原稿用紙が終わるまで

春風月葉

原稿用紙が終わるまで

 私には二つの顔と名前がある。

 一つは平凡な女子高生の宇佐美鈴菜うさみすずな、そしてもう一つが小説家海月蒼うみつきあおいだ。

 海月蒼の作品はどれも他者からの好意に絶望している。そしてそれは人の好意を知らずに育った宇佐美鈴菜が原因である。

 鈴菜の両親は彼女が幼い頃に離婚しており、鈴菜は父の顔など知らない。また、鈴菜の母は美しい人ではあったが男遊びばかりしているような人で、娘のことなど興味がなかったため、鈴菜は両親の愛というものに触れたことがなかった。

 せめて母の美貌だけでも引き継いでいれば、誰かに好意を持たれることもあったのかもしれないが、鈴菜は知りもしない父に似て平凡な容姿だった。

 彼女は誰からも愛されず、誰の愛し方も知らないのだ。

 だから鈴菜は人の好意を知らない。

 だから蒼は人の好意を書けない。

 宇佐美鈴菜は、海月蒼は、決して自分に向くことのない好意に絶望しているのだ。


 私、宇佐美鈴菜は高校二年生になる。

 とはいえ私の毎日は女子高生らしい煌びやかなものではなく、誰かと言葉を交わすことも目を合わせることもない孤独なものだった。

 私がそんな孤独を吐き出し、誰にも必要とされない現実から逃げる先に選んだのは文章だった。

 ただ思ったことを書き綴っただけの私の文章はどういうわけか評価され、一年程前から私は海月蒼という名で小説家としての活動をしている。

 現実での女子高生としての全く必要とされていないというのに、小説家としての私は世間の一部に評価されている。

 だから私は必要とされていない女子高生の宇佐美鈴菜の時間を削り、必要とされる小説家の海月蒼に時間をかけている。

 部活動なんてくだらないし、友達なんていないから、私は今日この時も鍵のかかった校舎屋上の扉の前の踊り場にぽつんと置いてある机に原稿用紙を広げているのだ。

 その日、気まぐれで自由な春の風が屋上の扉の隙間を縫ってふわりと私のいた踊り場に入り込み、私の原稿を奪い取るとそのまま下の階まで逃げて行ってしまった。

 床に落ちた私の原稿は細い黒髪を両耳の裏で三つ編みにした一人の少女に拾われていた。

 少女は眼鏡に手をかけてじっと原稿を見て、少しの時間をおくと何かに驚いてバッと顔を上げた。

「これ、あなたのですか?」

 少女は私にぐっと顔を近づけて言った。

「え、えぇ。」

 久しく声を発していなかった私の口からはその程度の音しか出せなかった。

「じゃ、じゃああなたが海月先生なんですか?」

 少女はさらに顔を近づける。

 私は後ろに一歩下がるとコクコクと首を縦に振った。

 少女はパァッと明るい表情になり、私の手を強く握った。

「私、海月先生のファンなんです。あの独特の雰囲気が好きで、前作の主人公が人の気持ちから距離を置くことを決めたところとか、すごく印象に残ってます。」

 私はこの時、自分の鼓動が早くなるのを感じた。

 初めて自分に向けられた好意。しかし、どうしてそれが私ではなく海月蒼に向けられたものだと、私は気づけなかったのだろう。

 少女の名は水森杏子みずもりあんずというらしく、一つ下の学年の新入生だった。

 きっとこの時の私は自分の作品を、自分を認めてくれる彼女の存在を都合の良いものと勘違いしていたのだろう。


 水森杏子はいつも私のいる踊り場に来た。

 私はそれが嫌ではなかったし、むしろ嬉しかったのだと思う。

 彼女はいつも私に温かい言葉をくれた。いつだって私を認めてくれた。

 私は彼女から初めて好意を知ったのだ。ただ、それが絶望の始まりだった。


 水森杏子はいつも私が作業をしている様子を静かに見ている。そして作業が止まると私に声をかけてくる。

 以前に、恥ずかしいから見ないで欲しいと言ったこともあったがいつのまにか戻っていたので仕方がないと見られることは諦めた。

 少し原稿から目を離し、彼女の方を見ると目があった彼女はにこりと笑った。

 不思議な感じだ。彼女を見ているとなぜか安心する。


 杏子と出会って三カ月が経った。

 私は次回作の印刷が決まり、少し浮かれていたのかもしれない。

 上機嫌で家に帰った私を見た母はとても不機嫌で、お前は父親に似て醜い、だから誰にも愛されることはないと罵られた。

 少し前までなら酷く落ち込んだであろう母の罵倒も、この時の私にはどうでもいいことのように感じられた。

「うん、おやすみなさいお母さん。」

 私はそれだけ言うとその日は穏やかに眠った。


 数週間が経ち、私の新しい小説が販売された。

 きっと杏子は私の作品を読んでくれるだろうと、私は確信していた。

 杏子はいつものように私のいる踊り場にやって来た。

「先輩、最近作風を変えました?」どこか不満そうな様子で杏子が言った。きっと私の作品を読んでくれたのだろう。

 私はこの日、深く落ち込んだ。杏子は今回の作品についてほとんど触れなかった。

 彼女からの言葉が欲しい。彼女のために彼女の好きな私に戻らなくては。

 この時の私は焦っていた。


 いくら書いても私は以前までの自分の文章を書けなくなっていた。

 原因はなんとなくわかっている。

 きっと好意を知ってしまったからだ。そして好意を持ってしまったからだ。

 私は杏子のことが好きなのだろう。

 しかし、その気持ちは私から好意への絶望を奪い、そうしてただの小説家になった私のいる踊り場に杏子はほとんど来なくなってしまった。

 杏子に会いたい。でも今の私には彼女の振り向いてくれる作品は書けそうにない。

 私の中の好意だけが焦りと共に加速していく。好意なんて知らないままでいられたなら、こんなに苦しくはなかったのだろうか。


 私はついに終わりを迎えた。

 杏子に会えないことに、我慢ができなくなったのだ。

 私は彼女の教室まで歩き、久しぶりに声を出した。思えば杏子が踊り場に来なくなってからは声なんて出していなかったかもしれない。

「杏子。」

 杏子は他の生徒から私が呼んでいることを教えられてこちらに向かってきた。

「お久しぶりです。先輩、どうしました?何かご用ですか?」

 杏子は首を傾げた。

 私は着いてきてほしいと言っていつもの踊り場に向かった。


 踊り場に着くと私は杏子に言った。

「私は杏子が好きみたい。でも誰かを好きになって、今までのような作品は書けなくなってしまった。」

 杏子はゆっくりと口を開いて言った。

「ごめんなさい先輩、私が好きだったのは先輩の小説であって、先輩じゃあないんです。それに、今の先輩の小説はもう私の好きだった先輩の作品じゃありません。だから…ごめんなさい。」

 それは私にとって死刑宣告のようなだった。

 宇佐美鈴菜としての私には興味などなく、好きだった海月蒼としての私さえ、今はもう好きでいられないと言われたのだから。

 私はその時間を永遠のように感じた。


 結局、私に向いた好意なんて一つもなかったのだ。

 私はそれなのに好意を知った気になっていたのだ。

 ああ、虚しい。

 きっと杏子は今の私を認めてくれるだろう。

 そして、この作品を読んでくれているだろう。

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原稿用紙が終わるまで 春風月葉 @HarukazeTsukiha

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