難。時間も掛かる。ぐずぐずしていて、また村が燃やされてしまったら。大きく首を振り、ヴァルドは窓から空を見上げた。やはり、空から向かうしかない。

 途中までは鳥の姿で向かい、蛇に変身して近づくのはどうだろうか? 空から地面に視線を移し、小さく唸る。あの敏い火竜に気付かれない頃合いで鳥から蛇に変身しなければならないが、その距離が分からない。どうすれば。途方に暮れ、ヴァルドは手近にあった本をめくった。


 ヴァルドの視線が、本の挿絵に留まる。

 火竜に対しては小さすぎるが、あの鳥に変身すれば、……何とかなるかもしれない。一瞬で戦略を組み立て、ヴァルドは今度は大きく欠伸をした。焼かれた村の再建は、有能な部下達に任せてある。昨夜は、眠っていない。あの鳥に変身するのであれば、夜を待たねば。





 大きく開いた窓から、ふわりと、漆黒の闇へと飛び上がる。


 本の通り、梟という名のこの鳥の繊細な風切羽は、柔らかく空気を押さえている。鋭敏になったヴァルドの耳にも、羽音は、聞こえてこない。羽根が柔らかいのでその分頑張って羽ばたかないといけないが、あの火竜に気付かれないという利点は、その弱点を打ち消して余りある。もちろん、梟の大きさは、火竜よりも大きめに設定して変身している。これで何とかなれば良いのだが。星すら見えない夜空を、ヴァルドはわき上がる不安と共に飛び続けた。




 夜が更ける頃。ようやく、ヴァルドの視界に件の火竜が入る。


 梟の視界で、火竜が惰眠を貪っていることを確認する。これなら。頷く間もなく、ヴァルドは、その鋭い鉤爪を火竜の首に叩き込んだ。


 骨の折れる感覚が、足から胸へと伝わってくる。火竜の身体が力を無くしたことを梟の目で何度も確かめてから、ようやく、ヴァルドは安堵の息を吐いた。


 これで、今回は大丈夫だ。冷たい地面に横たわる醜悪な姿を、一瞥する。

 夜が明ける前に、帰ろう。夜を駆ける梟の姿のまま、ヴァルドは夜明けにはまだ間がある暗い空間へと飛び上がった。

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