うつくしいままの君

だんだんF1になるネコ

うつくしいままの君

「おい、パーティにひょろ長がいるなんて聞いてねぇぞ」



 魔術師様は助っ人として雇ったハイエルフを見ると露骨に眉をひそめ、そのままふいと顔を背けてしまった。ゴブリンの巣で泥酔できるような人だから種族には頓着しないのだろうと思っていたのだが、そうでもないらしい。エルフはこの辺りでは滅多に見ることもなく、ましてや冒険者のエルフともなると出会えること自体が希少だ。聖騎士の立場を利用してようやく探し当て、なんども交渉してやっと雇うことができたのに。



「ま、魔術師様、そうは言っても……」


「名前で呼べっつったろうが」


「イビルザ様、そうは言ってもこの方が居れば戦闘は大幅に楽になるはずですよ。あなた一人に無理をさせるのは心が痛みます」


「おいそりゃあないだろ王子様、この俺様が戦闘で手こずるとでも言いたいのか。今すぐそのひょろ長の尻を丸焦げにして見せてやろうか」



酒焼けした、地を這うようなくぐもった声がニタニタと笑みを浮かべた口からよこされる。何年も手入れをされていないのであろう黒髪の間からちらちらと覗く瞳は、伝説の魔術師だけあってひどく怜悧で獣のように光っていた。その傍若無人な性格ゆえに、有り余る力を持ちながらもどのパーティにも属さなかった人だ。このくらいのことにはこちらの方が慣れていかねばならないのかもしれない。



「ぅう、もうっ、分かりました、分かりましたよ……。その代わり、私の働きにはあまり期待しないでくださいね」


「まぁ任せな子猫ちゃん。ダンジョンをたったの三つ攻略するだけだろう? お前はただ、俺の後ろをブルブル震えながらついてくりゃあいい。一つ頼みがあるとすりゃ、ションベンを漏らさないでくれってことくらいだよ。俺とあんたのハネムーンに邪魔者なんかいらないだろ?」




◆◆◆




かつて多くのダンジョンを攻略し、人間でありながらエルフよりも高みに達した魔術師がいた。彼の属していたパーティはすでに壊滅しており、消息も途絶えていたが、伝説まがいの噂話は時折彼のその後を語り、人々の酒の肴に、あるいは子守唄の前の子供たちの寝物語になっていた。



「おーおー、こりゃあまた別嬪なゴブリンがいたもんだな」



 私が最初に見た大魔術師イビルザは、まるきり想像とかけ離れていた。一度謁見した大司祭のような、荘厳な空気をまとった静かな老人だとばかり思っていた彼は、中年の浮浪者のような有様で、ふらふらとした千鳥足でこちらへ近寄ってくる。場所も聖なる神殿ではなく、薄汚れたゴブリンの洞穴だ。



「殺す前に楽しめそうじゃねぇか。お仲間みたいになりたくなきゃあじっとしといてくれよ」



爆炎と、ゴブリンたちが焼け焦げる悪臭、悲鳴、そういうものを背に、悠々と歩いてくる彼には私とゴブリンの見分けがついていないようだった。彼の左手にある酒瓶はすでにからになっている。ゴブリンが密造していたのであろうそれをそんな量飲めば酩酊するのは明らかだった。



「わっ、わ、私は聖騎士です!!人間の!! 貴公を大魔術師イビルザ様とお見受けしてお願いに参りました!!」


「あー? そうだけど、人間がなんでまたこんなところに。ゴブリンの巣はあぶねぇから近づくなってママに教わらなかったか、お嬢ちゃん? 今も危うく俺にレイプされちまうとこだったろ。危機感ってもんがたりねぇな」



やはり!! 噂話を本気にするなどと、と散々笑われながらも捜索した甲斐があった。町の軍隊すら手を焼くゴブリンたちを一瞬で焼き払った魔力、詠唱なしで呪文を発動させることができる熟練度から見ても、彼は間違いなく伝説の魔術師に違いない。



「イビルザ様がこの街にいらっしゃると伺い参上したものの、ゴブリンの巣に潜られたと聞いて…! 街の平穏を守るために単身で討伐に向かうなど、流石です!! やはりあなたは伝説の…」


「討伐なんかするもんか」



ようやくかの魔術師を見つけ出せたのだという興奮が恐怖に打ち勝ち、私の舌が少し回るようになってきたその時、魔術師様の声音が突如暗くなった。何か機嫌を損ねてしまったらしい。しかし一体何が悪かったのかわからず泡を食っていると、「ゴブリンどもは俺の友達だったのに」と彼が続けた。泣いているようだった。



「金がねぇならもうここには置けないって言いやがったんだ。酷いだろ、一文無しのこの俺に向かってだぜ? 頭がいかれてやがる。しまいにゃ酒も寄越したくねーなんて言うから、巣ごと燃やしてやったってわけ」


「…………」


「ゴブリンどものあのツラ!! 初夜の女みて〜に血ィ流して泣いてやがったぜ、この俺様を馬鹿にした罰だ。そのブッサイクなことと言ったら、オークと驢馬がグールの腐った羊水に射精して生まれたガキの方がまだマシだった!! ありゃあ当分笑えるな」



涙を拭くために顔を覆った手は、言葉の途中から小刻みに震え、言い終わる頃には下卑た笑い声をこらえるために口元へ当てられていた。この街へ着いて酒場で彼の情報を得、喜んでいた私にかけられた女主人の言葉を思い出す。「あの飲んだくれは気が狂っているし、狂う前から、根性の悪い奴だった。まともな人間が共に居られる相手ではない」と。


再び恐怖で口を開くことが叶わなくなった私に、彼は上機嫌で語りかける。



「俺ぁ今、気分がいい。だからあんたみたいな上玉の頼みなら聞いてやってもいい。この大魔術師のイビルザ様になんの頼みがあるんだ? フェアリィの内臓みたいにカワイイ、そのピンクの唇で囁いてくれよ」


「……!! ぜ、ぜひ、我が軍に加わっていただきた」


「断る」



地べたに落ちていたゴブリンの……おそらく子供の足を咀嚼しながら、彼はにべもなく断った。もしかすると私は今悪い夢を見ていて、その中で悪魔に弄ばれているのかもしれない。ガイコツのように骨ばってゴツゴツとした指が、私の唇をゆっくりと撫でた。異常に冷たいその指は、何度も何度も唇の上を往復する。



「そんな無粋な頼みは聞きたくないね。俺が聞きたいのは『私にキスして』だ、それか『デートしてください』とかな。もう二度と誰かとパーティを組むのはごめんなんだよ、お嬢ちゃん」


「そんな……!! お願いします、我が軍はもはや壊滅寸前で、部下は一人残らず逃げてしまったのです!」


「はァはは、それじゃあ軍とは呼べないだろう」


「お願いします魔術師様……っ、魔術師様のお力を借りることなくしては立ち行きません!! どうか……!!」


「聖騎士ともあろうお方がそんなにみっともなく縋るなよ、これじゃ部下も逃げ出すわけだ。……」


「どうか、どうか……」



なりふり構ってはいられなかった。地べたに頭をこすりつけて魔術師様の腕へすがる。魔術師様は、もはや私に残った最後の頼みの綱だ。そもそも後ろ盾も学もない平民出の私にできることは限られており、決して普段の働きも優秀とは呼べない。この辺りで一つ武勲をあげなくては、聖騎士から降格されるだろう。それだけは何としてでも避けたかった。眉唾物の噂話を本気で辿って、やっとの思いで見つけることができたのだ。少しくらい恐ろしい狂人だからなんだ。まともなだけで何もできない、私のような人間よりはよほどいい。



「魔術師様ぁ……」


「……分かった分かった、頼むからそんな捨てられた子犬みたいな声を出すな。興奮しちまう」



ただでさえ低い魔術師様の声が、獣のうなり声のようになってしまった。慌てて顔をあげると目の前で魔術師様のローブの股間あたりが膨らみきっているのが目に入る。一体今のやり取りのどこに興奮する要素があったのか甚だ謎だが、そんなことはどうでもよかった。彼の目を一心に見つめて「本当ですか」と問うと、彼はうっと言葉に詰まった後、わずかに頷く。彼の息ははぁはぁと荒い。



「ただし、条件がある。俺の力はお前にやろう。お前の夜を俺にくれ」



溺れるもの藁をもすがるというが、この時の私にとっての魔術師様は藁というより大船だった。渾身の力を込めて、私は彼に抱きついた。



◆◆◆




「確かに、俺は最初、あんたを声の低いお嬢ちゃんだと思っていた。それが違うってぇのは晩に散々わからされたからいい。晩のあんたはいかしてるぜ、ションベンくさい処女ならきっと微笑まれただけで腰砕けになっちまうほどな。ただ、あんたの今の姿を見てるとこうも思えてくる。あんた実はナニがついたお嬢ちゃんなんじゃねぇか?」


「……だから働きには期待しないでくださいと言ったのに」



私の剣筋を見て、魔術師様はしばらく黙った後、そんな風に言った。口調こそ冗談めかしてはいるがその声は低く暗い。私が剣士とも呼べぬほどの腕前であることに、ひどく失望したようだった。まともに訓練を受けたこともない平民では、所詮この程度だ。宿の庭を借りて毎日の自主練をしているのを魔術師様に見られ、私は情けなさで顔から火が出そうだった。



「……すみません、イビルザ様。やはりあのエルフを雇い直しましょうか? 少し高くはつくでしょうが、幸い解雇した時も怒ってはいなかったようですし……」


「よしてくれ、次にその提案をした時にはお前の舌を焼かにゃならん」


「…………」


「冗談さ。俺は俺を敬う奴には優しくすると決めているんだ。俺を裏切らない限りはな」



魔術師様がいくら強いとはいえ、お一人で大丈夫なのだろうか。もうこれ以上私のせいで人が死ぬところを見たくはない。自主練こそしているものの、筋肉がつきにくい体質であること、元々鈍臭いことがあいまって剣術の腕は全く上達しないままだった。指揮の能力もない。兵法を学ぼうにもまず字が読めない。努力していないかと言われれば否と答えることもできるが、足りない部分が多すぎる。何人か死なせてしまった部下だって、私がもっと強いか賢いかすれば、死なずに済んだだろう。いくら金をもらったってこんな人間が上司とあっては私でも逃げたくなる。



「ひっ…、うぐ、ひっ、」


「おいおい悪かったよ、本気で怒ったわけじゃない。怖かったか? 許してくれ、泣いてる君は見たくないよ」



自分のあまりの情けなさに思わず嗚咽をあげてしまった私を見て、魔術師様は少し勘違いをしたらしい。彼が出せるギリギリ可能な範囲なのであろう甘ったるい猫なで声で私をあやしながら、背中をさすってくれた。初対面の時の印象とは打って変わって、私は彼を好ましく感じるようになっていた。「夜をくれ」と言われた時だって、一体どんなことをさせられるのか不安だったが、蓋を開けてみればただ恋人のように過ごすだけのことだ。恐れていた拷問まがいの変態じみた行為などは求めてこなかった。どころか、全てが終わった後には子守唄をせがんでくるような可愛らしいところさえあった。彼は、私に存外優しかった。



「俺はあのエルフとかいうクソッタレ種族が何よりも嫌いなだけさ、ちょっとばかし耳が長いだけで俺を見下せると思っていやがるところとかがな。お前があんまり奴らを仲間に入れたそうなんでヤキモチを焼いたのさ」


「どうしてエルフがお嫌いなのですか……?」


「あんたは冒険者じゃあないから知る由もないだろうが、魔術師ってのはエルフでないだけでパーティに入ることを拒まれたりもする。この俺様が入ってやってもいいと言ったのに断りやがったクソどものケツには一人残らずエルフの頭をぶち込んでやった。確かに俺はエルフじゃないが、奴らよりも、他のどこの誰よりも強いんだ。俺をコケにする奴はみんな火柱とセックスさせることにしてる。どいつもこいつも俺を一瞥してただの酔っ払いだと笑うか、力を知れば関わり合いになりたくないと逃げ出す。でも、お前は違う。な、この強くてハンサムなイビルザ様が守ってやるから怖いことは何にもないよ、もう泣かないでくれ」



ちゅ、と瞼にキスを落とされ、酒臭さと汗の饐えた酸っぱい匂い、何かが爆ぜた後の匂いが同時にする。口は悪いが彼も善人に違いない。私の人生は、思い返せば善き人々に支えられてここまでやってこれたように思う。彼らに恩返しをするためにも、私は絶対に聖騎士から降格されるわけにはいかないのだ。



「んぅ、お見苦しいところを見せて、すみませんでした。明朝ダンジョンに立ちましょう。死んでしまっては元も子もありませんから、安全第一で、ゆっくりと進みましょうね。」


「んなこと言ったって壊すだけだろ? 宝箱を全部取って回りたいってんなら厄介だが、最深部を破壊するだけなら1日ですむ。あんたがこの宿にいて俺の帰りを待っててくれるなら半日で済むだろう」


「た、確かに足手まといかもしれませんが、でも、俺も頑張りますから……」


「とは言えあのへっぴり腰じゃぁ……」



いくら何でも魔術師様に丸投げするのはあまりに気がひける。どうにかこうにか頼み込むと渋々了承してもらえたが、それでもまだ魔術師様は納得いっていない様子だった。



「……シールドくらいは自分で貼れるんだろう?」


「盾の使い方は、一応……」


「いや、はぁ? そうじゃなくて……マジかよ、ドワーフの土臭い乳でも吸ってるような気分だ。なぁ、王子様、あんたどうやって聖騎士になったんだ? まさかその綺麗なお顔でおねだりしたわけじゃないだろ?」


「そうですよ?」


「さすがの神殿もそこまで腐ったわけじゃないのか、安心したぜ。じゃああんたは回復呪文が使え……え?」


「あなたに助力を乞うたのと同じ方法です、イビルザ様。回復呪文も使えません。すみません」



流石に私も良識ある人々に対してこんなことを言えば信頼してもらえなくなるのが目に見えているから、滅多には打ち明けない。ただ、魔術師様とはすでにそのような取引をした後だったし、本当に私に何か特別な力があると信じていたとは思えず、特に何の気なしにそう答えてしまった。私が持っているのは若さと女のような顔だけだということに、どうやら彼は今の今まで気がついていなかったらしい。今まで彼の周りにはこんな無能はいなかったのかもしれない。


魔術師様は目を見開いたまま硬直している。言わなければよかった。自分の頭の悪さがつくづく嫌になる。



「……軽蔑しましたか?」


「いや!!!」



大声で否定してくれたのは、きっと彼の優しさなのだろう。魔術師様は優しい。優しいが、わかりやすい人だ。


明朝、ダンジョンには彼一人で行くことになった。聞けば、一度行ったことのあるダンジョンなので転移の呪文が使えるという。彼一人ならダンジョンの最深部に降り立ち、そのまま全てを焼き払って帰ってくることができるのだそうだ。すぐに帰ってくるから心配しなくていい、と囁いた彼の声は、例の猫なで声だった。




◆◆◆




二日後、魔術師様と出会った町から離れ、私たちは物資の調達のためにさらに大きな街へ来ていた。多くの荷車が行き来するのを眺めながら、道の端に出ている屋台で甘い飲み物を買って、魔術師様と二人で今後の経路を話し合う。聞きなれたしゃがれ声が耳に入ったのはその時だった。



「やぁお前、すごいじゃないか!! ダンジョンを二つも破壊したんだって!?」


「ああ、久しぶりだな! そうなんだ、この方に協力していただいて……」



そう、魔術師様は、彼が言った通りわずか半日で戻ってきた。一つではなく、二つのダンジョンを破壊して。真実、私は恐ろしい方を仲間にしてしまったのかもしれない。


私に声をかけてきた顔見知りの商人はイビルザ様を見て少し怪訝そうな顔をした後、「まぁ何よりだ」と無難な相槌を打った。悪いやつではないのだが、相変わらず失礼なやつだ。伝説の魔術師様相手にそのような態度とは。



「お前が聖騎士から降格されるようなことがあっちゃあ、村の連中の生活も苦しくなるだろうからな。今月も運んでいってやろうか?」


「うん、そうしてくれると助かる。いつもすまないな。荷の少しは君たちの取り分で構わないから」


「話はまだ終わらないのか」



退屈そうな、というよりやや不機嫌な魔術師様の声に慌てて我に返る。商人とはまた後で話をつけることにして、一旦別れた。魔術師様はぶすっとした顔で唇を尖らせているが、二日酔いか、それともお腹が空いたのだろうか?

「お待たせしてすみませんでした、イビルザ様。お食事にしましょうか。ここらは飯屋も多いですから、なんでも食べられますよ」


「そりゃいいが、とにかく気分が最悪すぎる。酒場に行きたい」


「ダメです」



両方だったらしい。


最初は魔術師様にも高額の報酬を払おうと考えていたのだが、すぐに酒場に駆け込もうとするので慌てて金を取り上げた。そもそもこの方はお酒が好きというより、きっと何か不安から逃れるために飲み続けなくてはならない状態なのだ。幼い頃の私の父もそうだったから尚更心配になる。不健康極まりない。



「体調が悪いのですか?」


「悪いなんてもんじゃないね。頭は割っちまった方が楽なくらい痛むし内臓は今にもひっくり返りそうだ」



うんざりとした口調だったが、軽口を叩く程度の余裕はあるらしい。ひとまずホッとして、彼が屋台の長椅子から立ち上がりやすいよう手を差し出した。



「でしたら、宿に帰って休みましょう? 寝れば幾分か楽になります」


「そのための酒だ、うだうだ抜かすな……」


「私と寝れば酒はいらないとおっしゃっていたじゃないですか。寝床が暖かいと酒なしでも安眠できると」



言った途端、私の手を取ろうとしていた魔術師様の動きがピタリと止まった。それから「いや、しかし……」と何度か言葉を口の中で転がした後、ゆっくりとした動きで私に向き直る。



「お前、さっきの商人とも寝たのか?」



その時の私は、よほどひどい顔をしていたらしい。聞いたはずの魔術師様の方が傷ついたような声で「悪かった、すまない」と謝り、地面へ視線を落とした。「あんまり、仲が良さそうだったから。」とつぶやく様子は叱られた子供のようで、なんだか可哀想になってくる。黙っていても気まずいだけだからと思い、羞恥で震えそうになる声を必死に抑えて、強いて優しい声音を作った。頰から耳にかけてが熱い、その事実がまた恥ずかしい。実力もないくせに、プライドだけはまだ一人前に残っているらしいから嫌になる。



「……彼とは寝てません。私の故郷の村まで仕送りを届けてくれるんです。いいやつです」


「あんた出世には興味なさそうなタイプに見えたが、そのためか。親が病にでもなっているのか」


「親は私が小さい頃に死にました。孤児院はどこの村でも貧しく、常に何かしらが足りませんから。育ててもらった身として当然のことです。……イビルザ様?」



魔術師様から返事はなく、ふらふらと立ち上がったかと思うとそのまま人混みの中へ入って行ってしまった。何か、機嫌を損ねたのだろうか。傷ついたような顔をしていたが、私が娼婦まがいの所業をしていることは、いったい彼にとってなんの不利益があるのだろう。私の頭がもう少しよければ、彼を傷つけることもなかったのだろうか。




◆◆◆




その晩、魔術師様は帰ってこなかった。




◆◆◆




酒の匂いと、吸えた汗の匂い、それから焦げた血肉の匂いが強く鼻を突いて目が覚める。明け方までは起きていたのだが、窓の外を見れば空はすっかり青く晴れ渡っている。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。


魔術師様は私が横たわったベッドの隅に腰掛けており、「俺は最低の野郎だ」と一言つぶやいた。



「エルフどもと人間とでは、魔力の絶対量がバカみたいに違う。それこそ赤ん坊の小指とオークの勃起したナニくらいの差だ。俺は天才だったが、種族の壁は超えられなかった。それでもなんとか見返してやりたくて、新しい呪文を必死こいて作った。なんだと思う?」



魔術師様のローブから、ひどく激しい血の匂いがする。いつも火の匂いこそすれ、こんなに濃い死臭がしていたことは無かった。怪我をしているのかと心配になったが、よくよく見れば衣服に破けているところはない。真っ黒なローブがてらてらと光っているのは、きっと全て返り血なのだろう。



「精神をいじる黒魔法だ。混乱なんてちゃちなもんじゃない。ただ服従させるだけの召喚契約とも、ちと違う。記憶を覗いて、いじって、都合のいい人間に改竄できる呪文。俺たちのパーティはそれのおかげで国に召抱えられることができた。王の頭をちょっと呪文で改竄してやりゃあいい。案の定、疑心暗鬼に陥った仲間が俺を殺しにかかったが、俺はそれも返り討ちにした。俺の虚栄心は絶頂だった。まぁ、普通に考えてそんなやつ国に置いておきたかないよな。誰よりも強くなった代わりに誰からも頼られなくなり、今に至る。モンスターを何匹殺せたって目的がなきゃ虚しいだけだ」


「……イビルザ様」


「なあ、俺は最低の野郎だ」



彼の目は、相変わらず獣のようにギラギラと光っていた。深い隈のある、血色の悪い痩せぎすの顔に、獰猛に輝く瞳だけが不釣り合いだ。どんなに酒で癒そうとしても、彼の心は変わることが出来ないのだろう。



「贅沢もせず、孤児院に仕送りをするために体を売ってるあんたを可哀想だと思う。相手はどうせクソ坊主だろ。俺も含め、反吐の出るような魂の腐った爺ばかり相手にせにゃならんお前を、可哀想だと思う。あんたが本当は望んで体を差し出してるわけじゃないことも知ってる。強くなれない苦しみは痛いほどわかるから、あんたを心底可哀想だと思う。でも俺は最低のクソ野郎だからお前が欲しい」



彼は泣いているようだった。この人は案外よく泣く。酒を飲んでいるからかと思っていたが、逆に酒で鈍らせないとこの人は繊細すぎるのではないかと、今ふと気づいた。



「ダンジョンを滅ぼして間抜けな忠犬よろしく尻尾を振ってる俺は、さぞ醜悪に見えるだろうな」


「……いいえ。あなたはいい人ですよ、イビルザ様。優しい人だ」


「お前にはそう見えるのか?」



もちろんだ。正直、なぜこの人がここまで私によくしてくれるのか分からない。容姿が好みだといったところで殴るなり脅すなりして従わせればいいものを、魔術師様はきちんと私の願いを叶えてくれた。この人が「クソ坊主」と呼んだ人々だって、私を騙すことも出来たはずなのに聖騎士の位を授けてくれている。小さい頃、私の父は私から全てを奪っていたが、何も与えてはくれなかった。魔術師様は父同様に哀れな方だが、父よりずっと優しい。



「それはあんたに惚れてるからだ。お前を手に入れるためなら、今の俺は子供や老人だって殺せる」


「……私より綺麗な人は、この世にごまんといますよ」


「ああ。でもそいつらはあんたじゃない。どうなんだ? お前は、この哀れな最低のクソ野郎に買われてくれるのか?」


「まだ、ダメです」



彼に抱きつくと、案の定彼のローブはグジュリと音を立て、私の鎧に乾いた血の破片がこびりついた。抱き合っているのに裸ではないというのは少し新鮮だ。



「今は昼ですから。……夜になれば、また子守唄を歌ってあげますよ」




◆◆◆




魔術師様と出会って一年が経った頃、ふいに、私の故郷を彼に見て欲しいという気持ちが現れた。考えてみれば今までそんな風に思わなかったことが不思議なくらいだ。貧しい村だが、夏になれば丘一面に花が咲く、美しい村だった。風車小屋も、私たちが育った孤児院がわりの神殿も、ありふれていて美しい。少し遠いが、私の育った大切な場所を、大切な彼に見て欲しかった。




野盗だろう、と彼は言った。魔物の荒らし方ではない。きっと金を奪うために殺し、ついでに燃やして行ったのだろうと。



「……こりゃあ、襲われたのは何年も前だ。あの商人、村が滅んだのを黙って荷を全て自分の方へ横流ししていたわけか」



魔術師様は何か言っていたが、全ての音が遠く、時間はひどくゆっくりと流れていた。



こんな貧しい村から一体何を取ろうというのだろう? 私以外に、この村を出て出稼ぎに行った若者などいない。私が、みんなが楽をできるようにと送った大金以外に、この村にはろくなものなどなかったはずだ。私が余計なことをしなければみんな死なずに済んだかもしれない。自分の頭の悪さが嫌になる。



花の咲く丘は無事だった。ここは思い出の場所だ。幼い私を、シスターはここへ連れてきて、話してくれたものだった。


この世の人間は皆、本来は善き人ばかりなのだ。弱さゆえに悪に転じることもあるが、それは一側面にすぎない。憎むだけではなく、愛することも大切なのだと。



その話は当時の私を優しく慰めた。父は弱さゆえに酒に溺れ、私や母を虐げたどうしようもない人だったが、本当は善人だったのだ。全ての人間は善人で、愛すべきところがあり、仮にどうしようもなく堕落した悪人がいたとしても、それはただ弱かっただけ。愛される資格はある。父を殺した私でさえも、きっと、誰かは愛してくれる。



気がつくと魔術師様が私のすぐそばまで来ていた。何事か呟き、そっと私の唇を指で撫でる。



私はこの村を襲った連中を、黙っていた商人を、自分を、人間を、どうやって愛せばいいのだろう。



「これは悪い夢だ。俺は最低の人間だから、君にとってどうなるのが幸せかわからなくても、こんなことができてしまうんだよ。寝て起きたら、これは悪い夢になる。朝には忘れてしまうくらいの取るに足らない夢だ。許してくれ、俺は、もうあんたなしじゃ眠ることができない」



常に獣のようだった彼の目は光が淡くなり、穏やかに私を見つめていた。その光に誘われ、手を伸ばす。彼は私の手を取り、彼の首へ回した。いつものあの匂いと掠れた低い子守唄に包まれながら、やっぱりあなたは優しい、とひとりごちた。




◆◆◆




魔術師様と出会って数年が経った頃、ふいに、私の故郷を彼に見て欲しいという気持ちが現れた。考えてみれば今までそんな風に思わなかったことが不思議なくらいだ。貧しい村だが、夏になれば丘一面に花が咲く、美しい村だった。風車小屋も、私たちが育った孤児院がわりの神殿も、ありふれていて美しい。私の育った大切な場所を、大切な彼に見て欲しかった。



しかし、そう伝えると彼はこう答えた。



「馬鹿なことを言うなよ、もう行ったじゃないか」


「え?」


「出会って一年目に行って、えらい歓迎のされようだったろう。俺ぁあんなのはもうごめんだね」



魔術師様に言われた途端、頭の中でたくさんの思い出が弾ける。そうだった、思い出した。孤児院のみんなが総出でパーティを開いてくれて、晩には村中で輪になって踊ったのだ。私の送った金は本になっていたらしく、孤児院の子供たちが字を読めるようになっていた。魔術師様に様々なことを聞こうとたくさん質問をしていた子供たちと、パーティにも関わらず酒が飲めなかったせいでふてくされていた彼の顔を思い出し、思わず吹き出してしまう。どうしてこんな幸せな思い出を忘れてしまっていたのだろう?

「……思い出したか?」


「ええ、でも、イビルザ様が父さんと馬が合っていたのは意外でした。うちの父さん、うるさいから……イビルザ様に失礼なこと言いませんでしたか?」


「いいや。元酔っ払い同士、気が合うのさ。二人ともお前のおかげでやめられた」


「そんなこと……」


「愛の力ってやつだろ」



そう言われると、少し照れてしまう。魔術師様は相変わらず私のことを好いていてくれるようだが、私の方はというと、よく分からなかった。もちろん好きか嫌いかで言われれば好きだ。でもそれが恋人同士の間にある感情なのかは分からないし、そもそも私は恋をしたことがない。散々私のために戦ってくれる魔術師様に対し、不誠実でしかない態度だ。しかし、魔術師様に恋しているような演技をするのはなおさら心苦しい。かつて一度、そのように伝えたが、魔術師様は怒りも呆れもしなかった。



『いいんだ、そのままでいい。』



それだけだった。



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