夢半ば
伊月樹
夢半ば
「あの、今お暇でしょうか」
そう言って彼女が店に入ってきたのは、まだ暗い明け方の四時頃だった。彼女は普段の来客に比べて極端に背が低かったので、はじめはどこから声がしているのかわからなかった。
「すみません、聞いてほしいことがあって」
個人経営の店で、店主に向かって暇ですかはよろしくないな、と思いながら、
「まあ見ての通りで、大丈夫ですよ」
と答え、まあどうぞ、と席へ促す。すみません、と彼女は一人掛けのソファの方へ向かう。
「あの、ここで願いを聞いてもらえると伺って」
「ええ、まあ」
その言い方はなんとも胡散臭いな、と苦笑しながら、戸棚からティーカップを取り出してポットの紅茶を注ぐ。
「どんなことでも、ですか」
彼女の前に紅茶を置いて、向かいのソファに腰を下ろす。
「どうぞ、話してみて下さい、他言はしません」
彼女は少し安心したように息を吐き、あの、と話し出す。
「実は、探している子がいるんです」
「人探し、ですか」
「ええ、前までずっと同じ家で暮らしていたんです。」
男の子なんですけど、と彼女はカップを見つめている。
「その子が生まれたときから、私ずっと一緒にいたんです。でも、会えなくなってしまって」
「会えなくなったのはいつ頃ですか」
「もうずいぶんと前のことです」
その子供と会えなくなってから、彼女はずっと探し続けていたという。
「しばらく外を探した後、一緒に住んでいた家に何度も行ってみたんですけど」
「いなかったんですか」
ええ、と彼女は悲しそうにうつむく。頬のあたりに長いまつ毛の影が落ちている。
「いい子だったんです。将来はギタリストになるんだ、なんて言っていつも練習していました」
話す彼女の目は大きく、黒目がちで丸い。
「あれなんですけど」
彼女は座ったまま、真後ろの壁を振り返る。
「あそこに飾ってあるサイン色紙、その子もあのバンドが大好きで、同じサインを部屋に飾っていたんです。持って帰ってきた時は本当にうれしそうでした、一生の宝物だ、なんて言って」
だからこのお店に入った時、これを見つけてびっくりしました、とほほ笑む。
「全然有名なバンドではなかったので。ほんとに小さなライブハウスで、初めてイベントがあった時に書いてもらったそうなんです。でもこれから絶対に有名になるはずだって、いつも話していました」
ビッグになる俺が言うんだから間違いない、なんて自慢げで、と彼女は懐かしそうに話す。
「まああのバンド、随分前になくなっちまいましたけどね」
呟いて紅茶をすする。彼女は、え、とこちらに向き直り、そうですか、ないんですか、と残念そうにうつむく。外は段々明るくなり始めている。
「その子、両親にギタリストになるのを反対されていたんです。だから、夢のことはいつも私に話してくれました」
彼女はまたティーカップを見つめる。中の紅茶は手が付けられないまま冷めている。
「会えなくなるほんの少し前、その子は私を連れて元いた家を出たんです。ギターを続けたい、と両親のもとから離れて」
それから、と彼女は続ける。
「その頃から、私は段々体調を崩すようになってしまったんです。治るかと思っていたんですけど、どんどん体が弱ってしまって。その子はそんな私をいつも世話してくれていました」
「それで」
かちん、とティーカップを置く。
「そのまま会えなくなっちまったというわけですね」
彼女はうつむいたまま、ええ、とうなずく。
「あなたはその子供に会いたいんですか」
彼女は少し顔を上げ、迷ったように首を傾げて、
「そうですね、会えればいいな、とは思います」
と言って悲しそうにほほ笑む。
「でも、その子が今元気でいるなら、それでいいような気もします」
よし、と一息ついてから立ち上がる。
「明日また来て下さい、もう夜が明けますから。明るいのは苦手でしょう」
そう言うと彼女は、驚いた顔をしてこちらを見る。その瞳は深い暗褐色をしている。
「明日になったら、あなたの願いは叶えます」
彼女はその時初めて正面からこちらを見つめ、気が付いたように何か言おうとしたが、とにかく、と彼女を促し、また明日暗いうちにどうぞ、と言って見送った。
彼女の後姿が見えなくなり、店の中に戻る。
「こんなこともあるもんだなあ」
東京へやってきて、もう三十年以上が経とうとしている。高校を卒業してすぐ、両親の制止を振り切り、夢を追いかけてペットのフクロウとともに上京したはいいものの、結局金のほうが先に尽きた。一年ほど経ったころにフクロウが死んでしまった後は、とにかく家賃の安い部屋を探して住まいを転々とした。その後も、結局夢を叶えるような転機が起こることもなく、諦めて企業に熟年就職したのち、二十年ほど勤めてから退職した。
そして今は、この喫茶店のような、相談所のような店を経営しており、意外にも来客はあるもので、毎日誰かしらの話を聞いている。
「それにしてもこちらで再会できるとはなあ」
長年部屋の隅に置いてあったギターのカバーをとって、そのまま弦をはじいてみると、ビヨンと間の抜けた音が鳴った。
明け方の四時頃再び来店した彼女は、私の顔を見、白髪の入り始めた頭部を見、そして目を細めた。
「もうそんなに経っていたのね」
「ああ、ギタリストにはなれなかった」
「いいのよ、元気そうでよかったわ」
そう言うと彼女は羽をバサッと一鳴らしさせて、
「これでもう安心ね。今度はあちらで、五十年後くらいにね」
と言い残して消えた。
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