悲しみの故郷

寒夜 かおる

悲しみの故郷

 坊主を始末してからというものの、爺ちゃんの様子はおかしい。

 子どものように笑って、でも時折悟った顔をする。そして遂に彼は家から飛び出した。


「帰る」


 爺ちゃんの帰る場所はこの家しかないのに。

 でも確かにそう言って森の中へと消えて行った。


「爺ちゃん! 駄目だ! 逃げたら殺される!」


 いつも爺ちゃんが結ってくれていた三つ編みも自分で結えるようになって大分経つ。それでも俺は爺ちゃんの脚に敵わない。

 アカマツの木々の間を音も無く駆ける爺ちゃんを、俺は全ての感覚を以ってして追っていた。懸命に彼の足跡を追う。以前の彼なら絶対に有り得ない失態が僅かに残っている。きっと彼の翼はもう折れかけているのだろう。追いかけながら俺は泣いていた。


「どんなに悲惨な任務でも、お陰で飯には困らなかっただろう!? 生きていくために誰しもが何かに耐えているって……! 爺ちゃんが言ったんだ! 爺ちゃんが!!」


 哀れな嘆声を無様に響かせる。爺ちゃんに行かないでほしいだけなのに、口から溢れるのは彼を苛む言葉ばかりだ。

 拾われてから十数年間。それだけの期間を爺ちゃんとふたりで生きてきた。爺ちゃんはいつも俺の手本だった。生き方の見本だ。どんなに酷い仕事でも爺ちゃんと一緒なら全部を胃の中に流し込めた。


「爺ちゃんッ……頼む、頼むからッ」


 まだ幼かった頃、よく爺ちゃんが俺の手を洗ってくれた。固まると取りにくいからと血に濡れた掌を温い湯で清めてくれたのだ。

 負ぶわれた背の高さで眺める季節の移ろい、不器用な子守唄。全てが俺にとっての故郷と言える。

 忍は脚が命だからと、爺ちゃんがこしらえてくれた草履が悲鳴をあげている。過去のどんな任務よりも過酷な狩りだ。老いた獲物を落涙らくるいの我が身が追っている。心のどこかで捕まらないでくれと願いながら。


「俺が『フクロウ』を継ぐからッ……」


 だから、と零した先には白髪の老人が居た。

 切り株が転がる拓けた空間。昼ならば木々の隙間から木漏れ日が届いたであろう暖かな場所だ。

 しかし今この瞬間ばかりは月が覗く。

 星が見る。『フクロウ』の行く末を。

 爺ちゃんは決して恵まれた体格ではないが、佇まいには禅心に満ちた風格が備わっている。堂々としているのだ。針葉樹の葉がざあざあと煩わしい中、俺は唐突に歩みを止めた爺ちゃんに歩み寄った。近づけば飛び立つ鳥のように今の爺ちゃんは脆い。だからわざと足音を立てて慎重に、少しずつ。

 一子相伝の秘術を武器に、主に仕え民草を守る仕事を爺ちゃんは誇りに思っていた。それと同時に俺に背負わせるのはまだ早いとも。しかし爺ちゃんには最早『フクロウ』という誇りを背負う気力が無いように思われた。だからこそ俺が爺ちゃんを解放してやらなければならない。『フクロウ』のまま逃げ去ることは主への反旗に等しい。草の根を分けてでも探し出し、始末されるだろう。


「俺に『フクロウ』を継がせてくれ」


 駄目だ。

 何千と言われてきた台詞が頭で反芻される。未熟という言葉の裏側に心配という文字がくっついて、毎回駄目だと言われた。今回もまたスズメには早いと髪を撫でられて終わるのだろうか。

 まだ決心の付いていない瞳を悟られまいと、地面と向かい合いながら俺は爺ちゃんに懇願した。


「あれぇ……兄様あにさま、こんなとこにおったんかぁ」

「……え?」


 返ってきたのは意外な台詞で、俺は弾かれるように顔をあげた。

 視線の先の爺ちゃんは、森に包まれながら微笑んでいた。月明かりが頬の皺一本一本を刻んで、白い髪はもっと白く輝き、粉がふいた肌を惜しげもなく風に撫でさせている。その雰囲気はまるで年下の少年だった。


「流石兄様。兄様はスズメのことなどお見通しだぁ」

「爺ちゃん……爺ちゃん……?」

「今宵の火起こしはスズメがやりましょう」

「爺ちゃん?」


 物静かで精悍な爺ちゃんが、無邪気にコロコロと笑い俺の手を取る。手首を引かれ、家路を急かされた。


「やああ、兄様。やけに御髪が乱れてるなあ」

「……爺ちゃ、」

「それにしても兄様はスズメの平たい顔と違って本当に色男だねぇ。スズメもいつか『フクロウ』になれるのかねぇ」

「…………フクロウだって、平たいじゃあないか」


 戯れに言葉を返してみる。

 無慈悲にも会話は続いた。


「……ああ! 本当のフクロウかぁ! そうだなぁ。フクロウじゃなくて兄様にはワシが似合ってらぁなぁ」

「……ぅ、……ひっく」

「兄様?」


 人生で一番の大粒の涙が足元を汚した。スズメに戻った爺ちゃんの手を振り解く。空いた手は溢れる涙を拭うために使った。

 止めどなく溢れるこの気持ちは、忍には必要ないと爺ちゃんに何度も叱られたものだ。そんなことは分かってる。無慈悲に、冷酷に。爺ちゃんが言ったんだ。じゃあどうして爺ちゃんがその元凶になりやがる。

 差し出される手を全て拒んで、あんなに追いかけていた彼から後ずさりし、両目を覆って駄々をこねる。


「兄様? どこか具合が悪いのですか?」

「……こんな、こんなことってあるかよ」

「スズメの悪戯に怒ってるのですか?」

「……なんだよ、アンタだってクソガキだったんじゃねぇか」

「兄様。泣いてばかりではいけないとスズメによく言うではありませんか!」

「クソジジイ、クソジジイめ……!」


 俺は爺ちゃんを力強く抱きしめた。

 雨が降っていないのに雨の匂いがする。もうそこには居ないんじゃないかと疑う程にか弱い身体だ。無精髭が俺の頬を撫でる。いつのまにか爺ちゃんよりも俺は大きくなっていた。

 腕の中で爺ちゃんは身動きはせず、大人しく俺の言葉を待っているようだった。俺はというと初めて抱きしめた爺ちゃんの身体をもう二度と離さなくて済む方法を必死で探している。

 俺が『フクロウ』として生きて、爺ちゃんは家で俺の帰りを待っていればいい。俺が爺ちゃんという故郷に帰ってくるためには爺ちゃんが必要なんだ。


(じゃあ、爺ちゃんは?)


 ふと過ぎる良くない気付き。

 帰る、と言った。彼は。家を出る時。


(……ああ、そうか)


 俺は爺ちゃんの身体をゆっくりと解放する。未練がましく最後まで肩に手を置いてみたが、それもやめた。爺ちゃんから距離を取る時、何だか目眩がした。自分が今、地面に立てていることが奇跡のように感じる。正面から俺の故郷を見据える。


(爺ちゃんにとっての故郷は『フクロウ』なんだ)


 スズメと呼ばれた過去。『フクロウ』と共に育った厳しくも幸せな生活。おそらく一番の想い出に、爺ちゃんは帰りたいのだ。

 もし彼を家に連れ帰っても、もう俺の故郷はそこにはない。爺ちゃんが選んだ帰る場所は俺のそばではなく、先代の『フクロウ』との懐かしい日々なのだから。


 ならば、選択肢はひとつだけだ。

 悲しいことに、ひとつだけだ。


「スズメが……」

「?」


 吐息だけの疑問が投げかけられる。俺は震える声を隠そうとはせず言葉を続けた。言ってしまえば俺の故郷は失われる。けれども言わなければ爺ちゃんは故郷には帰れない。

 長く険しく辛い道のりだった。俺が通りやすくなるように、獣しか通れない道を人の道にしてくれた爺ちゃん。どれほどの苦痛が彼を襲っていたのだろうか。俺はこれからそれを知るのだろうが、その未来に脚が震える。しっかりしろと俺は自分を奮い立たせた。『フクロウ』から解放して初めて、爺ちゃんは正しく故郷に帰れるのだから。


「スズメが俺の大切な巻物を取ってしまったじゃないか。悪戯はここまで。さあ、返しなさい」


 自分でも驚くほど穏やかにモノが言えた。我々が立つ大地のように泰然と、厳かに。俺の台詞を森が讃えるかのように風が吹いた。長い三つ編みを揺らす。爺ちゃんの短いまつ毛が光って見えた。

 

「そうか……そうだったなあ」


 爺ちゃんは一度ゆっくり瞬きをして、それから俺に拳を突き出してきた。拳の下に掌を差し出す。人差し指程度の小さく汚れた巻物が落ちてきた。こんな小さなものに俺たちは命を懸け誇りを感じているのだ。俺は巻物を痛いくらい握りしめる。

 爺ちゃんから『フクロウ』を切り離す最大の切り札。それすらも『フクロウ』だった。なんて悲しい人生。しかしそれももう終わりだ。

 爺ちゃん、さようなら。籠から出る時だ。


「……スズメ、俺と遊ぼうか」

「え、いいのですか?」

「いいよ。いつもいつも、いっつも……頑張っていたから」

「わあ、今日は良い夜だ! 何をなさいますか?」

「鬼ごっこはどうだろう?」

「ええ、ええ!」


 スズメはくるりとその場で回り、自分が逃げる方でいいのかと無邪気に問うてくるので肯定した。

 スズメは助走をつける。何度も『フクロウ』を振り返りながら。


「何処まで行ってもいい……! 何処までも、何処までも!」


 掠れた声で叫ぶと、スズメは笑顔で頷いた。

 もう、見ていられなかった。

 上空からほうほうと鳴く鳥が、ニセモノの鳥を見つめている。鳥の名を貰ったくせに、一切自由になれない人の身を。

 老いた少年の背中が見えなくなった頃、俺は膝を地に着き、空に向かって請い願った。


「追ってくれ……! あんたの仲間だ! ずっとずっと『フクロウ』として生きた立派なこの地の守り神だ……!」


 ほうほう、ほうほう。


「俺の足には鎖があるけれど、あんたなら何処までも行けるだろう!?」


 俺は掌の巻物を空に掲げる。馬鹿らしい。相手は鳥だ。分かっているはずなのに、祈ることを止められない。


「俺の爺ちゃんなんだ! 大事な、大事な……! 頼む、頼みます……」


 ほうほう、ほうほう。

 バサリという音も無く。しかし俺ははっきりとその影が遠くへ飛んで行くのを見た。


「……最後に……爺ちゃんと喋ったのっていつだっけか」


 流れる涙は塩辛く、ひとりの声は木霊が聞いた。歯を食いしばれども声をかけてくれる人はいない。今日から俺は『フクロウ』としてひとりで生きていくのだから。


 遠くで不思議な声がする。

 大きくなったなぁ、と囁いているような気がして、俺はまた泣いた。

 

 願わくば彼が故郷へ飛んで行けますように。

 幸福な故郷へとずっと還れますように。

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