「また会いに来たよ」

薮坂

冬の終わりの邂逅



 春は出会いと別れの季節である。

 少しずつ空気が暖かくなってきた3月のこと。おれはひとりの女の子と出会い、そして別れた。

 その出会いは偶然だったのかも知れない。でも別れは必然と呼べるものだった。

 別れることがあらかじめ決まっていたら。出会うことに意味なんてあるのだろうか、とも思うけれど。

 でも、その出会いには確かに意味があったのだと思う。

 新たな出会いは何のためにあるのか。それは。

 自分を変えるためにあるのだと、おれはそう思う。



 ──────────────────



 全ての作業が終わった、午前0時を大きくまわったころ。レジを締めてドロアを耐火金庫に入れ、カギをカチリと締め終える。立ち上がって背伸びをすると、身体からコキリと気味の良い音がした。

 あぁ、わりと疲れてんな。身体をもうひと捻りすると、今度はパキリと乾いた音が鳴る。あぁ、やっぱり疲れてる。


 長い長い大学の春休み。特にすることもないおれは、こうしてほぼ毎日バイトに勤しんでいた。店の名前はスターダックスコーヒー。緑のアヒルが目印の大手コーヒーチェーンだ。

 真面目に働いていたからだろうか。学生の身でありながらおれは、会社から「時間帯責任者シフトスーパーバイザ」というさしてありがたくもない資格を与えられている。要は、社員がいなくても店を回せるという代理社員みたいな権限だ。その時給は1200円。

 普通のバイトよりは割りが良いのかも知れない。でももちろん、デメリットもある。こうして1人、寂しく店を閉めないといけないところとかがそうだ。在庫管理とか発注とかもそう。

 バイト仲間たちは終電の関係で先に帰ってしまっている。店から家まで歩いて1駅というおれが、だからこうして1人で残るという訳だ。


 あれだけお客さんが入っていた営業時間とは違い、今はひっそりと静まり返る店内。戸締りを確認して、バックルームから外に出られるスタッフ専用の鉄扉の前へと進む。

 機械警備のカードをスロットに差し込むと、「オツカレサマデシタ」と機械音声が聞こえた。お前もお疲れさん。心の中でそう独りごちてみる。

 さて、仕事の後は腹が減る。帰りに何か食べて帰ろうかと、勢いよく鉄扉を開けると──。


「痛ったぁー!」


 扉の向こうから大声。そして扉から伝わる確かな手応え。これはまずい。まれにあるヤツだ。誰かに思い切り扉をぶつけた、ある種の事故である。


「痛い痛い! なんでそんな勢いよく扉開けるのよ!」


 扉の向こうには、少し背の低い女の子がいた。年齢はおれと同世代くらい、だろうか。

 色白な肌に、さらりとした栗色のショートカット。それがその小柄な身体によく似合っていた。

 女の子は、後頭部を抑えて少し涙目になっていた。まさか扉の前に座っていたのか、この子。


「どうしてくれるのよ、痛いじゃんか!」


「……すいません、そこに人がいるとは思わなくて。大丈夫ですか?」


「許さない、これは賠償モノだよ! だからお金ちょうだい!」


 こっちは敬語で対応したのに、その女の子はなかなかの勢いで訴えてきた。いやいや賠償て言われても。しかも要求が金って、それは些かストレートにすぎるだろ。

 新手のタカリなのか、この子。そっちがその気ならもう敬語なんてヤメだ、だいたい店は営業時間外。つまりこの子は客じゃない。


「あのな、ここはスタッフ専用通用口だぞ。それにこのビルの裏口だ。関係者以外立ち入り禁止って書いてるし、それに扉開閉注意とも書いてある。そもそもキミはここの関係者なのか?」


「関係者じゃないよ、ここで休んでただけ!」


「いやいや、ここは休むようなところじゃない。3月とは言えまだ寒いだろ、こんなビルの裏口は」


「どこで休んでようが勝手でしょ?」


 非難がましい目で訴える女の子だが。生憎おれは、こういうクレーマーには慣れている。ダテに時間帯責任者をやってる訳じゃねーんだよ。


「なるほど。キミは関係者じゃないと言ったな。ならキミのした行動は建造物侵入罪に当たるぞ。管理者の許可なく建造物に侵入してはならない。刑法130条にそう書いてある」


「え、刑法……?」


「つまりキミは犯罪者だ。今から警察に突き出してやる」


 おれがポケットからスマホを取り出して、耳に当てようとすると。女の子は「ごめんなさいっ!」と勢いよく頭を下げ、そのまま踵を返し脱兎のごとく逃げ出して行った。速い。もう見えない。

 もちろん、警察に連絡するつもりなんてなかった。あくまでフリであったのだが、ちょっとやりすぎてしまったのかも知れない。もしかしたら、あの子は本当に困っていたのかも知れないし。


 ……ま、いいか。どうせもう会うこともないだろう。

 それより腹減ったな。よし、今日はごま味噌つけ麺を食べよう。今日はちょっと寒いから。

 おれは首をコキリと鳴らすと、いつものラーメン屋に足を向けた。


 

 ────────────────



 恵来庵と書かれた暖簾をくぐると、途端にメガネが曇った。むっとした熱気。この店にはラーメン屋の店長ぽくないスラリとした美人の店長がいる。女性のラーメン屋の店長という存在は珍しいかも知れないが、しかしその店長が作るラーメンとつけ麺は正直言って無類である。

 ちなみに「恵来庵」とは「メグライアン」と読むのが正しい。店長がかなりのメグライアン好きだと言うとこで付けられた名前。名前は完全にふざけているが味は本物だ。


「いらっしゃい! あれ佐藤ちゃん、今日はひとり?」


「店長、こんばんは。おれはいつもひとりっすよ。前回もひとりだったでしょ」


 ちなみにおれはこの店の常連である。バイト先とも近いので、ここの店長もウチの店にコーヒーを買いに来てくれたりする。いわゆるご近所さんってヤツだ。


「こないだのあの可愛い子は? ほら、バイト仲間って言ってたあの子。仲良さそうだったじゃん」


「あの子なら、最近彼氏が出来たみたいです。この前一緒に来た時も、相談聞いてただけですよ。おれはそんな役回りばかりだから」


「なるほどねー。まぁ、佐藤ちゃんいいヤツだから、きっとその内いい出会いがあるよ! 失恋は、次の恋への香辛料ってね」


「いやいや、別におれ失恋してませんし」


「またまた、強がっちゃって。ホントはハートに風穴ってヤツじゃないの? 今日はサービスするよ、いつものでいい?」


「いつものでお願いします」


「あいよ!」



 ……待つことしばし。目の前に、石焼ビビンバの器に入った、グツグツと煮え滾るつけダレと大盛りの縮れ麺が運ばれてくる。

 これが恵来庵の「ごま味噌つけ麺」だ。おれが今まで食べてきた、数あるつけ麺の中でも堂々のナンバーワン。

 まずつけダレがグツグツに煮え滾っているのがいい。つけ麺は終盤、どうしてもつけダレが冷めてしまう。しかし保温性の高いこの石鍋に入れることによって、終盤になってもあんまり冷めないのだ。

 さらにはこの肉厚チャーシュー。あえてあっさりめに作ってあるのだが、濃厚なつけダレにダイヴさせることで完全に覚醒するニクいヤツ。

 お次は黄金色に光る自家製多加水麺。シコシコとした歯ごたえで絶妙なコシがあり、麺の縮れがこのつけダレにこれでもかと言うほどよく絡んでくれるのだ。

 最後はその縮れ麺の上に乗っかっている多量の白髪ネギ。こいつの爽やかな辛味とシャキシャキ感が良いアクセントになっていて、もうなんていうか控えめに言っても最高。おれは何を食べても美味いと感じる貧乏舌なのだが、このつけ麺は次元が違いすぎる。

 濃厚で塩分濃度が高すぎて、毎日食べるのはリスキー過ぎるところが欠点と言えば欠点かも知れない。今週すでに3回目。マジでちょっと抑えなければ。さて、いただきます。

 黄金色に輝く麺をつけダレに潜らせて、口の中へ。

 あぁ、やっぱり美味い。生きてて良かった。


 それからしばらく、つけ麺を楽しみながら店長と雑談をした。平日の午前1時前。まもなく閉店、つまり店が一番空いている時間だ。店長と、このあたりの飲食店事情について意見交換をする。

 あのビルのオーナーがテナントを探してるとか。例の油そば屋が夜逃げしたとか。新規のラーメン屋が向かいの筋に出来るらしいとか。大手コーヒーチェーン、つまりうちとは同業他社がこのエリアに新規参入してくるだとか。

 その中で一際異彩を放っていた話題。店長はそれを語りだす。


「ねぇ、佐藤ちゃん。最近ここらの飲食街でウワサになってる『家なき子』って知ってる?」


「家なき子? 何ですか、それ」


「女の子らしいんだけどね。家が無くて、夜に飲食店の裏口とかで休んでるらしいんだよ。先週くらいからかなぁ、度々目撃されてるみたい。佐藤ちゃんのトコの裏口もさ、人がひとり休めるスペースありそうじゃん? 気をつけておきなよ」


「気をつけるって?」


「もう3月とはいえ、深夜はこの気温だよ? 店の裏で凍死でもしてたら可哀想じゃんか。それに、お店への風評被害だってあるかも知んないし」


 なるほど確かに。まぁ単なるバイトのおれに、そこまで店のことを心配する必要はないのだが。

 それにしても家なき子か。同情するなら金をくれ、なんて言ってくるのだろうか。

 何も飲食店の裏口なんかで休む必要なんてない。家がなくなっても、この現代社会には色々とセーフティネットがあるのだ。生活保護の申請とか役所の更生施設とか。調べれば他にもたくさん。

 女の子だったら、助けてくれそうな人は他にもいると思うんだけど。って待て。その女の子ってさっきのヤツか、もしかして。


「ねぇ聞いてる? 佐藤ちゃん」


「店長、もしかしてその家なき子って、ショートカットの女の子ですか。色白でわりと背の低い」


「いやあたしは見たことないんだけどさ、どっかで見たの?」


「今日、店出る時に居たんですよ。裏口の扉の向こうに、女の子が。それで、その子を扉で強打してしまいまして。その時に賠償だとかお金くれとか言われたから、警察に通報するぞってフリしたら逃げて行きました」


 あ、その子かも知んないね! 店長は目を丸くして言う。だけど続く言葉は、慈愛に満ちたものだった。


「でもその子が本当に家もお金もなくて困ってんだったらさ。ウチのラーメンくらいだったら、ご馳走するのにな」


「また会ったら伝えときますよ。恵来庵でラーメン奢ってもらえって」


「佐藤ちゃん、頼んだよ!」


 ごちそう様を店長に言い、恵来庵を後にする。

 家へと向かう方向とは逆に足を進めた。一応確認だ。その子がウチの店の裏口にいなかったらそれでいい。探し回る気なんてさらさらないけど、せめてそこだけは見ておこう。

 なぜか義務感のようなものに駆られて、おれは店へと向かった。

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