目薬
薄里 理杜
第1話
会社でいつも隣に座っている、俺から上司の信用と仕事を奪っていく女が席を立つ。
俺の毎日が地獄だった。あの女が評価の光を浴びる度、俺はその深い陰の中で、憎しみと共に隠れて持っていた自分のペンを折ってきた。
女はこちらのことなど気にも留めない。会話などもろくにしたこともない。殿上人とやらは下々に話し掛けることなどありもしないのだ。
だが、その女が消えた時。俺の目にあいつが使っている【目薬】の容器が目に入った。
このメーカーだったのか。自分も知っている、有名製薬会社のものだ。
隣に座るあの女はこの目薬をさしながら、ろくに業績も上げられないでいる俺を、虫ケラを見るような眼で見ていやがった。本当に話もしない。する価値がないとでも思っているのだろう。
何度、その目を潰してやりたいと思ったことか。
「……」
しかし、今──今ならば、それが叶うのではないか。
この目薬をこっそり頂戴して、中身をエタノールに入れ替えて、何気ない様子で相手に返す。
そして、それをさしたあの女は……
思わず笑いがこみ上げた。
そうすれば、あの女の眼は『こちらを見てきた目に相応しい』ものになる。
どうして笑わずにいられよう。むしろ、笑いを堪えるのが大変に感じられる程だ。
日頃の【あてつけ】としては相応しい──否、これはあてつけなどという、浅ましいものなどではない。
これは、俺をあの高い所から人を見下す、愚かな女への鉄槌だ。この昂揚とした気分では、もはや粛正と呼んだ方が何よりも相応しいくらいだろう。
俺はさっそく、置いてあった目薬の容器を周囲に気付かれないように手に入れて、女が目薬を探しているのを後目に【家】まで持ち帰った。
途中、薬局に寄り購入したエタノールが、まるで神秘性を帯びた、人生すら変える魔法の薬のようにすら思われた。
薬品を入れ換える作業は、女の失墜を思えば、まるでこれからの世界を輝かせる為の、淫蕩の気配すら漂わせる恍惚を含んだ儀式にすら感じられた。
ああ、明日が楽しみだ。明日はきっと俺にとって、人生の新しいバースディになるに違いない。
「あ……ありがとうございます」
今日は花粉が酷い日か、会社員の殆どが目を擦り鼻をかんでいた。俺も、我慢こそしているが、眼がかゆくて仕方が無い。
落としていたのを見付けたと、そう告げて、中身をエタノールに変えた目薬の容器を相手に手渡した。
女は、渡した目薬を何も疑わずに受け取った。これこそまさに【思う壷】だ。
この状況ならば、この女は間違いなく目薬をさすに違いない。
待ち焦がれたこの機会だ。本来ならば、己もこれから起こる喜劇への楽しみを堪えるところに違いない。
だが、その期待が僅かに霞む程に花粉症の影響は酷く、俺もどうしようもなく眼がかゆく、貪るように目を擦り続けていた。
すると、目薬を開けようとした女が──初めて、こちらに向き合うように口を開いた。
「あの……花粉です、よね?
良かったら、使って下さい。これアレルギー用の目薬ですから、きっと効くと思うんです……」
俺は我が耳を疑った。
俺はその言葉を疑った。
擦りすぎて霞む眼で、女を見た。
俺が初めて、正面を向かい合って目にした女の顔は、本当に、嘘のように『こちらを心配している』相貌だった。
脳裏に思い出す。そう言えば昔、昼食の時間に他の女どもが言っていなかったか?
『彼女は、仕事も出来て、凄く良いひとなのに、口下手らしい』
そんなもの、心に残るはずがないだろう。
何もかも山程おかした『俺のミス』をダシに、上司につけいった女なんて──
しかし……それは。
単純に、俺がミスしなければ良かっただけのことではないか?
そうすれば、彼女は上司の指示で、自分の隣の席に来ることもなかった。
自分がヘマさえしなければ、彼女の出番はそもそもなかった。
しかも、彼女は俺の尻拭いをしに来ていたのだ。そんな奴などとは、普通の人間であろうと、仕事中に雑談なんかする気もないのではないか。
【ナンセンス】だ! 悪いのは、一人勝手に妬んで勝手に憎んでいた俺一人じゃないか!
「あ……すみません……余計な、お世話でしたね……
ひとの、目薬なんて、使いたくないでしょうし」
彼女が、目に見えて落ち込むのが分かった。
このままでは、彼女があの目薬を使ってしまう。
あの、劇薬しか入っていない目薬を、彼女が。
「いや! せっかくだし、お借りするよ! ありがとう」
何を、何を言っているんだ俺は。
馬鹿げている! 万が一、こんな物を目にさしたらどうなるか!
彼女から、奪うように目薬を借りた。
その蓋を開けた時に見た彼女の顔は、一瞬の驚きから、見たこともない無垢な安心と、こちらの許容に対する温かな喜びがあった。
愚かしさ極まりない。全部、馬鹿げていたのは俺だったのだ!
俺は、今初めて目にする事のできた彼女の微笑みを、強く脳裏に焼き付けた。
そして、恥を含めた脳を全て塗り潰したい衝動に任せ、もう世界の全てから逃げ出すように、天井に顔を向けて容器から落ちる一滴をこの眼球に受け止めた。
全ては。
今までずっと、この呪いのように見えていたものに、相応しい目になる為に。
目薬 薄里 理杜 @koyoi-uta
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