紫陽花は穏やかに
神結
読切
紫陽花は穏やかに
新緑が香っている。日差しは木々の合間から零れるように降り注ぎ、庭を池をそして屋敷を照らし、柔らかく包む。鯉は支配者然たる様子で池を泳ぎ、雀は軒下からひょっこりと頭を出していた。
「旦那様は」
少女は庭師に声を掛けた。
名を里という。二〇より少し前くらいだが、佇まいはどこか大人びており落ち着きがある。
里は今一度縁側へと座り直すと、言葉を続ける。
「お出かけになられたのでございましょうか?」
強く張った弦を弾くような、凛とした声音で訊ねた。
「へい、随分早くにお出かけなさっておりましたぜ」
「なるほど……」
庭師はそれだけ言うと、再び手を動かし始めた。
(また何処か行ってしまって)
里は小さく溜め息を吐いた。相変わらず、夫の行動には奇怪なものが多い。
里がこの家に嫁いできて、ちょうど一年になる。亡き父が生前に用意していた縁談らしく、話は滞りなく進んだ。
ところがどうも夫に関してはよくわからないことが多い。御役を貰っているわけでも無く、特別顔が広いわけでも無い。むしろ殆どの時間をこの屋敷で過ごし、花を活け、書を読んで生活している。
かと思えば今日のように、ふらっといなくなる日もある。そして、こういう日は一日帰ってこない。
無口なのか話したくないのか、その辺りの事情を話そうとしない。
かといって里も、訊こうとはしなかった。何をしているのか詮索するのは、武士の妻としてはすべきことではない。
「これはお話してくれるまで、待つしかありませんね」
半ば諦めたように呟く。
とにかくやることをやってしまおう。そう思ってふと立ち上がると玄関の方から物音が聞こえた。
「里、ちょっといいか?」
突然、屋敷の入り口からよく覚えのある声が聞こえた。
「兄上……?」
穏やかな表情ではなかった。少し苛々しているらしい。重い話でも持ってきたのもしれない。
「離縁、でございますか?」
今すぐ離縁しろという兄の言葉は、里にとってはまさに青天の霹靂だった。
「そうだ」
「それは」
何故でございましょう、と里は兄に訊ねた。
兄の言葉は亡き父の言葉。そう思って聞いてきた里も、此度の話は流石に素直に受け入れがたい。
「何故ってお前、そんなの決まっているではないか」
兄は憮然として答えた。よく思い出してみろ、というのである。
「あいつのやっていることと言えば、一日中花とにらめっこときた。おまけに『何故そんなことをする?』と尋ねたら『義兄上は嗜みが分かっておりませぬ』と逆に説教までしおって。あんなやつ、武士の風上にも置けぬ。しいては我が家の恥にもなる」
だから離縁せい、と言うらしい。
「はぁ……」
実は説教されたのを根にもっているのでは、と里は思った。
もっとも兄の言ってることは、間違ってはいない。夫はどこか町人のような趣味があるのか、武士の嗜みとは言えない生け花や川柳、更にはどこから入手したのか洒落本の類いまで好んでいる。刀を振るっているところを、里は見たことがなかった。
だが、それのどこが悪いというのか。
「人によって趣向が違うのは当然でございましょう?」
それは自分でも思わずはっとするような、強い口調だった。兄も少し驚いたようだったが、すぐに平静に戻った。
「お前は何もわかってないのだ」
兄は溜め息をついた。曰く、武士たるものは常に心持ちは戦場にあらねばならないのだという。武芸に励み、城に出仕してお役を授かり、そして『いざ』となれば殿のために死ぬ。
「それが武士の美徳だ」
「…………」
里は黙った。繰り返すが、兄の言うことは間違ってはない。理想ではある。だがやや古いかな、と里は思った。太平のこの時代に、常にその心持ちの人が果たしてどれほどいるのだろう。
もっとも、夫に限ってはやや間が抜けすぎているようにも思えるが。
「ところで今日に限っていないが、奴は何処行ったのだ? 務めか?」
「さあ。里にはさっぱり」
「……里、お前は妻で間違いないのだな?」
「はい、恐らくは」
「大切にされているのか?」
「さぁ、そこはなんとも」
「だったら尚のことではないのか。幸い、お前のことなら娶りたいという男もおろう」
相手なら兄が探してやる、とまで言う。実のところ、もしかしたら既に話があるのかもしれない。
とはいえ、やはり離縁とは繋がらない。今はこの家の妻として、守る立場もある。
だから、続く言葉はこうだ。
「里は嫌でございます」
ぴしゃりと言った。
「わからぬ妹だな……。だいたい、奴をどうしてそこまで庇う?」
「はて、どうしてもと言われましても」
何故だろう、と里は自問する。妻だからだろうか?
夫との縁談は父が決めたものだった。別段珍しいことでもないが、祝言を挙げる当日まで夫の顔すら知らなかったのだ。
そして、一年が経つ。
里は未だに夫をよく知らない。それは妻としてどうなんだろう、とも思う。
「でも、嫌なものは嫌なのです」
兄は頭を抱えた後、大きく溜め息を吐いた。なんと物わかりの悪い妹なんだ……とでも思っているのだろうか。だが、里が一度言ったら覆さないのは、恐らくこの兄が一番よく知っている。
「……とにかく、里からも行いを改めるよう言ってくれ。俺の言うことはどうも聞く気がないらしい」
けしからんことだ、と兄は席を立った。妥協案、という形なのだろうか。
城でこの家について何か言われたのかもしれないし、或いは噂されているのかもしれない。それはそれで気の毒な話ではある。
「それにしても、旦那様はどこ行ったのでしょうか」
†
その日の夜は、昼とはうって変って風が刺すように痛かった。
月は雲隠れになり、辺りは暗い。遠くから獣の鳴き声が聞こえてくる。
その夜道を一人、男が歩いていた。男は紺色の衣装に身を包み、笠を深く被っていた。一見すると、旅の僧にも見える。
男は街外れのとある民家を目指していた。
今宵、この家は賭場となる。
もっとも、ただの賭博ならば藩は黙認している。強い統制を加えると不満が噴出する恐れがあるし、何より取り締まるとキリがない。
(ただの賭博なら、な)
今宵は違う。その筋に依ると、人を賭けるのだという。それも村から攫ってきたという若い女性らしい。もちろん重罪だ。これに関しては、流石に上の方々の逆鱗に触れた様子である。
男が受けた密命は、その首謀者を悉く斬れというものだった。
捕えろ、ではなく斬れという。本来、芋づる形式で捕まえていく方がいい。だが今回は、斬れという。首謀している人間は手練れなので、恐らく捕らえるのは無理だろう、だから斬れ、ということであった。やや引っ掛かるものはあるが、考えないでおいた。
(ここか)
何の変哲もない、小さな民家だった。中からはわずかに明かりが漏れている。
その庭先に、一つ、小さな紫陽花が咲いていた。
(これは珍しい)
時期には、まだわずかばかり早い。だが今は、花に心を開いてる場合ではない。男は腰の太刀に手をかけると、鯉口を切った。
(皮肉なものだ)
自分は夜道を歩く男だ。その男が、同じく夜道を歩く人間を斬り、断罪するというのである。自分が最期を迎える時も、これに似てるかもしれない。
男は耳をそばだてる。確かに、声は複数あった。そしてその中に、若い女の声も混ざっている。
(里……)
ふと、妻の顔が浮かんだ。もちろん、声の主は里ではない。
再度、庭先の紫陽花へと目を向けた。やや季節外れの紫陽花だ。里は珍しがるだろうか。
(まあ、いい)
家の中から聞こえる声は四つ。
男は民家の戸を静かに破った。
†
翌朝、目を覚ました里は、自分の枕元に活けられた紫陽花が置かれているのに気が付いた。どうやら、少し気の早い紫陽花らしい。
「これは?」
「俺がやった」
不意に、隣から声がした。紛れもなく夫の声である。いつの間にか帰っていたらしい。
「旦那様が?」
夫は里の横で刀の手入れをしていた。
そこで里は、夫の肩に包帯が巻かれているのに気が付く。包帯の下にはわずかながらも血が滲んでいた。
「旦那様、それは……?」
「犬にかまれた」
「犬に? 野犬なんてこの辺にいたかしら」
里は何となく違和感を覚えたが、これ以上詮索するのはよくないと思いとどまる。夫がそう言ったからには、それが真実なのだ。
「起こしてくれれば、里が手当しましたのに」
「それには及ばん」
「それで、この紫陽花は?」
「くれてやる」
「私に?」
「失敗した、お前にやる」
里は紫陽花をッじっと見つめる。夫が花を活けるのを、横でずっと見ていた。多少の心得くらいはわかる。とても失敗したものとは思えなかった。
そもそも、活け花は部屋を飾るものだ。失敗したからくれてやる、というのはおかしい。
(相変わらず変な人)
普通に渡してくれればいいのにと、里は思わず苦笑いを浮かべる。だが、悪い気はしない。むしろ、安心感すら覚える。
「ではこの失敗した紫陽花は、里が有り難くいただいておきます」
里は布団から抜けると、紫陽花を手にとり部屋の床の間へと置いた。
「しかして、旦那様。枕元に花を置くのは少々。私は死人じゃありませぬ」
「……すまん」
花は活けた者の心を顕すという。
この紫陽花は穏やかに佇んでいた。
紫陽花は穏やかに 神結 @kamiyuitan
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