アルファベットの起源 その二

H 

 Hには長い間文字としては認められなかった惨めな歴史がある。それは発音がほとんど音として成り立たないからだ。だから呼び名もこの字の特徴だが「ヒー」や「ハ」ではなく「エッチ」となっている。しかし9番目に使用頻度が高い文字である。

 Happy、heart、hearthなどHで始まる語は旧い英語の特徴でもある。英国ではHの音を正しく発音出来ないのが労働者階級の訛りだった。それを語るのが、ミュージカルの傑作である「マイフェアレディ」に現れるHの発音を練習するシーンである。教授が主人公のこの訛りを矯正するコミカルな場面だ。

 ところで、日本語の「あのひとはエッチ」はどこから出た表現なのだろうか。


J 

 JはVやWと共にローマ字に加わった最後のアルファベットであった。ローマ人はこれらの文字を持たなかったので、ローマ字は23文字しかなかった。英語にJが加わった記録は時代が下がり1640年のことであった。しかしそれ以降も正式にアルファベットとは認められず、公に参加が認められたのは、辞書の編纂で名を残した19世紀半ばのウェブスターを待たねばならなかった。

 Jがこのように継子扱いされたのはJの音が英国にはなかったからだ。それに近いものにはローマ時代にはIが使用されY音があてられた。ラテン語ではJulius CaesarはIulius (Yooliusと発音)、JupiterはIuppiter、JanusはIanus、judgesはiudices、 justiceはiustitia、そしてyoungerはiuniorである。

 スペイン語やポルトガル語ではこのJはH音のために、「ニッポン」は「ハポン」とされ、これが英語のJ音で発音され日本の国名はジャパンとなった。英米人にはこの「ジャパン」と「日本」を結び付けるのに苦労する者が少なくない。


L 

 Lはフェニキア文字のlamed(牡牛を追う棒の意)が語源とされている。これから大文字のLがローマ時代に生まれたが、不思議なことに小文字の”l”はアルファベットとしては最後に生まれた最も若い字である。

 英ポンドはLを変形した記号で知られる。これはローマ時代に使用された重量の単位だったラテン語のlibraから出ている。銀の一ペンス硬貨が240枚で一ポンドになる。


M

 Mの起源はエジプト時代の水が流れる様子を示した絵文字にある。セム人が転用した際にM音が加わったらしい。

 生後間もない赤子は世界どこでもママ、ババ、パパを発する。これは最も発音し易いからで、母やおばあちゃん、父を指すわけではない。しかしこの最初の発声にM音があるからか、世界各地の母を指す語はほとんどがMで始まる。北京語はma、ヒンズー語のmaa、ベトナム語のme、マレー語のemak、ハワイ語のmakuahine、スワヒリ語のmama、ヘブライ語のema、古代ペルーのma、古代サンスクリット語のmatr、古代ギリシャ語のmeter、ロシア語のmat、ポーランド語のmatka、旧いラテン語のmater、スペイン語のmadreなどだ。旧い英語のmodorは現代のmotherとなった。Mammaはbreastの意味で、ここからmammalの語が生まれたとされる。


P 

 Pはセム人の文字peから出ている。この語は口を意味したが、フェニキアを経由してギリシャに移動すると円周率でお馴染みのパイになった。Pは3番目に使用頻度の多いアルファベットで、Pで始まる語はS,Cと合わせると実に辞書の三分の一を占める。

 「ピアノ」の語はイタリア語の軟らかいを意味するpianoから出ているが、当初はpianoforte(軟らかく強く)と呼ばれた。それはバロック時代のハープシコードが同じ強さの音しか出せなかったのに対して、ピアノは音の強弱が出せたからだ。出現当時は大変なハイテク楽器の登場だったことになる。


Q 

 タイプライターやPCのキーボードの左上は常にQWERTYになっている。QはUから派生した。優秀なタイピストは機関銃のようにキーを叩くが、この兄弟文字を間違って打たぬように、Qは左手で、Uは右手で打つように工夫されている。W、E、R、T、Yも同じ理由で混乱しやすいアルファベットから遠ざけるためにこの位置に置かれているのだ。


S 

 Sの使用頻度は8番目で必ずしも多用されているわけではないが、辞書に占める語の数ではSで始まる語が最も多い。このSがフェニキアからギリシャに渡る際に面白いことが起きた。「ス」の音を持つフェニキアの文字はsamekだったが、「シ」の音を持つshinの字をSに当ててしまった。このshinは歯を意味してWの形をしていた。これをsamekとして取り入れたギリシャ人はこれからギリシャ語のsigmaを作ったのだ。

 このちょっとしたミスのお陰で後世の人達は苦心を重ねてSに変えている。フェニキアの21番目の文字だったshinは、今日でもヘブライ語の21番目にshinと呼ばれ歯を意味する語として残っている。

 文字の変遷は長い時間を経過したものだが、時としてある時点で大きな変化を生むことがある。WとSの取り違えも、どうもフェニキア文字からギリシャ文字に転換する際に、ことに当った個人か文字転換委員会があってそこでのミスで起きたらしい。


T 

 最も使用頻度の多いEに次いで2番目に多いのがTだ。しかし、多くが語の半ばや末尾に使用されるために辞書に占めるTの紙数はさほど多くはない。

 Tは記録された文字として最も古いものである。紀元前19世紀に石に刻まれたものが出土している。フェニキアでは最後の字だった印を意味するtawから発している。ギリシャではtauとなりフェニキアでは「+」だった形がTになった。

 Tシャツは、第二次大戦中に米軍が支給した下着のシャツがT字形だったことからそう呼ばれ、今日に至っている。


X 

 Xは旧いギリシャ時代のアルファベットから生まれた。ローマ人がラテン語の「クス」の音をXに記号化したと考えられている。

 数学でお馴染みの解答を求めるXはデカルトが1637年に初めて使用した。1895年、レントゲンは不可解な放射線を発見しこれをX線と呼んだ。商標でもあるXeroxは、ギリシャ語でdryを意味するxerosから出ていて、乾式複写の新技術を売り込むために採用された。


補記

 アルファベットの関する文献はこれまでにも数多く世に出ていますが、筆者が手にした下記の書は読みやすく、しかも多くの逸話が挿入されていて下手な小説よりも格段に面白く、アルファベットの生い立ちを深く知りたい読者にお薦めです

「Language Visible」by David Sacks, Broadway Books, 2003

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アルファベット物語 ジム・ツカゴシ @JimTsukagoshi

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