徒然なるままに日々思うこと

田中修子

紫陽花の新芽はばらの蕾のかたちをしている

 昨日、近所を散歩していたら、紫陽花の新芽が出ているのを知った。

 

 心浮きたち、あるいは急に沈み込むようになって、ひたすらどこかへ旅してしまいたい気分になる。

 三寒四温がくりかえされ、人のからだの筋肉は、急速な気温の変化に晒されている。気圧の変化もものすごくて、空気の重い日にはまるで海の底に住んでいるのではないかと息が詰まるし、空気の軽い日には羽根になってフワリと風に飛ばされてしまうのではないかと浮きたつような気分になる。

 冷たさとぬくもりに、自分のひふのしたにあって見えない筋肉や内臓ががギュッとちぢんだり、あるいは、ほどけていくさまを思う。

 もうスーパーではキュウリやミョウガが安く出るようになった。好物の、キュウリを包丁のするどくないほうでたたいて、ミョウガを輪切りにし、塩と酢で揉んだのに、梅肉とシソの葉でキュウリをあえたのを作ろうか。けれど、キュウリが体のなかに落ちていって胃がひんやり冷えるのを想像すると、まだ早い、と思う。やっぱりあれは夏の食べ物だ。ミョウガだけ買って、あと家にある油あげでミョウガと油揚げの炊き込みご飯を作ろう。春先のミョウガの、ピンクと緑の、淡くつやつやした色どり。

 

 持病の関係もあってか、冬、葉を落とした木の枝は、声を失い悲鳴をあげながら痩せこけて死にながら、それでも冷たい空を刺しているように見えた。

 それで私は冬はなるべく下をみて歩くようにしていた。

 すべての木が空を刺しているように見えて、「刺す方も怖いだろう」「刺される方は痛いだろう」と、常に想像するのだから、心境としてたまらないものがあった。余計なものは目に入れないほうが良い。

 そうして自分の靴の先とちょっとさきだけ見ていたら、あんがい人にはぶつからないものだ。後ろ向きの人生というが、私のは下向きの人生である。

 けれどこのところ、心境の変化があって、ときおり前をみて歩くようになった。そうすると本当にたくさんの発見があって、わりと上を向いても歩くようになった。

 下向きの人生から上向きの人生への急速な転換である。それでも案外こけたりしないから、私の適応力もなかなかたいしたものだ。


 真冬、すべて葉を落として死に絶えたようにみえていた木々が、じつはもう新芽をつけていたのだった。花の蕾も、いままで目にいれていなかっただけで、すでに春に咲く用意をしていたようだ。

 真冬の十二月、一月、二月も、すべての枝に新芽が、花の蕾があり、そしていちにちいちにち諦めることなく、膨らんでいる。一日に一ミリも大きくならないだろうに、黒いしなやかな線のシルエットと点のシルエットが刻々と成長していくのが、毎日見ているとたしかに分かる。


 そうすると不思議なもので、落ちている木の葉さえ生きているように感じるようになった。

 公園を歩いていれば枯葉や秋に落ちた茶色にコロンとしているドングリ、死んでしまった虫たちを踏みざるをえない。下向きの人生を歩んでいたころ、それはいやでも目に入って、それはそれで悲しかったのだ。

 けれど、その枯葉やドングリや虫は、くだけてくだけて小さくなり、豊かな栄養をふくんだ土になっていく。それらが地下にあるだろう木々の根の栄養になり、木の芽や花の蕾となっていく……。

 冬の夕暮れの金色のひかりは、公園の輪廻転生に祝福の王冠をあたえる。葉の新芽も花の蕾も、まるくて、産毛のはえた赤ちゃんのほっぺたのようだ。


 ひび、小さな成長を身近に感じているうちに、いつもまにか、冬は過ぎた。

 それから桜の蕾、ハクモクレンの蕾、もうすぐすべてがはぜる春がきている。このあいだはシジミ蝶が飛んでいた。きっと蝶のさなぎも常緑樹の葉のしたにかくれて、飛び立つのをまっているのだ。


 紫陽花の新芽は、新芽の中でもいちばん綺麗で、愛らしい。

 まるでばらの蕾のようなのだ。ウェブスターの「あしながおじさん」のなかで、ピンク色のばらの蕾をジュディが贈られて喜んでいたというシーンがあったっけ。あれはロマンチックでとてもいい小説だけど、私は切り花はどうしたって死んで枯れ果てていくことを思うと、少し悲しくてつらい。私がジュディなら、紫陽花の鉢植えがほしいかな、なんて、妄想のはかどること。


 緑色のばらのツヤツヤした新緑の蕾がほどけて、ばらの蕾ではなく、紫陽花の葉の形をとるころ、濃灰色の雲が立ち込めて煙るような細い雨がふるようになる。

 雨の降る音と、紫陽花の深い緑の葉、花の色が雨のひとつぶひとつぶに宿ってあたりをうす紫色に彩るころを思う。


 こころがすこし先の季節にまで旅に出てしまった。これもまた春爛漫の少しまえ、あっというまに咲いては落ちゆく桜の花びらによって思考が異常増殖するまえぶれか。

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