梟の切札

かんらくらんか

梟の切札

 祖母とは二十年も会っていないし、連絡も取れていなかった。たった五歳で両親を失ったわたしも、たったひとりで生きてきたわけではなかった。悲しいときいつも、わたしは中国で暮らしているはずの祖母のことを考えた。わたしを愛してくれている肉親が、この地球上に存在しているのだと、その考えが、わたしを孤独から救ってくれた。


 その祖母から、わたしのもとに贈り物が届けられた。手を尽くして、わたしを見つけてくれたのだ。祖母はわたしのことを忘れていなかった。わたしも祖母のことを忘れたことはなかった。どうして、記憶というのは、こうも色鮮やかで匂い立ち、ときに触覚さえ伴って、人を連れ戻すのだろうか。あの頃へと。


 祖母を象徴する色彩は、輝きを放つ緑黄色だった。彼女の奏でるのは宝石やシルクがぶつかり合い擦れ合う音色だった。一番に覚えているのは彼女の匂いだ。多くのものが混じり溶け合い複雑で、同じ匂いを他に嗅いだことはない。


 わたしはときどき探してしまう。化粧品店で、花畑で、海辺で、祖母の匂いの断片に気がつくと、何時間も、日が暮れるまで、立ち尽くしてしまうことがある。


 暗闇。


 見つからない。


 芳しいものばかりではない。日差しで焦げ、防虫剤の毒と、砂埃を浴び、汗もかいていたのだ。なにか恐ろしい死の気配もあった。生命が世界や時間と溶け合っていた。その日にしかなかった匂いを、わたしは繰り返し繰り返し繰り返し思い返し、記憶を醸成してしまったのかもしれない。そうだとするなら、鮮明に思えるあの匂いははじめからどこにも存在しなかったのだろうか。


 金縁眼鏡の奥には濡れて黒々した黒曜石がふたつある。金色、肌色、黒と白と赤、それらに縁取られたふたつの完全な正円は、射殺すようにわたしを見つめ、わたしははっきりとは見返せなかった。


 促されて、俯きながらお辞儀をして、挨拶をして、返事を待った。聞き慣れない声色の中国語を、わたしは理解しなかったけど、続いて差し出された両手は母のものに似ていた。しわがあって、少しだけ黒ずんではいるけれど、わたしはわたしの母へ向かうのと同じ親しみを、その手にも感じた。


 両手は両腕へとつながり、両腕はわたしを抱きしめ、わたしは抱きしめられることを受け入れる。匂い立ち、宝石やシルクがぶつかり合い擦れ合う音のなかに迎え入れられ、ふくよかな愛情に抱きとめられ、わたしはぎゅっと瞼を閉じて、祖母の胸やお腹に、宝石とシルクと柔らかい脂肪に、頭を埋め、ようやく居場所を見つけ、眠りに落ちる。




 目覚めると、ふくろうがいた。ちょっと変わった出で立ちで、細長い身体はほとんど金属でできていた。ところどころに大ぶりの宝石が散りばめられ、まだらになっている。足首は針のように細いのに、とても大きな靴を履いている。よく見ると、表面はエナメルや革ではなくて、磨き上げられた鉱物であるとわかる。

「わたくしの身体は金でできているのです。もちろん純金でございますよ」

 答えたかったけど、うまく喋れなかった。

「疑うのでしたら、試金石で磨きましょうか」


 梟は自分で言ったとおり、試金石を取り出して、自分を擦ろうとした。

 あと少しのところで、わたしは口がきけた。

「い、いいんです」

「……さようですか」

 梟は残念そうに勿体つけてから試金石をしまう。まるで自ら磨り減りたかったみたいに。


 わたしは自分の様子を確かめることにした。梟が背中を向けたからだ。ちゃんと、わたしがわたしであろうことは、頭の天辺からつま先まで、はっきり感じられた。余計なものはついていないし、欠落しているものもない。お腹を擦ってみると、それはそこにいて、わたしはほっと胸をなでおろす。


 とぽとぽとぽとぽとぽとぽ…………

 音とともに匂い立ち、わたしは驚く。その匂いが、まさにあの匂いだったからだ。液体に変質した祖母がティーカップに注がれるところがありありと目に浮かぶほどだった。

 音のするほう、梟のほうを見ると、彼が背筋を伸ばし、お茶を淹れているように見えた。しかし本当にはポットもカップもお茶も見えなかった。梟の身体に隠れてしまっていて。


 とぽとぽとぽ……

 音はしだいに小さくなっていき途切れる。匂いはきつく立ち込め充満する。

 陶器と金属がごく繊細にぶつかり合う音がする。


「いかがでしょうか」

 梟がそう訊いてきたとき、わたしは彼が背中を向けたまま喋ったのだと思った。それにしてはよく通る声だとも思ったけど、それよりも匂いに満たされた気持ちになっていた。

「この匂いをずっと探していたんです、わたし……」

 梟はゆっくりと応える。

「……このお茶の香りは、嗅いだ方の望む匂いになるのです。わたくしには血の匂いに感じられます」


 梟は猛禽類でネズミやリスを生きたまま食べる。

 待っていても、注がれたはずのお茶が運ばれてくることはなかった。梟もティーカップにくちばしをつけて血の匂いのお茶をすする様子はない。陶器と金属の音を立ててからはぴくりとも動かない。わたしはお茶を催促できず、黙って周囲を見回した。


「あの、ここはどこなんでしょうか」

「ここは梟のお店です」

「お店?」


 そう言われて見てみると、今までキラキラと輝いているだけだった壁面が、でこぼこと波打っている。天井と壁はいったいになっていて、わたしを丸く取り囲む壁面、その輝きの一欠片一欠片がすべて、綺羅びやかな商品に見えてくる。どれもこれもが梟を模したものだった。不苦労や福来郎という語呂合わせから、苦労知らず、福が来るとされ、縁起物として扱われているから、これだけの品々があっても不思議さはなかった。


「ここにあるものはすべて売り物なんですか?」

「ええ。なにか差し上げましょうか」


 ダイヤに覆われた梟の飾りがあった。置物は陶器も木彫りも金属も剥製もあった。形を模したお菓子には、チョコレートやビスケットもあるし、モナカやお煎餅もある。ハサミやペンやメモ帳、お箸やカップや泡立て器に梟のデザインを施したものがあった。下の方には家具や家電や自転車がある。高いところには大小様々な油絵、水墨画、織物、写真、コンピューターグラフィック、その他もろもろの平面的な梟たちが額縁に収められ飾られている。天井のシャンデリアは百はある電灯のひとつひとつが個性を持った容姿や表情をしたガラスの梟だった。美しいもの醜いもの、笑っているもの、怒っているもの……


「ほしいものはたくさんあるのだけど、お金を持っていないんです」

 バッグは持っていないし、服にポケットはついていない。お金を隠し持つ癖もない。

「それは残念です」

「だけど、あそこに飾ってある、あの絵は、わたしも持っています。祖母がくれたんです。あれはなんですか? わたし、持っているのに知らないんです」


 梟は少しも動かずともわかって応える。

「あれですか? あれは梟の切札です。中国で梟は縁起の悪い生き物なのです。子どもが親を食い殺すという言い伝えを信じている方もいます。その悪い縁を断ち切るためのものです」

 わたしは梟がずっと、わたしを見つめていたことに気づいた。梟は首を真後ろまで回すことができる。黄金に縁取られた二つの丸い黒曜石の瞳はずっとわたしを睨んでいた。彼だけではない、このお店にいる何万匹の梟たちがみな黒い瞳で、わたしをじっと睨んでいた。




 その夢を、わたしは受け止められた。祖母がわたしのことを愛していたとしても、愛していなかったとしても、憎んでいたとしても、わたしが母を殺したのだと恨んでいたとしても、なにが真実だとしても、わたしはもうたったひとりの小さな女の子ではない。あの日、祖母が抱きしめてくれた思い出が、わたしを今日まで支え育ててくれた。そして今、わたしには、愛する人たちがいるのだから。

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