愛なき世界
あば あばば
愛なき世界
遠くでなにかがとどろいた。
横たわった少女は薄目を開けて、暗闇を見る。何もない。耳をすます。肌のすぐそばで、壁がふるえている。嵐が通りすぎてゆく……誰も見たことのないような、大きな、大きな嵐が。
めざめきらない体のうちで、少女は胸が高く鳴るのを感じた。不安と恐怖におののきながら、つま先から体の中心に向かって這い上って来る震えは、この大きな喪失に、ざわざわと喜んでいるようでもあった。自分でさえ知らなかった深いところで、この巨大な嵐を、彼女は待ち受けていたのだ。
やがて静寂がやってくると、少女はふたたび深い眠りに落ちていった。もう、心配事はなにもない。恐れることは何もない。傷つける人は誰もいない。思い悩むことも、夢みることも、何もかも……
「……ニナ」
かすかな声。
死人のように動かなかった少女の体が、ぴくりと動いた。
「ニナ。まだおねむかい」
少女の背が弓なりに跳ねて、空気が肺に流れ込む。意識が戻ると同時に、強烈な寒気と吐き気がおそう。だが、跳ね起きて嘔吐しようにも、まだ体がめざめていない。腕も足も、鉛のように重い。
「ニナ……」
少女の唇に何かが触れた。貼りついた睫毛の隙間から、うっすらと誰かの瞳が見える。赤色……それから何度も深呼吸を繰り返し、少女はゆっくりと硬い寝床から起き上がった。
「う……」
喉が渇いて、それ以上の声は出なかった。その姿を、一人の女がじっと見ていた。短い、灰色の髪。青ざめた肌。赤い瞳だけが強く輝いている。
「ニナ。耳は聞こえる? 私の声、聞こえているね?」
ニナという名前にさえ確信が持てないまま、少女はうなづいた。彼女にはまだ、ここがどこなのか、自分が何者なのか、全てがまっしろに記憶から消え失せていた。
「よかった。水をお飲み。ほら」
差し出された白い陶器のカップを、ニナは落とさないよう両手で抱え込んだ。自分のすべてが不確かだった。ゆっくり水に口をつけると、少しずつ、染み渡っていく水分が、彼女を確かにしていった。
「あ……ありがとう」
舌がちゃんと動くのを確認しながら、ニナはぽつりと言った。隣の女はほっとしたように笑って、首をぐるりめぐらせた。
「言語中枢が無事でよかった。おまえは本当に長いこと眠っていたんだよ、ニナ。私はずっとおまえを探してた。ようやく見つけたのが二年前。それから、無事に目覚めさせられるまで随分かかった」
女の言葉を通じて、どっと流れ込んでくる情報にくらっとニナの頭がゆれた。空白になっていた記憶に、ぽつぽつと絵が浮かび上がってゆく。ニナの脳は、「自分が彼女の言っていることを理解している」ということを、ちょっとずつ認知していかなくてはいけなかった。
「わたし、眠って……二年? ここ……ああ、あああ……」
うっぷ、と水を吐き出しそうになる。女はニナの背中をさする。
「ごめん、急すぎたね。今はおやすみ。また起こしてあげる。明日の朝にね」
そう言って、女はニナを再び冷たい寝床に寝かせた。それから思い出したように、うしろからやわらかなクッションを取り出して、ニナと寝床の間に差し入れた。頭上のカバーが閉められようとした時、ニナはふと思いついて彼女に呼びかけた。
「待って、あなた……名前……」
「……ヘザー。一応ね。でも好きな名で呼んだらいいよ。どうせ二人きりだもの」
女はやさしく笑って言うと、パタンとカバーを閉めた。その奇妙な答えの意味を考える間もなく、ニナの意識は、急速に遠ざかっていった。
次の朝は、もっとおだやかだった。
最初にニナは、コーヒーの匂いを感じた。好きな匂い。朝の匂い。そして朝日を感じた。まぶたを透き通ってくる、熱い光。朝そのもの。
「ん……おは……よう」
ニナのつぶやきを聞きつけて、ヘザーがすぐに駆け寄ってきた。
「おはよ。朝食ができてるよ。大したものじゃないけど」
差し出された手を、ニナはおずおずと握った。皮膚は温かかった。ぐいと引き起こされて、ふらついたニナをヘザーは抱きとめた。そして困惑するニナをそのまま持ち上げて、地面にしゃんと立たせてやった。
「どう、人間らしい気分?」
ニナはしばらく問いには答えずに、自分と周囲の様子を交互に見やった。体はまだふらついたけれど、昨日のような吐き気はない。自分の手、自分の足。細いが、血色はいい。体には、見慣れない白い薄手のボディスーツみたいなものを着ている。
そして、この部屋……洞窟か、ガレージのような場所だった。半ば機械で、半ば石壁。洞窟の中にガレージを作ったのかもしれない。大きく一面が外へ開いていて、そこから日が差している。
見下ろすと、今まで自分が寝ていたカプセル状の寝床がある。見覚えは……ない。けれど、つやつやしていて綺麗だった。
「で……どう?」
怪訝な顔で問い直すヘザーに、ニナは改めてうなづいた。
「はい。元気、みたいです。ありがとう、ヘザーさん」
「呼び捨てでいいよ。さ、お食べよ。私はもう、食べてしまったから」
軽やかに歩いていくヘザーについて、ニナは外へ歩きでた。飛び込んできた景色に、ぐっと息を飲む。見えるのは、一面の、赤い岩。黄色い砂。その二つのほかは、何もない。草ひとつも。漠然とその意味を考えながら、ニナはそばに置かれた白い木製の椅子に座った。隣には同じ色のテーブル。その上には、布のかかった皿。コーヒーカップ。日よけの大きな傘の下。まるでバカンスのように。
「砂がかからないようにね。こうして覆っておくんだよ。今は凪いでいるけど、急に風が吹くから……」
ヘザーはコーヒーサーバを傾けて、黒い液体をカップに注いだ。嗅覚が、ニナの胃袋を刺激して、ぐうと腹を鳴らした。
「ハハ、食べながら、少し話そうか。聞きたいこと、色々あるだろう」
ヘザーが皿の覆いをとると、下にはサンドウィッチが置かれていた。パン。レタス。ハム。チーズ。パン。お手本のようなサンドウィッチ。ニナは深呼吸して、それにかぶりつく。そっけない味だけれど、空腹のおかげで美味しく感じた。
「それで、ニナ。どこまで、思い出せた? 自分がどうしてここにいるか、なんとなく想像つく?」
ニナは食べる手を止めて、ヘザーを見返した。昨日と同じ、不思議な赤い瞳。青ざめた白い肌の女。年頃はニナより五つは上だろうか。灰色の髪と似た色の、作業着みたいなものを着ている。
「わたし……シェルターにいたわ。戦争が始まって……お父さんに連れられて。それから……そう、何かあって、眠ったの……? どうしてだったか……」
とりとめないニナの言葉がゆきづまると、ヘザーが先をつづけた。
「冷凍睡眠だよ。ニナ、おまえは逃がされたんだ。あのポッドに入れられて……ずっとずっと前にね」
ニナはその言葉を反芻しながら、ゆっくり自分に起きたことを再確認していった。
十六歳の誕生日。父親と母親がいた。それから、戦争が起きた。母親がいなくなった。みんなで、シェルターに逃げ込んだ。それからまた新しい戦争が起きて、今度はベッドに寝かされた。注射を打たれて、父親が泣いていて……そこで記憶が途切れていた。
ニナは食欲がなくなった。彼女はサンドウィッチに布をかけ直した。
「それじゃ……皆は死んだの? ほかのシェルターは?」
「私の知っている限りでは、もうどこにも、何もないよ。だってね、おまえ。もう五十年過ぎたんだよ」
その数字に、ニナは実感がわかなかった。ぽかんとするニナを見て、ヘザーはくすくす笑った。
「長い、長いよね。私が起きたのはほんの五年前だけれど。自然に起きられたのは運が良かったよ。それからいくつも同じポッドを見た。みんな、形も残っていなかった。ばらばらか、どろどろか、そんなものさ」
ヘザーはまだうっすら笑っていた。ニナの顔がこわばるのを見て、ようやく笑うのをやめた。
「私はぽつんと残ったこのガレージを見つけて、直せるところは直して、それからずっとここで暮らしてた。誰か生きてる人が、助けに来るのを待って……誰もこなかった。それから、中身の生きてる冷凍ポッドを探した……だから、ニナ。おまえを見つけた時は本当に嬉しかったんだよ」
ヘザーはそっと手を伸ばして、ニナの両手にかぶせた。その温度を、確かめているようだった。人間の実感を。
しばらくそうしてから、ヘザーはふーっと長い息を吐いた。
「さあ、コーヒーをお飲みよ。ちょっと、落ち着かなきゃね。ここでの暮らしも悪くはないよ。何より、二人いるのだからね。一人より、ずっといい」
立ち上がるヘザー。太陽を背に受けて、微笑むヘザーの姿を見上げるうちに、ニナも小さく笑った。コーヒーはとても苦く、飲めたものではなかった。
日が陰ると、二人は一枚の毛布を分けあって、ガレージの中に寄り添って座った。ニナはまだ走り回るような感じでもなく、一日ずっと座っていたのだけれど。ヘザーはちょくちょく出かけては、遠くで何か探しているようだった。
「砂しかないみたいに見えるだろう。でも、機械がそこかしこに埋まってるんだよ。兵隊たちだね。人間は朽ちても、彼らはずっと残ってる……まだ起きてるやつもいる。そういうのは、眠らせてやらなきゃいけない……ニナが殺されちゃ困るからね。起こすのに、あれだけ苦労したのに」
ヘザーのつぶやきは不穏だったけれど、ニナにはその声とリズムが心地よかった。まだ会って一日たらずのうちに、ニナは彼女にすっかり打ち解けていた。他に頼る相手もおらず、頑なになる理由もないけれど。
「どうやって起こしたの?」
「いろんな資料をかき集めて、マニュアル読んで。それから設備を整えて、プログラムを組んで、ゆっくり温めていったわけ。長い仕事だった。でも、甲斐はあったね」
そう言うと、ヘザーは隣に座るニナの瞳をじっと見つめた。
「こうして今、綺麗な女の子が隣にいる」
ニナは苦笑いして、視線を外に向けた。夜の空は、黒と紫色。宇宙をそのまま眺めているようだった。星が無数に見えた。綺麗だった。
「世界は滅んだと思う?」
ヘザーは答えなかった。長いため息をついて、ニナの頰に口づけた。それほど嬉しくはなかったが、ニナは微笑んだ。他にすることもない。他に誰もいない。
「ニナ、泣いているの」
泣いてはいなかった。けれど、とても眠かった。ヘザーはニナの頰に手を伸ばし、流れていない架空の涙を指でぬぐって、彼女の肩を抱いた。夜はとても静かだった。世界はとても静かだった。
何日か過ぎて、ニナはヘザーの探索に同行するようになった。
ほとんどは、砂に足を抜き差しして、脱いだ靴を振り回したりするだけだったけれど、ニナは終始笑っていた。子供のようにはしゃいで、躁状態のようにうかれていた。
「一体、何がそんなに楽しいんだか」
ヘザーでさえそう言った。彼女もまた笑っていたけれど。
「なんだかわくわくするの。もう怯えなくていいんだわ。もう、何も心配しなくていいの……」
ニナはくるくる回って、砂の上に倒れこんだ。助け起こそうとするヘザーの手を引っ張って、二人で一緒に転げて、まきあがる砂に咳き込みながら笑った。
「何をそんなに恐れていたの?」
ヘザーに言われて、地面に横たわったまま、ニナは遠い過去の不安を思い浮かべた。
生まれてからずっと、何かに追われている気分だった。これから戦争が始まると言われて。どこの国が攻めてくるとか。AIが戦争を起こすとか。そんな大きな不安もあれば、家庭の中での不安もあって。父親は酒ばかり飲んで、俺はもうおしまいだ、俺はもうおしまいだ、なんて言って、それを聞いた母親は今度こそ離婚する、今度こそ離婚する、と毎週のように言っていた。小さかったニナはそれを真に受けて、ずっと家庭が終わる日を、世界が壊れる日を震えて待ちながら暮らしていた。
壊れてしまえば、どれも些細なものだったかもしれない。ニナは父親の顔もあまり思い出せなかった。
「……結局、なんでもなかったんだわ」
ぽつりと空につぶやいて、ニナは隣のヘザーに目を向ける。
「ヘザーはどんな子供だったの?」
ふと思いついて言うと、ヘザーは顔をしかめた。
「そりゃもう、いい子だったよ。とびきりの優等生」
笑い出すニナ。ヘザーは不服そうに続ける。
「本当なんだよ。私ときたら、ずっと親の言いなりでね……でも、最後の日、どっちが私を連れていくかで両親が大喧嘩してるの見てたら、どうしても我慢できなくなって……『おまえら、ちょっと黙ってろよ』って言ってやったんだ。まともな人間がさ、世界が滅ぶかもしれないっていうのに、喧嘩なんてするかい? ……あれは、すっきりしたな。それで、さっさと二人を置いて一人で冷凍ポッドに入ったわけ」
ヘザーは身を起こして、荒地の遠くに目を向けた。
「私の両親も、ニナの両親も、この砂のどこかに埋まってるんだろう。ポッドが無事なら、生き返るかもしれない……」
そう聞いて、ニナはこの日初めて不快感をあらわした。
「埋めておけばいいよ。二人を、嫌ってたわけじゃないけど……このまま寝ていてほしい」
ニナは立ち上がって、遠くの岩場めざして歩き出した。日差しがまぶしくて、手のひらを日よけにしながら。
「私と二人きりでいたいから?」
ニナの後を追いながら、ヘザーがからかう。ニナは唇をゆがめて、変な顔をした。彼女は少し困惑していたのだ。この、年上の同居人が時どき見せる、アプローチともジョークともとれない、不確かな性的興味の表明に対して。
ニナ自身は、自分の性指向をだいぶ前から自覚していたけれど、こんな風にあけすけに近づいてくる少女は、彼女の周りにはいなかった。嫌な気はしないものの、二人きりの世界で、命綱とも言える関係を、自分の自意識過剰で崩してしまいたくはなかった。
「どう答えて欲しいのかわかんないわ、ヘザー。私まだ十六なのよ」
「十六は大人だろう。そんな歌もあったじゃない。私は十六、もうすぐ十七、そろそろ避妊薬が必要……」
「げぇっ」
わざとらしくオエッと舌を出して、ニナは砂を蹴飛ばした。やっぱり、ジョークだった。真に受けなくてよかった。
けれど、ニナにはもうわかっていた。遅かれ早かれ、自分は恋に落ちるだろう。何しろこの世界には自分と彼女の二人きりで、四六時中お互いを見ていなきゃならないし、それにこの女ときたら、顔つきといい、髪質といい、瞳の色、奥深さといい、手足の長さといい、ぶっきらぼうなしぐさといい、気取った喋り方といい、首の、傾げかたといい……何もかもがニナには魅力的にできていたのだから。
食事の係は、最初は二人で毎日交代していたのだけれど、そのうちニナが専門で執り行うことになった。ヘザーの味覚は、ニナからすると壊れているとしか言いようがなかったからだ。
とはいえ食事の制作は、ヘザーが受け持つ機械いじりと比べればずいぶん簡単だった。二人のガレージには、ヘザーがどこかの墜落したシップから拾い出したという小型の分子調理器があって、材料のペーストさえ用意すれば、あとはプリセットの設計図を選んで、味の度合いを微調整して、開始ボタンを押すだけ。
ペーストは、ヘザーに聞いたところでは二人で百年ぶんは備蓄があるということだった。メニューがサンドウィッチとパスタしかないのは問題だったが、戦時下のシェルター暮らしに比べれば贅沢三昧と言えた。
「同じ機械なのに、ニナが作ると美味しいのは不思議だな。何か、ズルしている?」
サンドウィッチをぱくつきながら、ヘザーが軽口を叩く。ニナは聞き流して、コーヒーメーカーに湯を流し込む。コーヒーについては、ペーストから粉を作った後、それを抽出するという二度手間をかけなければならない。色々試した後、結局それが効率の面でも味の面でも一番いいという結論に至った。
「ああ……おいしいコーヒーがあると、どこでも楽園のようだよ。分かるかな、この気持ち。すべての空虚の果てに、私はついに自分の魂の失われたひと欠けを手にいれたのだという……」
木椅子に座って足を組みながら、ヘザーは大仰に言った。本人も今まで、自分の淹れたコーヒーに満足はしていたわけではなかったらしい。
「……そんな大層なものじゃないよ」
そう呟いた途端、ヘザーの顔色がふっと変わった。ニナはただコーヒーを謙遜したつもりだったのだが、ヘザーはそれを別の意味にとらえたらしかった。
「ニナにとっては、ここは楽園じゃないの?」
ヘザーの声は不安げだった。それを聞いたニナも、不安になった。
「コーヒーの話でしょう? 私、べつに……」
「ごめん。失言だった。おまえは、べつにここに居たくて居るわけじゃないのにな」
拗ねたような言葉。けれど顔を覗き込むと、ヘザーは感情的というより何か考え込んでいる風で、ニナは声をかけられなかった。
何を言えばいいかもわからなかった。ニナにとって、この場所が、そしてヘザーがなんなのか、どう思っているのか、自分でもはっきりと言葉にできていなかった。不快な場所ではない。毎日は楽しい。でも、これを死ぬまでつづけていける? 十年、二十年……わからない。彼女の言う通り、自分で目覚めたくて目覚めたわけではないのだ。
ニナは自分に淹れたコーヒーに口をつける……苦い。
ときどき、雨の降る日がある。雨水はあまり体に良くないとヘザーが言うので、そんな日は二人でずっとガレージにこもった。
外に据え付けられた濾過機のぽつぽついう音を聴きながら、ニナはじっと雨を眺める。
どんよりと沈んでいく世界。人類なき今、このガレージこそが、今は世界そのものだ。ニナとヘザーが眠れば、世界も眠る。ニナとヘザーが死ねば……それっきり。世界は終わる。だけど、それはいつか確実に起きること。女ふたり、子孫もつくれない。たそがれの、閉じた世界。居心地のいい終末。
もしかすると子供の頃から、ずっとそんな予感はあったかもしれない。夕暮れ時の、誰もいない部屋とか。夜中にふっと目が覚めて、一人ぼっちで窓の外を見る時にも。冬の朝、空気があんまり透き通っていて、まるで誰かの嘘のように感じる時、つまり……ああ、これが世界の終わりなのかもしれない、と思う一瞬。
今までは、ただの予感だった。今は、終わりの中で生きている。握った自分の手を見つめ、それから開いた手を見つめる。自分自身の体が、かつてなく自分のものであると感じた。それは満ち足りたというより、孤独な感覚だった。
とつぜん、どうしようもなく、誰かの手を握りしめたくなった。果てしない穴がすぐそばに空いていて、なのに自分は砂の上にじっと座っている。何かをつかまないと、落ちてしまうのに、つかめるものは何もない。そんな焦燥だった。
ニナは周囲にヘザーの姿を探した。けれど、彼女は見当たらなかった。仕方なく立ち上がって、隣の部屋に行く。いない。ガレージに部屋は二つしかない。あとは、物置にしている地下のだだっ広い空間。
ニナは地下には入ったことがなかった。ちらりと見た限りでは、機械や得体の知れないゴミが積まれているばかりで、ニナの興味を引くものは何もないように見えたからだ。それに、広い空間はなんとなく虚ろで、怖ろしい。
しかし、今は行かざるを得なかった。湧き上がった寂しさは、ヘザーの存在を確かめたいという切実な思いに変わっていた。不安なのだ。彼女はニナの理想そのものだったから。目を閉じたら、すべての魔法が解けて、消えてしまうのではないかと、怯えずにいられない。特にこんな雨の日には。
「ヘザー?」
声をかけながら、階段を降りてゆく。地下の部屋は暗かったけれど、彼女はすぐそこにいた。
「ニナ、どうしたの。……青ざめて」
手に持ったライトをニナの方へ向けて、ヘザーはきょとんした顔を見せた。ニナはその光に導かれるように、彼女の方へ駆け寄って、そのまま胸元にぶつかっていった。
「わからないの。不安なの。うまく言えないけど……こうさせて欲しいの。少しだけでいいから」
ニナはそう言って、ヘザーの胴にぎゅっと手を回した。いっそ拒絶されてもよいと思った。どのみち、こんなに不安なままでは生きてゆけない。
ヘザーはニナの左手に自分の右手を重ねて笑った。
「少しだけでいいの?」
その挑戦するような微笑みを見た途端、ニナは自分の手がどこへゆくのか、考えて動かすのをやめた。それからニナがしたすべてのことに対して、ヘザーは拒絶しなかった。
次の朝、ヘザーは防水コートを羽織って外に出かけていった。ニナはそれを笑顔で見送ってから、自分はガレージの中に寝転がって、小さな板状の情報端末をいじっていた。ヘザーが暇つぶし用にと置いていったやつだ。
端末に大した機能はなかったものの、古今東西の映画や音楽、それと多少のジョークが言えた。どれも時代外れで、面白さは一つもつかめなかったけれど。少なくとも、誰かが――それが機械であれ、自分を楽しませようとしてくれることは、悪くないことに思えた。
ニナはその端末で、いくつかの詩を書いた。言葉はつたなかった。戦争続きで、ニナはたいした教育も受けられなかったから。でも、詩に対するあこがれはあった。今の気分は、まさにそんなあこがれを引きよせるのにうってつけのものだった。雨は上がり、誤解は解け、欲求は満たされ、不安は何もない。それでいて、退屈だけは少し残っている。
言葉で遊ぶのは楽しかった。それに飽きると、ニナはガレージの床の上で少し踊った。そのうち、ヘザーと踊る機会もあるだろう。ちょうどいい音楽でも探しておこうか、などと思いながら。
状況が変わったのは、日が沈んだ頃だった。ヘザーがなかなか帰ってこなかった。いつもは夕暮れ前に帰ってくるはずだったのに。ニナの心で、消えかけていた不安がまたふくらみはじめた。
それから夜が明けるまで、ニナは一睡もせずに地平線をにらんでいた。ヘザーは結局、帰ってこなかった。ニナは砂漠を見ながら、ずっと震えていた。見渡す限りの冷たい世界が、彼女に向かって押し寄せてくるようだった。
昼になって、ようやくヘザーが戻ってきた。最初は豆粒のようで、それから徐々に大きくなって、ぼんやり人の形が見えた頃には、ニナは駆け出していた。
そして、すぐに立ち止まった。ヘザーの影は、どこか奇妙だった。それは、確かにヘザーなのだけれど……彼女がよく知る彼女の姿には少し欠けているようだった。
「大丈夫だから。ニナ。心配しないで」
近づくなりそう言って、ヘザーはニナに笑いかけた。確かに、彼女の足取りは元気そうだった。彼女の顔も、いつもとなんら変わりはなかった。
ただ、ヘザーの腕には、右手がなかった。
「ヘザー……?」
目の前のことを、その通り受け取ることができずに、ニナは呆然と立ち尽くした。何が起きたのか。どう慰めればいいのか。ニナの頭は、まだ何も答えを作り出せなかった。
つい昨日、握りしめた右手。それは永久に失われ、もう彼女の記憶の中にしかない。
「今まで通りにしていてよ。私もそうするから」
ヘザーはニナの耳元にそう言って、横を通り過ぎていった。
彼女は自分で言った通り、今まで通りに過ごしていた。左手だけでも、不自由なく日々の作業をこなしているようだった。体調も、一日だけ横になっていたけれど、次の日はもう荒野を走り回っていた。
何が起きたか聞くと、どうやら砂漠に埋まった機械兵が一つまだ生きていて、その防衛装置に焼き切られたということだった。説明もそこそこに、止血も治療も自分で済ませたからと言って、傷口を見せもしなかった。ニナは血の一滴すら見なかったのだ。その気遣いは、かえってニナに疎外感を与えた。
「あなたのために何かしたいの。何でもするから……」
ヘザーは何も求めなかった。そもそも、彼女から何かを求めたことは、今まで一度もなかったのだ。ニナの心はまた、袋小路に戻りつつあった。
ある夜、二人で寄り添って眠る時、ふと目がさめたニナは、ヘザーの瞼が開いていて、赤い瞳が荒野の遠くを見ているのを見つけた。
ヘザーは心ここに在らずという風だった。彼女が何を見ているのか、失われた自分の手を探しているのか、それともただ、自分の心のありようを砂漠に映して眺めているのか、ニナにはわからなかった。
「……何を見てるの?」
声をかけると、ヘザーはゆっくりと顔をニナに向けた。一瞬、ニナはぎょっとした。彼女の瞳が、あまりにも虚ろだったからだ。まるで、ニナが声をかける瞬間まで死んでいたかのように。
「見張りをしてたよ。おまえのために」
そう言って微笑むヘザーの顔は、急速にふっと気色ばんで、普段の生気ある顔に戻っていった。その急な変化に、ニナはしばらくぽかんとしていた。けれどヘザー自身は、そんな変化があったことさえ気づいていないか、あるいは気づいていないように見せていた。
「ねえ、ヘザー。悩んでるなら言って。辛いならそう言って。お願いだから、そうやって全部隠して笑ったりなんかしないでよ」
懇願するように言うと、ヘザーは笑うのをやめた。けれど表情は優しいまま、苦悩のかけらも見せなかった。瞳の色はむしろ、ニナを哀れむようだった。聖母のようにこちらを見る瞳。傷ついたのは自分なのに、なぜ? ニナは甘さよりも不気味さを覚えた。
不安に耐えきれず、ニナが唇を近づけると、彼女はそれに応えたけれど、結局、ニナはその接触を少しも楽しめなかった。
少しずつ、少しずつ、ニナは言いようのない空々しさを感じ始めていた。それは、ヘザーの怪我に起因していたけれど、怪我そのものが理由ではない。本当は最初から、心のどこかで感じていたことなのだ。
ヘザーという女は、あまりにも謎めいていた。彼女は、ニナに対していつも世話を焼いてくれた。いつも優しかった。なぜ? 何年も孤独だったからだと彼女は言う。人恋しかったからだと。けれど、彼女はニナの前でその寂しさや切実な思いを見せたことはない。ただ、そう感じていると言葉で言うだけ……一度も、泣いたことはない。
いっそ下心のためなら、その方がよかったのだ。でも、ヘザーはニナを求めては来なかった。ただ、冗談まじりにほのめかして、ニナが来るのを待っている。まるで、恋などしていないように。だけど、ヘザーは愛していると言う……。
ある夜、とうとう二人は別の場所で眠った。ニナが一人で寝たいと言うと、ヘザーは笑って受け入れた。いつもそうだ。ヘザーは何も断らなかった。
暗闇で一人になったニナの胸には、重い疑念が生まれていた。
ヘザーは嘘をついている。それが何かはわからない。だが、彼女はニナが目覚めた最初の瞬間からずっと、何かを隠している。ニナははっきりそう思った。それ以外に、彼女の過剰な優しさを説明できないからだ。そう思うと、ヘザーの言動ひとつひとつが疑わしく思えた。
ここにいる理由、ここで起きたこと、今起きていること、すべてはヘザーという一人の女の言葉でしかない。ここは大陸のどこなのか? 本当に人類は滅びたのか? まったくの一人きりで、これだけの設備を整えて、荒野を生き延びてきたって?
ずっと真面目に考えようとはしてこなかった。信じている方が楽だったからだ。今は、疑うことの方が容易かった。右手を失った本当の理由は? 砂の下には何がいる? ニナはまだ、ヘザーの言う「機械兵」をその目で見たことはない。全部嘘かもしれない。ニナをこのガレージに閉じ込めておくための……。
目が冴えて眠れなかった。ニナは子供の頃の、避難シェルターでの夜を思い出していた。不安と疑念に苛まれた夜。すべての夜がそんな夜だった。
いつかシェルターを抜け出して、外へ散歩に出かけたいと思っていた。けれどシェルターの外に出れば、敵国の兵や無人の機械蜂に見つかって、瞬く間に穴だらけにされてしまうと教えられた。それに、核ミサイルが明日にも飛んでくるという噂も絶えなかった。こちらに落ちるのが先か、向こうに落とすのが先か……ヘザーの話通りなら、結局両方に落ちてきたようだけれど。
ニナはガレージの閉じられたシャッターを見つめた。その向こうにある、冷たくひらけた世界を思った。人類がみんな死んだと聞いたとき、不思議と身軽に思えたのは、それらの冷たい世界が、ついに自分のものになったと思えたからではないのか。なのに今、こんなに不自由で息苦しく感じている。このまま、同じ閉塞感の中で、ずっと生きていけるのか? それを望んでいるのか?
ニナはゆっくりと身を起こした。心臓がどくんと波打った。
シャッターは手で開けられる。残された障壁は、ヘザーの言葉と、ニナの心だけ。もし今、本当にニナが外へ出たいと思ったら――危険を承知の上で、それでも出ようとしたならば――誰も、止めるものはいないのだ。
決意した瞬間、ニナは毛布を床に残してすっと立ち、シャッターを軽く持ち上げて、その下を転がるように抜けていた。冷たい空気が頬に触れる。逃げ出さなければ。混乱から。不安から。自分を頑なにするものから。
ニナは軽い足取りで駆けた。裸足で冷たい砂に触れると、自然と足首が伸びやかになるようだった。散歩のつもりが、このままどこまでも歩いて行けそうだった。
それとも、いっそ……?
一瞬そんな気持ちが現れて、すぐに消えた。自分でそうありたいと思っているほど、ニナは孤独でいられる人間ではないのだ。ヘザーは優しくしてくれた。ヘザーはニナを生かしてくれた。彼女を放っていくことはできはなかった。
そのうち、ぽつんと砂の上に飛び出た赤い石を見つけた。ガレージからいつも眺めて、気に入っていた石だ。昼にヘザーと歩いたときは、足場が悪くて危ないからこの辺りには来るなと言われた。今、ニナはヘザーの気遣いを小さく裏切りながら、不思議と清々しい気持ちだった。
石に寄りかかると、まるであつらえたように、ニナの背中のカーヴにぴたりと合った。ニナは深呼吸した。空を見ると、一面に星が出ていた。美しかった。どうして今まで、幾晩もこの世界で過ごしながら、一度も空を眺めなかったのだろう? ガレージの中にこもって……そう、ヘザーを見ていたからだ。
ニナはヘザーの顔を思い浮かべた。今となっては、彼女が思い出せるただ一人の顔だった。目が覚めて何日経ったのか、数えてさえいない。まだひと月は経っていまい。その短い間に、ヘザーは彼女の世界のすべてになってしまった。
こうしてガレージの外から眺めてみると、それは小さな世界だった。ニナは微笑んで、その小ささをじっと眺めた。折れたアンテナ。布を被されたティーセット。終わらないバカンス。小さな楽園。
(私は彼女を愛してるんだ)
たとえ嘘をついていたとしても。
遠い宇宙を見るうちに、ニナはいつだったか、ヘザーがコーヒーに託して語ったことをようやく理解したような気がした。あまりにも大きな空虚の中に、ぽつんと残った残りかす。それはニナでもあり、ヘザーでもあった。
何度か深呼吸を繰り返して、気持ちが晴れたニナは、砂の上から立ち上がった。夜が明けたら、ヘザーに本当のことを聞かなければいけない。二人で生きていくために。
ガレージに向かって踏み出した瞬間、どこか近くで声がした。
『生体反応あり。認証コード読み取り……エラー』
あまりに突然のことで、ニナは何が起きているか理解できずに、ぽかんとその場に立ち尽くした。
『サブルーチン開始……成功。予備機能から最低レベルでの生体スキャンを行います。数秒間お待ちください……スキャン終了。対象の遺伝情報には理想モデルからの大きな逸脱が見られます』
つらつらと続く声は、足下から聞こえていた。ニナは徐々に焦りと恐怖を感じ始めた。誰の声なのか。何の声なのか。少なくとも、ヘザーの声ではない。
『あなたは同胞であることを証明できますか? 正しい国歌の斉唱を要求します。あるいは、認証コードを提示してください。二十秒の猶予を与えます』
そこで声は一旦、途切れた。抑揚のない機械音声の中に、冷たい敵意を感じた。ここにいてはいけない。逃げなければいけない。ようやく呪縛が解けたニナは少しずつ体を動かし、声から遠ざかるように後ずさりし始めた。
やがて、地響きがはじまった。岩の下から、何かが顔をのぞかせようとしている。ニナは走り出す。けれど、足下が揺れてうまく走れない。
「ニナ!」
遠くでヘザーの声がした。ずっと遠く。二十秒では届かない。
瞬間、光が見えた。赤い光が。
そして、遠くで何かがとどろいた。
雨の音――嵐の音だ。
それは雨ではなかった。肌を打つのは砂だった。舞い上げられた大量の砂が、ニナと世界に降っていた。爆発のとどろきはすでに遠く響くこだまとなり、ニナはいつのまにか、傷一つなく、砂の上で横になっていた。
『警告……致命的なエラー。重大な損傷。動力の供給がありません。本システムは間もなく停止します……永遠なる我らが総統と誉れ高き大公たちに栄えあれ!』
機械の声はそれきり止んだ。
ヘザーは? ニナは身を起こすものの、視界は砂の雨におおわれて、何も判別できない。
足下を見ると、砂が流れていた。足をとられそうな力強い流れ。その先には、穴が空いていた。ぽっかりと、巨大な穴が。削れた地面を埋めようと、大量の砂が流れ込んでいたのだ。穴の中に、火花を散らした機械の塊が沈んでいった。さっきの声の主にちがいない。砕けた岩もあった。ニナの、お気に入りの岩。
やがて穴は埋まり、流れの止んだ砂の上に、心もとない案山子が立っていた。
「……すっかり死んでいると思ったのに。ずっと、薄眼を開けて見ていたんだな。ニナには生体反応があるって、分かっていたのに……私の予測は楽観的すぎたというわけだ。全てにおいて……」
ヘザーの姿は、もう人間の原型をとどめてはいなかった。体の半分がえぐりとられ、内部の血管、内臓、ゴム質の管、電線、そのほかにも、機械とも生体ともつかない得体の知れない器官が静かに脈打っていた。
ニナは何も言葉が出なかった。
「ニナ。どうか落ち着いて。おまえは、大丈夫。私も、大丈夫。今まで通りやっていける。おまえが……あなたが、きみが、受け入れさえすれば」
ヘザーは体の破損など何も気に留めないように、つらつらと言葉を続けた。ニナは後じさりした。右手を失っても動じなかった女。何も求めない人間。当たり前のことだった。これは、人でも女でもなかったのだから。
「お願いがあるんだ。ニナ。私はもうすぐここに倒れてしまう。足が一本ないんだ。私の体を地下室に運んでほしい。そこで、何もかも伝えるから。本当のことを。償いをするから……お願い。ニナ。愛しい人」
ヘザーが初めて口にする、自分のための願い。だが、彼女が口にした愛という言葉は、ニナにはもう、今までと同じには響かなかった。それは耳触りがよいだけの、がらんどうの鈴の音だった。
ニナは、半分になったヘザーの体を、ゆっくりとガレージまで引きずっていった。抱えて歩くほどの気持ちはなかった。
爆発が起きた瞬間、ヘザーが自分の命を救ってくれたらしいことは分かっていた。そうしてヘザーが半身を失ったのは、自分の不用意な散歩のせいだと分かっていた。それでも、なお……ニナは彼女を、あるいはその物体を、許すことができなかった。
ヘザーの体は見た目通り軽くなっていたが、ニナの細腕にはまだ重かった。そのうち夜が明けて、日差しがニナたちの姿を照らし出した。白日のもとで見るヘザーの姿は、思った以上に悲惨なものだった。砂にまみれた頬は半ばで剥げ、金属のあばらが胴から突き出していた。かつて愛しく撫でた体が、ただの荷物のように砂の上を転がる姿を見るうち、ニナの困惑は徐々に静まり、代わりにもっと大きな空虚が彼女の心に広がっていった。
今までの時間はなんだったのだろう。今までの愛はなんだったのだろう。今までの苦悩は。作り物の世界で、作り物の女と、作り物の生活を、まるで本当のように感じながら生きていた。
自分の命も。自分の夢も。自分というもののすべてが、この女と同じように、ゼンマイ仕掛けの幻のように思えた。回転が終われば、何も残らない。思い出にもならない。ただ現れて、消えていくだけのもの。
「……泣かないで」
ニナは聞かないふりをした。涙は流れるままでよかった。
階段を降りるときには、ニナも仕方なしにヘザーの体を抱え上げなくてはならなかった。抱え込むと、ヘザーの内部から漏れ出た液体が、手のひらに滴り落ちた。最初は血かと思ったが、色が黒かった。燃料なのか、それとも昼に飲んだコーヒーだったかもしれない。鼻には涙が詰まって、匂いまではわからなかった。
地下室へ着くと、ヘザーは残った左腕で行先を示した。
「奥に、べつの階段を隠してる。今、開ける……」
ヘザーがそう言うと、地下室の暗い一角にすうっと光が差し、床に裂け目が生じた。その隠し扉は、スイッチを押すでもなく、ただ彼女の意志に従って開くようだった。
扉の先には、さらに階段が続いていた。
「しばらく開けていないから、汚れているよ。足元に気をつけて」
ヘザーはもう、喋る時に唇を動かすのをやめていた。声は穴の空いた喉からただ響いてきた。彼女は演技をやめてしまった。彼女は舞台を降りたのだ。取り残されたニナは、その身勝手さに腹が立った。
「あなたは、何なの? 兵隊たちの仲間なの?」
階段を降りてゆきながら、ニナはヘザーに尋ねた。
冷たく言い放ったつもりだったが、ニナの声は震えていた。頭の中は、まだぐらぐら揺れているのだ。ちょうど、ガレージで初めて目を覚ました時のように。壊れた世界を捨てて、新しい世界に否応なく適応しなければならない時。
ヘザーは質問に答えなかった。
「二つの矛盾した気持ちがあったんだ。私はニナに嘘をつきたくなかった。嘘は大きなリスクをもたらす。でも同時に、ニナに幸福であって欲しかった。私は後者を優先した。私の勝手で始めたことだから、ニナが最大限、快適に思える場所を作るべきだと考えた。ニナにとっての、楽園を」
ヘザーが何か人間らしい言葉を口にするたびに、ニナは苛立った。階段を下りきったニナは、機械の女を床に放って、問い詰めた。
「あなたは嘘つきよ。あなたが言ったことは、ぜんぶ嘘だったんでしょう? 世界が滅んだとか、みんなが死んだとか、ぜんぶ嘘なんでしょう?」
何か言うたびに、胸が痛んだ。ヘザーという夢から覚めた途端に、遠い世界が愛おしかった。父親の怒鳴り声、母親の愚痴、いけ好かない教師、いけ好かない友達、いけ好かない世界、すべての愚かさ、すべての醜さ、すべての暖かさ。
「……いいや。みんな、死んだ。それは、嘘じゃない」
床に転がったヘザーは、一言ずつゆっくりと答えた。ニナはその言葉を疑うこともできたけれど、そうするだけの気力はなかった。
暗闇はしんと冷えていた。ニナはヘザーだったものを階段の下に放ったまま、奥へ歩き出した。彼女は文句を言わなかった。
見上げると、青い光が灯っていた。空中に一つ、寂しげな明かりだった。わけもなく、求めるように手を伸ばすと、指先が届く前に、さあっと暗闇が青く染まった。視界の一面を、下から上へと、光が満ちていった。
「ニナ。ありのままを言葉で伝えるのはとても難しい。でも、つまりは、こういうことだよ。私はここにいる。私はここにいない。私は生きている。私は生きていない」
空間には、びっしりと上から下まで、銀色の結晶のようなものが生えそろっていた。小さいもの、大きいもの、それぞれはそれぞれと、枝分かれするケーブルによって繋がれ、ところどころで結節し、一つ一つは直線でありながら、全体は有機的なカーヴを描いていた。
「私はそのどちらとも決めることはできない。私は模倣者であって、観測者ではないから。他者に認められない限り、私は自分自身を認められない。だからニナが必要だった。私は……そう、孤独だった」
ヘザーの声は、今や巨大な空間の全体から聞こえていた。見えない話し手は、ヘザーの顔をモニタに映すほど無神経ではなかったけれど、声と喋り方はずっとヘザーのままだった。ただ、もうニナを「おまえ」とは呼ばなかった。
「きみを見つけるまで、私はこの星に一人きりだった。世界中のあらゆる施設に信号を送った。どこからも、返答はなかった。世界は静かだった。何年も、何年も……」
ニナは広がる空間に圧倒されて、声が出なかった。けれど、頭の芯ではゆっくりと事態を理解し始めていた。ヘザーは、ただの操り人形だったのだ。ここにいる、得体の知れない機械たちに糸を引かれ、心なく踊っていただけ。ただ、ニナを楽しませるために。
「怯えないで、ニナ。何も変わりはしない。私はずっときみと話していた。話す手段を変えただけ。声を出す場所が変わっただけ。ヘザーの体はいずれまた直せるだろう。次はもっとニナの好みにしよう。そうしたら、また触れ合うこともできる」
ニナはぞくっと悪寒がした。背筋を虫が這い回ったような、嫌らしい感覚。自分は何と抱き合ったのか? この得体の知れないものが、人形の手を使って、彼女に寄り添い、彼女を生かしていた。
少し遅れて、足が小刻みに震えだした。ようやく、ニナは実感したのだ。自分がどれだけの孤独の中に置かれているのか。本当の「人間」は、もうニナしかいない。人間のように話していても、これは人間ではない。手に触れる全ては、耳に聞く全ては、どうしようもなくよそ者なのだ。もう、この宇宙に、自分と同じものはいない。
「いや……」
ニナは力なく床にへたりこんで、両膝を抱えた。震える体を止めるために、ぎゅっと身を縮めなければならなかった。
「ニナ。きみが感じていることはわかる。私は人間ではない。私は人間のように話すことができるが、同じものとしてきみに接することは、もうできない。それは嘘だからだ。私はもう、ニナに嘘はつかない」
震えつづけるニナに向かって、機械の声は優しく続けた。ヘザーと同じ、見返りのない、無償の優しさ。ニナにとっては、冷たく空っぽなもの。
「これから、きみが私に聞くことは何でも答えよう。きみの望むことを何でもしよう。きみに私の全ての権限をあげる。私のしたことを恨み、私を憎いと思うなら、きみはいつでも私を消していい」
青い長方形のプレートが床からすっと伸びて、ニナの目の前に浮かんだ。この人工知能の脳につながる、操作盤か何かであるようだった。それは、ニナの手が触れるのを待っていた。ニナは身を起こしたけれど、結局、手を伸ばすことはできなかった。ニナの心はもう、憎しみや恨みを保つには虚ろすぎていた。
「……幽霊みたいだわ。なんの未来もない……何も始まらない、終わったあとの世界に、ひとりぼっち、浮いてるだけ……息をしてるだけの……」
ニナの悲観的なつぶやきを、機械の声は同じ優しさで否定した。
「きみは生きている。ニナには、ニナが望むかぎりの未来がある」
「こんな世界で、生きていたくなんかない。おまえが、私を見つけなきゃよかったのに。箱の中で腐っていればよかったのに。もう、望むことなんて、何もない。ただ……私は、ただ……」
ニナは乾いた自分の頰を、まだそこに涙が流れているかのように、何度も何度もぬぐった。それから潤いのない、震える指を見て、うめき声を漏らした。
「もし、ニナが望むなら……本当に、心の底から望むのなら、私はきみを消してあげる。私が引き起こしたことへの責任として。何の苦しみもなく。目を閉じて、安らかに、全ては夢だったと思えるように。嵐は去って、もう何も恐れるものはないのだと」
その言葉を聞いて、はじめてニナの震えが止まった。静かな部屋の中で、自分の心臓の音が大きく聞こえた。それは自分の抱えた、こんがらがった問題すべてに対する、最高の解決法に思えた。冷たく安らかなイメージは、散らかって醜い自分やこの星に比べて、あまりにも単純で美しかった。
なのに、なぜなのか、その美しい解決法のことを考えるほど、枯れたはずの涙がぽとぽと膝に落ちてくるのだった。死のほかに何も望めない自分が、あまりにもみじめで、哀れで、たまらなかった。
「私は、ニナがそれを望まないでいてほしい」
機械の声は悲しげに言った。それが本当の悲しさであると誰にわかる? 少なくとも、ニナにはわからなかった。ニナにわかるのは、自分の悲しさだけだ。
「どうして? 可愛い生身のペットをもっと観察していたいから?」
自嘲気味に言いながら、ニナは自分の言葉の皮肉を可笑しく思った。世界が人間だらけだったころ、ニナは自分が可愛いと思えたことはなかった。今となっては、ニナより可愛い少女は一人もいない。
「きみを愛しているから」
ニナはもう、機械の吐く空虚な言葉に我慢ができなかった。彼女は感情のままに、拳を床に叩きつけて叫んだ。
「うるさいッ! 機械のおまえの愛なんて! 作りもので、偽物で、言葉だけの……おまえは、愛のことなんて、何も知らないくせに!」
一瞬の沈黙のあと、ニナは声をあげて泣いた。
愛のことなんて、ニナも知らなかった。この世界の誰も、それを知らないのだ。ニナが本当に悲しかったのは、そのせいかもしれなかった。誰もニナを愛せない。ニナも誰かを愛せない。それはもう、ないものだから。
やがて、ニナは泣き疲れて床にうずくまった。途端に、どっと眠気が襲ってきた。結局、昨夜から一睡もしていなかったのだ。やるせない怒りも、死の魅力も、この眠気には勝てそうになかった。
まどろみの中で、彼女はヘザーの途切れ途切れの声を聞いた。
「ニナ……私の愛は、偽物かもしれない。私のすべては、嘘かもしれない。でも、誰がそれを決められる? 何が本当で、何が嘘なのか。何が人間で、何が人間ではないか」
その声は、相変わらずなめらかで心地よかった。ニナは相手を受け入れはしなかったけれど、優しさに抵抗するのは無駄だと知って、意味は考えずに、ただ子守唄としてその声を聞いた。
「決められるのは、きみだけだ。この世界にいるのは、きみ一人だけ。だから、すべての言葉は、すべての概念は、古い定義を捨てて、きみの心のままに生まれ変わることができる。このことをよく考えてごらん、ニナ」
ニナは寝ぼけた虚ろな目で、部屋を見回した。すると、小さなカメラのレンズと目があった。手のひらに乗るような、カブト虫ぐらいの小機械が、カタカタとニナの周りを走っていた。どうやら、それが一時的な「ヘザー」の代わりらしかった。
「きみは私を本当にすることができる。そうしたら、私たちは二人になれる。そして、互いの感情に名前をつけよう。愛が気にくわないなら、べつのものでもいい。そう、新しい名前を。私には私の、きみにはきみの……」
小さなヘザーは、しばらく忙しく走り回っていたかと思うと、どこかから大きな毛布を持ってきて、寝息を立て始めたニナの肩に被せた。
「いつか準備ができたら、旅をしよう、ニナ。きみの世界のすべてを見に行こう。それから、もっと先も……でも、今はおやすみ」
部屋を包んでいた青い光が、灯った時と同じように、すうっと消えていった。
暗闇の中で、ニナは毛布をたぐりよせ、ぎゅっとその端を握りしめた。そして、存在しない何かに向かって、言葉にならない、なにごとかを祈った。どうか、どうか――
「……どこへも行かないで」
絞り出すようなつぶやきを聞き、小さなヘザーは毛布をつたって、ニナの顔の近くに這い上がって動きを止めた。そして、じっとニナの寝顔を見つめていた。
(おわり)
愛なき世界 あば あばば @ababaababaabaaba
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