午前1時半の再会


 恵来庵から歩くこと約5分。再び舞い戻ってきた我がバイト先。正面がガラス張りの店内は、客席の明かりが全て落とされている。

 しかし入り口付近に設置されたエスプレッソマシンだけは、バーカウンタのライトに照らされて美しい輝きを放っていた。これは魅せる演出だ。クローズ後でも、店を格好良く見せるテクニック。まぁ、そんなことは今どうでも良い。とりあえず、店の正面には誰もいないのはわかった。次は本命の裏口である。

 まさか、いるわけないよな。そう思いつつ裏口に回ってみると。


 果たしてそこに、女の子はいた。それも体育座りで顔を膝に埋めている。いやマジかよ。完全に家なき子じゃねーか。それか家出少女。思わずおれは、声をかけてしまった。


「おい、大丈夫か?」


 おれの声に反応する、膝に埋めていた顔を上げるその子。間違いない、さっきの子だ。透き通るような色白の肌。それに栗色のショートカット。さっきは気がつかなかったけど、彼女の姿はわりと薄着だった。結構冷えるのにコートすら着ていない。薄手のマウンテンパーカだけ。


「大丈夫かって聞いてんだ。キミ、さっきまでここに居た子だろ」


「ええと、なんのことかな。多分、人違いじゃないのかな。私、ここに今来たところだけど」


「キミを探してたんだよ。さっきここから逃げる時、お金落として行かなかったか? また会えたら返そうと思ってたんだ」


「あ、それきっと私だ!」


「やっぱ来てたんじゃねーか!」


「……あっ、いやその、」


 しどろもどろになりながら。いや言い訳するのを早々に諦めたのか、彼女はキツイ視線で噛み付いてくる。


「私を騙したんだね! 酷い! 悪魔! 人でなし!」


 喜びの表情から一転、ぶんむくれになって怒っている。表情がコロコロと変わる子だ。しかしこの程度の罠にかかるとは、あまりにお粗末だろう。騙しといてあれだが、なんか可哀想になってきた。よほど困っているのだろうか。騙してしまった罪悪感に苛まれていると、彼女がさらに食ってかかってきた。


「……よくも騙してくれたね! 許さないんだから!」


「まぁ待てよ、まずは落ち着け」


「落ち着いてるよ、私は!」


 いや全然落ち着いてねーだろ。と、突っ込みを入れたいのは山々なのだが。そうすると確実に話が進まないのでやめておくことにする。


「おれは佐藤。この店でバイトをしている男だ。で、キミの名前は? こっちは名乗ったんだ、せめて名前くらいは教えてもらうぞ」


「ええと……」


「どうした、名前も言いたくないのか」


「……警察に突き出したりしない?」


「話をしてくれるならな。キミもなんか事情があってここにいるんだろ。通報したりはしねーよ。ゆっくりでいいから話してくれ」


 出来るだけ、優しい言葉をかけてみた。それを受けた彼女は少し逡巡する。

 そして何かを決意したのか、それとも諦めたのか。微妙な表情で、ゆっくりと話し始めた。


「私ね、行くところがないの」


「家がなくなったのか?」


「ううん、それは元々ないの」


「どういう意味だ、それ。このあたりの人間じゃないってことか? どこか遠くからこの街に出てきたとか?」


「まぁ、そんなところかな。この辺りの人間じゃないって言うのは、合ってるよ。行くところがないからね、人様の迷惑にならなそうな所で休んでたの」


 なるほど。しかしこう言ってはアレだが、飲食店の裏口で休むという行動は理解に苦しむと言わざるを得ない。他にも休めるところはあるだろうに、何故よりによってここなのか。

 衛生的にも良くないし、何より寒い。普通の人間ならまず取らない選択肢だろう。


「ごめんね。やっぱり迷惑だよね。移動するから、許してほしい」


「許すも何も、おれはここの管理者じゃない。でもここは寒いし衛生的にも良い環境とは言えねーからな、ここから移動するのには賛成だ」


「例えばどこがあるかな。人様の迷惑にならなくて、出来れば誰も来ないところ。どこか知らない?」


「なぁ、その前にひとつ訊いていいか」


「なに?」


「いつからそんな暮らししてるんだ。まともに生活できないほど困窮してんなら、役所とかに申請すればどうだ」


 おれは彼女に問うのだが。彼女は「そういうのは、出来ないんだよ」と曖昧に笑うだけ。その顔を見て、彼女が本当に困っているのではないかと、そう思えた。だからだろう。彼女を助けてあげたいと思ってしまったのは。


「いや出来るハズだ。何ならおれが調べてやってもいい。つってももうこんな時間だからな、明日の朝の役所が開く時間までは待ってもらうことになるけど」


「キミってさ、お人好しだって言われない?」


 クスリと彼女は小さく笑う。小馬鹿にされているのか、とも思ったけどそうではないみたいだ。続く彼女の言葉。それは感謝の言葉だったから。


「私、こんなに優しい言葉をかけてもらったのは初めて。ありがとね、嬉しかったよ」


 そう言った彼女は立ち上がり、ぺこりとおれにお辞儀をした。そして緩やかに歩き出す。俺は咄嗟に彼女を止める。まだ話は終わってない。


「待てよ、どこに行くつもりだ」


「移動しないと、でしょ? どこか探すよ。人様に迷惑がかからない場所を」


「夜はこの気温だぞ。下手すりゃ死ぬぞ、マジで」


「もう1週間くらい外で過ごしてるけど、全然大丈夫だったよ。だからきっと、今日も大丈夫。それに寒いところは得意だから。と言うよりも、寒いところじゃないとダメなんだ、私」


 彼女は乾いた笑いをした。誰も助けてくれなかったのか、それとも誰にも助けを求めなかったのか。今まで無事だったのが不思議なくらいだけど、この状況を見て「はい、さよなら」は出来ない。それに寒いところじゃないと駄目だなんて、自殺志願者にしか思えない。

 お人好しの自分がバカに思えるが仕方ない。生来の性格というものは中々変えられないのだから。

 それに彼女の表情。その乾いた笑いが、何かを諦めてしまったように見えて仕方ない。

 やっぱり彼女を助けてあげたい。純粋にそう思った。


「なぁ、なんで1週間も外で過ごしてるんだ? 何かから逃げてるのか?」


「逃げてる訳じゃないよ。ただ待ってるだけ」


「何を待ってるんだ」


「聞いても笑わない?」


「笑わないよ。教えてくれ」


「……私はね、春が来るのを待ってるの」


 何かを決意しているような、その表情。冗談を言っている訳ではなさそうだった。


「春が来るまで、私はこの街に居たいの。ただそれだけ。勝手にお店の裏口で休んでて、ごめんね。もうここには来ないから」


「だから待てって、」


「……キミってさ、本当にお人好しだよね。それに事の本質が見えてないよ。それじゃ、さよなら。優しい言葉をかけてくれて、ありがとね。嬉しかったよ」


 そう言い残し、脇を抜けて行こうとする彼女。その手を、おれは思わず取ってしまった。

 それが本当の意味での、始まりだったのだと思う。


 彼女のその手。

 凍るように冷たい、その手。

 いや、比喩ではない。本当に凍るような温度。明らかにじゃない。思わずその手を離してしまうほど、その手は凍て付いていた。


「……その手、どうしたんだ」


「これが私の普通だよ」


「普通じゃないだろ、なんでそんなに冷たいんだよ」


「ユキノセイだから」


「雪のせいだ? 雪なんてここんとこ降ってないだろ」


「そうじゃなくて、だよ。お伽話に出てくるような、雪の精霊。聞いたことくらいあるでしょ?」


 彼女はクスリと小さく笑う。そしてそのまま、文字通りの氷みたいな微笑で続けた。


「私は人間じゃないの。さっき言ったとおり、雪の精。雪女って言った方がわかりやすいかな?」


 ……絶句した。信じられない。そんな話、現実にあるはずがない。だいたいおれは理系の大学生だ。そんなファンタジーとは対極に位置する人間なのだ。

 でも、彼女の手の温度。あれは明らかに人間のものじゃない。だとしたら。本当にそうなのか。本当に彼女は、人間ではないのか?


「どう? 人間じゃない私でも、キミは助けてくれるの?」


 笑う彼女に、二の句が継げない。でも、そうだとしても。彼女が人間じゃなかったとしても。

 それでもおれは、こうして寂しく笑う彼女を助けたいと思ったのだ。


「……もう一度言うぞ。おれは佐藤。佐藤楓さとうかえでだ。こっちはフルネームで名乗ったんだから、そっちも名乗ってくれ。名前を知らないのは今後、どうしたって不便だからな」


 少しだけ目を丸くした彼女。でもすぐに笑顔に戻って、こう言った。


「サトウカエデ? 甘そうな名前だね。女の子みたい」


「よく言われるよ」


「私はユキ。苗字はないんだけど、これからは冬野ふゆのユキとでも名乗っておこうかな」


 おれは彼女に手を差し出した。握手をしよう。そう目で訴える。

 彼女は少しだけ目を丸くした後で。ゆっくりと、でもしっかりとおれの手を握ってくれた。


 その手はやはり、驚くほど冷たい。


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