日曜日の沈澱

祭ことこ

1

それは日曜日のこと。

 彼らがわたしを呼ぶ。

 水たまりの向こうからだ。決まって、日曜日には彼らの夢を見る。水たまりに落ちる水滴が、声を発している。顕在世界ではありえないような光景。物理法則をまるで無視した声。


 ここに来い。

 中に入れ。 


 ここというのは水たまりの中だ。わたしは水たまりに足を踏み出す。わたしには足がある。夢の中でくらい、まっとうに歩けるのは嬉しいことだ。足先から、底などないかのように落下する。浮遊感がある。落ちているのに。身体というのはそういうものなのだろうか。無限に続くのではないかと思われる落下は、中空で静止する。

 ここに空気はあるのだろうか。空気があれば、摩擦熱が発生してもいいはずだ。そんなに早く落ちていたら、わたしはとうに燃え尽きているのかもしれない。ここに空気がないのなら、彼らはわたしに語らないはずだった。

 わたしは『ある』はずなのに、あることによる制約を受けずに、落ちていく。

 するすると絹を裂くように。耳を刺す音はしない。無が広がっている。無を聞くことはできない。

 そして、布地が終われば絹は割けない。存在するものの比喩で表そうとするのが間違っているのかもしれない。わたしは本来存在しないはずなのだから。

落下する空間が終われば落下は終わる。

 そのようにして彼らに出会う。

 そしてわたしは彼らを見る。

 彼らはわたしの身長を何十倍もした高さと、わたしとは比べ物にならない質量を持つ。たまに、光を反射してきらきらと輝く。どこから光が入ってくるのだろうか、見上げてもわからない。辺りは闇だ。そんなことをしていてはならない、早く選択せよ、と、彼らの声はわたしを急かす。

 急かさなくたっていいじゃないか。これは――どうせ、夢なんだから。

 そういえば、わたしは彼らと呼んでいる。夢を見ているのだから、わたしが夢を見ているのだから、わたしの一部であることは確かなのに。それともわたしがその一部なのか。なのにその身体は外部だとしか思えないし、彼らはわたしを呼ぶのだ。


 ここに来い。

 中に入れ。


 手を伸ばすと彼らの中に入ることができる。指が冷たい。腕まで入れると全身が冷えていく。存在しているかのような冷たさ。わたしは夢を見ているから、そのもの自体は存在していないはずだ。耐えられないほどの寒さではない。

 しかしその存在しない身体が、冷たさを感じる。覚えていられる。水にしてはぷるぷるとしている。大きなゼリーがあったらこんな感じなのだろうか。どれだけ大きな冷蔵庫があればこれを冷やすことができるのだろうか。ゼリーの型はどれくらいのサイズなのだろうか。

 通例、ゼリーはスプーンの侵入を拒まない。

 そのように、彼らはわたしの手を止めない。

 引っ張り込まれる。わたしと彼らの境はなくなる。なくなっているのに、わたしはわたしであるという認識ができる。彼らは彼らで、わたしはわたしだ。同時にわたしは彼らでもある。これが工場とは異なる点だ。

 工場で何が起こっているのかわたしは覚えていないし、記録を照会しても出てこない。思い出したくもないのだけれども。

 『きみたち潜在人は――今は顕在しているが――それにしかできない労働がある。きみたちは選ばれているんだ』

 あの入社式の文言が浮かんでくる。苛立たしい。アクセス料金を払っていないのに記憶なんか使ったら使用料を取られる。

だめだこんな思考をしていてはいけない。

 彼らに沈むことだけを考えよう。

 わたしは彼らに沈んでいく。思考が広がる。わたしは彼らいっぱいに広がりながら、下へと沈んでいく。その感覚とは逆行して、視点そのものは天にある。

 星には届かないが、この街で一番高いビルよりは高い。

 そう、わたしは街を見ているのだ。実在都市。この先わたしなんかが入ることが一生ないであろう街。あの頃わたしがいられた実在都市は、こんなものではなかった。この歳に比べれば豆粒みたいな存在だ。なぜ、これが実在都市だとわかるのか。

 それは彼らが教えてくれるからだ。知ろうと思えば、なんだって知れる。指がわたしに語る。これはコヴェナント。実在都市のうち、地上で最も大きいもののひとつ。夜のコヴェナントは、ビルの灯と街灯できらきらと輝いている。それらのひとつひとつに顕在人がいるのだろう。普通の潜在人が見ることがない光景。耳がわたしに触れる。何が見える? 何をなす? あなたは自由だ。


 自由!


 しかしそこには自由はない。わたしの自我に自由はない。あるのかもしれないけれども、選択ができない。二本の道があって、片方の行く末に崖が見えるのならば、それを自由と呼ばないのと同じ。

 わたしは歩きたいと思わない。わたしは飛びたいと思わない。わたしは転がりたいとは思わない。

 だってわたしは正義の味方だから。正義かどうかはわからないが、わたしの意思よりも使命を優先するんだから、そう呼んでくれたっていいんじゃないだろうか。彼らはそんなことをしてくれないので、わたしは、わたしについて、わたしを正義の味方と呼ぶ。

 正義の味方として、倒さなければならないものがある。ボールだ。

 今日はオレンジ色をしている。赤い日もあるし、青のときもある。色は違うが、一様に球状である。大きさはだいたい、一番小さい建物と同じくらいだ。

 そのような大きさだから、もちろん、道路を塞いでしまう。建物の上にあることもある。質量はろくにないようで、建物の上にあったとしてもその建物を壊すことはない。

 そいつを壊すと、コヴェナントは木っ端微塵になってしまうのだ。彼らがそう言っている。

 ような気がする。

 

 わたしは大きく、彼らも大きい。その足で踏めば、ボールは破壊されるだろう。

 わたしはそのボールに対して価値判断を行えない。なんなのかわからないからだ。だけれども、彼らは行う。

 これは破壊しなくてはならない。

 なぜなら街を破壊したいからだ。

 これが自分の意志ではないという確証はない。だからといって、彼らを無視することはできない。わたしはわたしだから、彼らの身体を動かさない権利はある。

 何も考えない権利もある。

 だからわたしはボールを踏み潰す。

 ボールはあっけなく壊れる。光の粒が拡散され、ぱちぱちとまたたいて消える。

 それからわたしは目を覚ます。

 

 目を覚ます。自我を保てるぎりぎりのサイズで顕在しているわたしは、ニュースを見る。そんなささいなことにさえ、思考サイズの多くを割かなければ実行できない。それがわずらわしい。月曜日のトップニュースだけは、見ておきたいのに。

 『これ以上の顕在化は別途料金がかかります』

 パーソナルトレーナーから警告音声が届く。生活保護ラインの賃金では、別途料金なんて払えない。わたしは否とパーソナルトレーナーに伝える。

 この顕在レベルでは、テキストを理解するのがギリギリだ。画像を見るための機関は、けっこうな額がする。

 『昨晩、コヴェナントで爆発が発生、原因は未だ不明、解明の糸口はなく、これらは昨今の連続爆破事件との関連を――』

 それと同時に、限りなく簡略化された地図が表示される。その中心に、赤い円がある。爆発半径を示しているらしい。

 都市に実際に行ったことなんてないのに、わたしにはわかった。あの路地だ。わたしが夢に見た路地だ。

 オレンジのボールを踏み潰したところだ。

 そこが爆発したのであった。

 せっかくなら木っ端微塵になってくれたら良かったのにと思う。

 毎回こうなる。わたしが日曜日に見た夢の中で、わたしが踏み潰した――彼らが踏み潰したところで、なにかが起こる。

 その何かは、たいてい破壊行為だ。塀が崩れたり、家に隕石が落ちたりしている。

 しかし、そんなことはどうだっていい。だって、街に住んでいるのは、顕在人だ。眠るときにさえ、この世界に存在していられる、特権階級なのだ。

 特権階級を攻撃することは、わたしたちの権利である。

 ここはネバーランドではないから、一呼吸のたびに顕在人が消えていくなんてことはできないけれど、わたしたちが集まれば、少しは牙を向けられる。

 わたしたちとは? そんな疑問が浮かぶスペースはない。これまで使われてきた人称とは、異なる数ではあるが、そいつがどこからやってきたのか、わたしは認識の俎上に上げることができない。

 これが『存在しない』ことなんだと、認識することができない。

 わたしたちにはそれが悲しい。

 わたしの思考に戻ろう。わたしはすれすれの顕在レベルで、そのニュースを理解した。その御蔭で、どうでもいいという感情が浮かんだ。感情の詳細を精査するほどの時間はない。

 コヴェナント。どこかで聞いたことのあるような名前だ。メモリにアクセスできれば、もしくは辞書を引けば名前の由来くらいはわかるだろう。顕在都市にはだいたい、ちゃんとした由来がある。親がいて、子供がいるように。家族にも似た共同体を、顕在都市は作っている。

 そんなものがひとつやふたつなくなったところで、眠りにすら存在できないわたしはどうだっていい。

 

 このどうだっていいという感情だって、『家』から出たらなくなってしまうのだ。

 正確に言えば、アクセスできなくなるだけなのだが。

 ドアを開く、『通勤電車』がわたしを連れ去る。駅まで歩かなくていいのがこの家の利点で、『通勤電車』はドア・トゥ・ドアでわたしを工場へと導く。外観がどうなっているかは知らない。中がどうなっているかも知らない。

 顕在レベルを最低限まで下げる。下げきる一瞬で、わたしはちらりと車内を見る。なにもないがある。なにもないがたくさんある。わたしのようなものども。わたしは労働者だ。潜在人として、部品として、仕事をする。

 

 仕事をしているときのことをわたしは思い出せない。わたしたちの多くはそうやって仕事をしている。

 『きみたちは選ばれているんだ』

 面接のときに言われたフレーズだ。面接といっても、顕在しないことを労働の条件にしていれば誰でも通るようなところだし、そのときわたしは潜在していた。だから大量の非存在に対してそう言っていたのだろう。

 面接官は顕在人だった。当然のことだ。

 『きみたちは存在しないことを選んだんだ』

 選んではいない。

 存在すると苦痛がある。存在しなければ苦痛はない。

 その仕組を利用したのがこの手の工場であった。顕在人と同じようには存在しないのに他の様態で現実に鑑賞することができうるという潜在人の特性を利用して、顕在していれば間違いなく苦痛に感じるような作業に従事させる。そもそも、顕在から潜在に移行すること、またその逆の苦痛を顕在人の多くは知らない。仕事の間の記憶は、どうとでもなる。わたしたちは潜在しているときの思考を顕在時に持ち越すことはできないからだ。

 というよりは、潜在時の記憶を顕在時に想起しようとすると、不完全かつ意図の伝わらないものとなる。

 フラットランドがあるとしよう。その住人は二次元にしか存在しておらず、顕在人からしてみれば紙の上の存在だ。

 フラットランドの住人が三次元にも存在するというとき、三次元にいたときのことを二次元でも同じように思い出せるだろうか。『高さ』という概念を扱えない世界で、高さのことをどうやって思い出すのか。また、二次元の記憶を三次元にも同じように持ち越せるだろうか。平面でしかないところでの移動は、三次元からすれば意味のわからないほど迂遠で、まどろっこしく、その意図すらわからないのではないだろうか。

 こちらとしては最も単純な経路を選択したにもかかわらず、あちら側からはよくわからない移動になってしまう。

 それに近い。

 わたしたちの場合は、次元よりも飛び越えるのが難しい、存在を飛んでいるわけだけれども。それも、零次元と一次元の差のようなものなのだから、本質的ではないのかもしれない。

 

 存在しないのに仕事をできるというのはどういうことか。それは、わたしたちが集合になれば『集合体』として物理的世界に横から干渉できるからだ。

 というような説明を受けた記憶がある。説明はよくわからなかったし、もしこれが完全に理解できるなら大学に残って顕在人として研究できたはずだ。

 そうやって稼いだ金で、わたしはたまに存在することができる。明日は彼女とランチだ。タイマーをセットする。

 明日の朝八時、わたしは顕在するだろう。

 

 日曜日ではなかったので、夢は見なかった。

 指がある。

 朝起きた感想はそれだ。

 タイマーにセットされた時間にわたしは顕在する。それはわかっていたし、顕在するのだって久しぶりじゃない。それでも、身体が存在し、自我が存在し、自我によって身体が動かせる感覚。これには慣れない。

 生まれたときからずっと顕在している人にはわからないだろう。わたしだって結構長い時間顕在していたのに、大人になったら潜在生活に戻ってしまったので、こんな体たらくだ。この国では、戸籍の届け出をした子供は義務教育までは税金で顕在していられる。両親が潜在している場合は、多くの場合顕在コストを払えず、戸籍を届け出ることすらできない。わたしの場合は祖父の保険金でどうにか顕在して、わたしに義務教育を受けさせてくれたし、大学にまで行けた。

 これは幸運なことだ。

 それにしてもだ。

 部屋を見回す。ひどいありさまだ。

 インターフェース越しではないリッチな情報として部屋を見るのは、もちろん前回に顕在したぶりだ。一月くらいだろうか。潜在していると、どうしても存在に対する情報感度が落ちる。どうだっていいじゃないかと思ってしまう。だって床にゴミが転がってたって、消費期限のとっくに切れたペットボトルが落ちていったって、嗅覚や視覚を感じないならばないのと同じだ。

 データとしては理解されるから、ペットボトルを飲むことはないけれども。飲んでも、味覚を直接に刺激しないならば、あまり不快感はないはずだ。

 しかし、こうやって見ると違う。中身の濁ったペットボトルなんて、拾うのも嫌だ。

 潜在時にはつい片付けを後回しにしがちだというのは、わたしもわかってはいた。潜在時は不快感がないし、顕在したときの記憶はぼんやりとしかない。そうなると、まあ、こういった結果となる。

 残念ながら、これを片付ける暇はない。適切な服を着て、出かけなくてはならない。

 ドアを開ける。いつもの『通勤電車』ではない。外に出る。久々の知覚できる外だ。

 潜在都市から顕在都市までは、電車で行くことができる。

 電車だって、生の人間がたくさん乗っている。ちょうど互いの肩が触れ合うくらいだ。顕在人は場所を取るし、圧迫感もあるし、誰かは香水をつけているようだ。話をしているものもいれば、大きな荷物を持っているものもいる。情報過多だ。この時ばかりは、潜在下に逃げてしまいたいと思う。

 

 顕在都市『プロメテウス』が、彼女の指定した場所だ。駅前の金色の輪のオブジェのところで待っていると言っていた。長髪の女性に向けて声を掛ける。

 彼女はあの時とは変わらない笑顔で振り向く。

 彼女は高校の同級生で、主に顕在人として暮らしている。もちろん、そのときわたしは顕在人として生きていた。まさか自分がこうやって工場に勤めることになるなんて、そのころは思いもしなかった。

 自転車に乗って、たまに寄り道をして、分かれ道までは一緒に帰る。彼女はわたしの友人の一人だった。今でもそう思っている。

 両親がわたしが大人になるまでの金を払っていてくれたのは幸いだった。そのおかげで大学まではどうにか行けたけれども、卒業するときはちょうど顕在企業の就職難が騒がれていた。両親が潜在であったとしても、顕在企業に入ってやろうと思っていた。

 世間はそう甘くはなかった。

 おかげで、わたしは潜在人として就職することになったし――このように、たまにしか顕在して活動はできない。

 彼女はそんなことは関係なく、顕在の両親のもとで普通に大人になり、普通に生活している。きちんとした企業に入り、いつも顕在して仕事だってしている。そうやって稼いだ金でずっと顕在している。このランチだって、彼女にとっては普通のことだろう。

 普通の価値すら知らずに。

「変わらないね」

 彼女にはそう見えるのだろう。わたしは笑う。きっと嬉しいのだろう。

 『嬉しい』をこの身体で感じるのはいつぶりだろうか。身体反応からこの感情の区別ができない。判別不能の感情が、腹の底に沈殿していく。

 

 彼女が予約していたので、レストランにはすぐ入れた。川沿いの、静かなレストランだ。対岸にはプロメテウス系列の近代都市群が並んでいて、ウッドテラスは完璧に磨かれている。

 顕在ウェイターがテーブルに水を置く。生身の人間が表立って働いている店なんて、もちろんわたしの住む街にはない。

 メニューを見る。

 前菜からデザートまで付いている標準的なセットをどちらも注文する。

 彼女はビーフで、わたしは魚を選択する。おまけに食前酒がクーポンで付く。

 このランチに行くにも、わたしは高いコストを支払っている。この顕在都市のレストランに五感を保ったまま存在するのには、わたしの毎月の給料の半分くらいが必要だ。おまけに、子供の時の記憶へのアクセス権が必要である。これにも金がかかる。

 それから、服をどうしようとか、髪型を変えなければとか、そういった問題が発生する。

 彼女にはこれらの問題の後半しか見えていない。知識としては知っているのだろうけれども、給料から存在税を天引きされているような『会社』勤めには、わたしたちの払っているコストを理解できない。

 わたしたちは、わたしが存在コストを支払っている分だけ、多く存在できる。それはとても嬉しいことだ。嬉しいと悲しい以外の感情についても精査できるかもしれない。

 それはともかく、ランチに行ったのであった。

 アペリティフはラ・フランスとコリアンダーのカクテルだった。

「最近税金が増えて大変だよね」

 彼女の言う税金はおそらく消費税だろう。ものを消費するのは主に顕在人であり、顕在人は比較的資産を持っている。世界の資産のおよそ九〇%を、人口では一〇%を切る常時顕在人が所有していると言われている。彼女はかなり常時顕在人に近いらしいが、それでも生まれてから死ぬまでずっと顕在していられるとはわからない。

 消費税は、顕在人に対する累進課税のつもりで増税したのだろう。

 おかげで、このランチの支払いもかなり税金で水増しされている。

「わたしもあなたみたいに、たまに潜在して節約しようかな」

「潜在するのは、あまり楽しいことではないよ」

「そうなの? 苦しくないんでしょう? 」

「苦しくはないよ」

 ただし楽しくもない。顕在するときのあの独特な違和感を彼女は知らないのだろう。

 いっそのこと、このままずっと潜在していたい、在ることに対するプリミティブな嫌悪感。状態遷移の際の、頭の中がぐちゃぐちゃになってから整然と並べ直したような、居心地の悪さ。

 それらを潜在するときには感じはしない。感じはしないけれど、そこにはある。沈殿していく感情が、底に溜まっていく。引っ張り上げられるときに、身体に絡まる。

 これすらも仕込まれているのではないかとわたしたちは思わざるを得ない。不快感が。

 不快だから、ずっと潜在したいだなんて思ってしまう。そのほうが、都合がいいのではないかと。

「夢を見るんだ」

 それからわたしは日曜日の夢の話をした。彼らの中に潜ること。そうすると大きくなれること。この前はコヴェナントを爆発させたのだということも。

「確かにそれは、興味深い夢ね」

 わたしはもうめっきり夢なんて見なくなってしまった、と、彼女は言う。

「夢を見るなんて、思春期の特権でしょう。情報整備機能が発達していないから、現実を整理するために夢を見るの。もういい大人なんだから、そんなものは見ない」

「じゃあ君は、わたしが子供だとでも」

「顕在人からしてみれば、潜在人は子供みたいなものでしょう。不完全なんだから」

「きみがそんなことを言う人だなんて、思ってなかった」

 彼女はそのような差別発言をするようなタイプだとは知らなかった。現行法上では、潜在人と顕在人は同等の人権を持つとされる。しかし実際のところ、就職、居住地、教育などに差異が見られる。顕在人は『努力すれば顕在人になれるのだから』『貯金していなかった自己責任だ』と言う。

 差別発言を公の場で発すると非難される。

 私的な場で発すると小粋なジョークとなる。

「でも、仕方ないでしょう、同じ働きはどうやってもできない」

 わたしたちは知っている。顕在人の多くは世襲だ。つまり、両親が顕在できるような資金を与え、教育環境を整備し、まっとうな会社で勤務できるようにしている。顕在人であっても、単親家庭だとその子供の顕在率は下がる。

 このような事実は、顕在人の間にあまり知られていない。潜在人はどこかで知りながらも、行動できないものが多数だ。

 行動するための力――顕在化できるのは、潜在人の中でも資金がそれなりにあるものに限られる。また、どうにかして顕在人の末席に名を連ねられるようになったら、潜在していたときの意思を忘れてしまうことが多い。

 仕方ない。三次元で二次元と同じ思考はできないのだから。

 だけど、だからこそわたしたちは、諦めたくはない。

 わたしたち? 

 わたしは諦めたくない。そんな強い感情が自分の中にあるなんて、と思った。ほんとうにこれはわたしの感情だろうか。わたしの中にはある。

「それでも、あの夢は本当だと思いたいし――」

「あなたは夢を見ることだけでしか外界から情報を摂取できないの? かわいそうだね」

 そこから先は、あまり聞こえなかった。適当に相槌を打った。このことも、彼女は覚えていられるのだろう。

「こっちは潜在人とも区別なく接しようとしているのに、自分から離れていくなんて」

 一瞬先も。わたしの記憶はもうすぐなくなる。店を出て、電車に乗ったら、セーブモードにしないと今月食っていけない。輪郭がどろどろになる。実際そうじゃないことは知っている。

 だけどわたしにとっては液体だ。電車はわたしを流動体にする。水は水と混じっても苦痛を感じない。なんの障壁もない。油と混ざることはできない。

 水が油に混じれないことを悲しみと呼ぶのだろうか。

 

 セーブモードのわたしは夢を見る。日曜日でもないのに。彼女と普通に接していた頃。授業、今となっては何の役にも立たない教養、面白くない演劇、友人関係、それらはすべて潜在しているときの特権だった。

 『あなたたちは偉大な存在です』

 上司の声が浮かぶ。一回しか会ったことのない上司。

 『顕在人にはできないことです』

 ありがとう教養。わたしの脳裏にはカースト制という単語が浮かぶ。

 『給料は保証します』

 保証されていた。顕在人にはなれない程度の給料。どれだけ働いたって、この生活から抜け出すのは難しい。

 『あなたたちには昇給のチャンスがあります』

 チャンスはある。査定はされない。この仕事をやめたところで、技術もなにもないただの潜在人を雇ってくれるところなんてない。

 『よくやったな』

 両親の声がする。両親よりはましな環境なのだ、これで。両親は工場ですら働けない。顕在コストを払って外出できない。だからもうわたしは両親に会えないし、両親それぞれが会うこともない。

 ふたりが会えないのはわたしのせいだ。わたしを養育したからだ。

 わかっている。わかっているんだけれどもわたしにはもうどうしようもない。

 起きたら彼女の連絡先を消そうと思う。起きる? どうやって? 何として? 

 

 家に着いたらまたわたしはわたしの部屋の惨状を見ることとなる。だけどもうわたしは顕在していない。どんな服を着ていただろうか。どんなものを食べたのだろうか。どんな人に会って、何を言われて、ここまで来たのだろうか。

 そういった記憶は雲の上にある。アクセスはできる。

 だけど再現されない。

 肌の上には寒気だけがある。この肌だって、寒気だって、本物ではない。

 顕在しているときの感覚が真実だというなら、ここに真実は一つもない。

 

 今日は土曜日の夜なので何も見ることはないだろう。

 明日は日曜日の夜だからまた彼らがわたしを呼ぶ。

 

 存在しなければ、眠ることもない。

 日曜日に眠らなければ、彼らには会えない。

 彼らに会えなければ、わたしはずっと、どこにもいない。

 

「自分のことなんかを考えるんじゃなくって、もっと有効に時間を使いなさい。私達に与えられた時間は有限なのだから」

 父ならばそう言うだろう。たしかそう言われた気がする。確たる記憶はないけれど。

 父も母ももう顕在しない。わたしのために財産を使い果たしたのだ。その気力の少しでもわたしにあったのならば、存在の再生産をやろうと思ったかもしれない。

 いいと思えるパートナーもいた。

 彼(便宜上彼と表記する、顕在時に彼は男性体を好んで使用した)はよい存在だった。彼とパートナー契約を結んで家政婦のような暮らしをすれば、わたしは今も大学時代の友人のように顕在できただろう。

「彼女ならともかく、結婚するのに潜在上がりはちょっとね」

 親族との顔合わせの際に、彼の係累はそう言った。わたしは反論する言葉を持たなかった。わたしの両親はもちろんここにはいなかった。ここにいられるようなひとだったら、こんなことは言われなかった。

 彼はよい存在だった。彼の係累は世間的にはよい存在とされていた。

 彼は係累の言に従った。今ではきっと顕在生まれのパートナーと一緒にいるのだろう。

 

「自分のことなんかを考えるな」

 つまり、稼ぐ方法を考えろというわけだ。

 わたしはささやかな思考リソースを割いたけれども、それで思いつく程度のアイデアはすでにこの世界に存在するだろう。

 だから自分について考えるしかない。どうしてこうなったかはわかっている。わかっているからこんな思考は自傷行為のようなものだ。

 

 『通勤電車』に乗って、平日をやりすごして、日曜日の夜が近づいていく。

 

 自動的な思考はわたしたちのものだ。わたしのものではない。顕在人による虐待から救われよ。わたしたちはそう思う。わたしはどう思う。

 母は言うだろう。「虐待なんてされていない。最初から、そうあるだけ。社会が、そうなってる」

 社会がそうなっていることを差別と呼ぶのだと、社会的な虐待であるのだと、認められるだけの慣性や知性を母は持ち合わせていなかった。それだけなんだよ、わたし。

 わたしたちは願う。潜在人による顕在人の支配を、逆転を、どうにかしてみなを引っ張り下ろすことを。

 本当に? 

 

 わたしたちは彼らだけれども、わたしは彼ではない。

 そもそも、彼なんていない。集合体だ。集合体として、わたしたちは『わたし』を行使する。それとも、わたしがわたしたちを行使しているのだろうか。

 身体の話をしよう――便宜上、顕在時の。

 わたしたちの身体は集合体だ。協調する肉体だ。原子レベルの話をするならば、組み合わされた原子がゆらゆらと吹き溜まっては流れていく、流動体の一種だ。細胞の話をするならば、個々には意思はなくとも、意思のあるように振る舞える生体だ。脳という臓器がすべてを司っているように見えたって、意思決定と身体の動作ならば後者が微かに早い。

 ならば、それを構成する要素が存在しなくたって、協調する身体を生み出せるのではないだろうか。というか、それはもうひとつの顕在人と変わりないのではないだろうか。

 わたしたちはそう考えている。

 わたしはそうは思わないかもしれない。

 

 細胞の一つが抗ったところで、細胞は死ぬだけだ。

 ならばわたしたちは? 集合体の意思はどこにあるのか。

 統計なのか。そんなにシンプルだったら、わたしたちはわたしなんて生み出さない。

 

 わたしは瞳を閉じる。今のわたしに、顕在時に瞳に当たるところはないのだけれども、眠るときは、そうする、と考える。

 眠れば彼らが迎えに来るだろう。今度はオレンジ色のボールを壊すことを強いられるのだろう。あれは強制的な思考なのだろうか。わたしは正義の味方なのだろうか。潜在人を顕在暴力から救うための。

 そうしたら、誰かがわたしを正義の味方と呼んでくれるのだろうか? 顕在人を倒したから? 顕在都市を壊したから? ずっといろいろな街を壊しているような気がするけれども、それによって顕在人の社会が壊れる気配はない。自分の生活が楽になっているような実感もない。

わたしがまっとうに存在していない以上、夢想が叶う予定はない。宝くじにでも当たらなければ、わたしそのものはニュースにならない。『わたしたち』がニュースになるのかもしれないけれども。それ以前に、『わたし』は誰にも観測されない。

かつてどんなひとでも死ねばニュースになったらしい。事件の被害者として、一瞬名前が報道されて、顔が表示されて、視聴者は適当に悲しみ、そして忘れる。

今となってはそれでさえいいほうだと思える。街を爆破したって名前は報道されない。もちろん捕まらないのだからそれでも良いのかもしれないが。知られない。わたしがコストを払えなくなり、このお世辞にも美しいとは言えない部屋から出られなくなって、顕在世界的には死を迎えたとしても、ニュースにはならない。観測されないからだ。

 たとえ五分間でも英雄になれる時代ではないのだ。

 

 それは日曜日のこと。

 彼らがわたしを呼ぶ。

 答えなければいいのかもしれない。逃げ去ってしまえば。後ろを向いて、どこかに行ってしまえばよいのかもしれない。目を覚まそうとする。どうすれば夢から出られるのか。目覚めるしかない。日曜日の夜はずっと起きていればよかったのかもしれない。


 ここに来い。

 中に入れ。


 こことはどこ? 中とは何? 

 問いはすべて空気のうちに溶けてしまう。ここに空気なんてなさそうだけれども、そうやって形容するしかない。空間が何もかもを吸い取ってしまう。わたしの問いも、わたしの悩みも、わたしの自我も。わたしたちとわたしの境目も。

 空間。

 空間を隔てて、彼らは佇立する。

 ぼんやりとした塊に見える。触ると弾力があるのを知っている。どこまでも落ちていく感覚も。

 何度見た夢なのだろう。とりあえず、彼らの中に潜る。落下する。浮上する。顕在都市が見える。その名は『プロメテウス』。聞き覚えのある名前だ。彼女の記憶がポップアップする。彼女のことを思い出す。きっとその街に住んでいるのだろう。

 ランチの記憶。彼女がわたしを理解しないこと。自然な暴言を吐くこと。彼女を許したくないこと。

 巡る感情の中、次のターゲットが示される。白くて角ばっている立体だ。これを壊せば、おそらくはこの街のどこかが破壊される。

 よかったじゃないか、彼女も死ぬかもしれない。わたしは彼女に死んでほしくはない。ただ。

 ただ?

 何があればわたしに報いられる?

 

 彼らに応えたら何かを破壊することになるのだろう。明日のニュースになる。明日のニュースになって、わたしはささやかな満足感を得る。誰かが死んだのだ。死にはしなくても怪我を負ったりする。

 夢だと言い張るには現実に近い。全部が偶然だと言い張れそうにもない。現にわたしはそれらの因果関係に頼って自我を構築している。

 

「わたしは、やりたくない」

 

 たとえ顕在都市であろうとも。顕在人がわたしを虐げようとも。わたしがいい暮らしなんてできなくとも。彼女と二度と話すことなんてなくても、それでもだ。

 わたしは正義の味方になりたい。

 これまでずっと流されていた。彼らが望むからわたしは望み、わたしたちが憎むからわたしは憎んでいた。それより前に、両親が望んだから生きて、失敗して、潜在人として生きている。

 潜在人として夢を見ている。

 わたしたちは正義になりたい。正義は多分、物を壊すことでは達成できない。わたしたちの含有するわたしは、どうかはわからない。

 彼らは動かない。

 わたしの意思のおかげなのだろうか。これは彼らの意思ではないのだろうか。わたしは。

 わたしはどこにいるのか知らない。上からの光景はそのままある。このまま日が昇ったらどうなるのだろうか。この光景にずっと取り残されるのだろうか。これが『わたし』の意思なのかもわからない。わたしたちを構成する誰かも同じことを思っているのかもしれない。

 ともかく、彼らは動かない。

 

 それは日曜日のこと。

 次の日曜日もそう。

 その次だってそう。

 わたしは、わたしをなすべきものとして、存在させる。

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